イエロー・マジック・オーケストラの出発点は細野晴臣のアルバム「トロピカル・ダンディー」
国内最大規模の国際音楽賞『MUSIC AWARDS JAPAN』(以下:MAJ)がいよいよ開催される。そして、今年のMAJを象徴するアーティスト「SYMBOL OF MUSIC AWARDS JAPAN 2025」としてYELLOW MAGIC ORCHESTRA(以下:YMO)が選ばれているのは周知の通り。
そして、MAJ授賞式を前にした5月20日には国立京都国際会館にて、トリビュートコンサート『MUSIC AWARDS JAPAN A Tribute to YMO -SYMBOL OF MUSIC AWARDS JAPAN 2025-』が開催される。Re:minderではこれを機に、YMOの足跡を改めて紹介していこう。
イエロー・マジック・オーケストラの出発点「トロピカル・ダンディー」
1979年9月、イエロー・マジック・オーケストラ(以下:YMO)のアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』がリリースされた。『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』は文字通りYMOを “世に知らしめた” 作品であると共に、テクノポップという概念を生んだ世界的名盤。ここではこのアルバムが誕生するまでの背景について簡単に振り返ってみたい。
はっぴいえんど(1969〜1973年)の解散後、細野晴臣は新たなオリジナリティを持つ音楽スタイルを模索していた。はっぴいえんど自体が、単なる欧米のロックのモノマネではないリアリティを追求したバンドだったけれど、細野はその解散後もキャラメル・ママ(細野、鈴木茂、松任谷正隆、林立夫)や、その発展形態であるティン・パン・アレーで、洗練されたサウンドづくりにトライ。同時にソロアーティストとして、そのコンセプトを追求し続けていった。
はっぴいえんど解散のタイミングで発表されたファーストアルバム『HOSONO HOUSE』は、ソロアーティストとしての自己点検ともいうべきプライベート色の強い作品で、録音も細野の自宅で行われている。それに対してセカンドアルバムの『トロピカル・ダンディー』では、トロピカル(=エキゾティシズム)というコンセプトが打ち出されており、収録曲にもトロピカルなイメージやオリエンタルムードを感じさせるものが多い。
けれど、この “トロピカル” とは、単なる南国趣味のことではない。そこには細野晴臣ならではの “戦略” があった。そう、1975年にリリースされたこのセカンドアルバム『トロピカル・ダンディー』の中にこそ、イエロー・マジック・オーケストラの出発点を見つけることができる。
国内だけでなく海外のリスナーがターゲット
細野が注目したのは、ハリウッド映画に代表されるトロピカル(=エキゾティシズム)だった。そこで描かれているのは西洋的価値観に立った “フィクションとしての南国や東洋” であり、それは実像とかけ離れた “異国趣味の産物” だ。ハリウッド映画で描かれる日本も、とてもリアルとは思えないものだった。そこで細野が取った戦略は、日本人(東洋人)として西洋至上主義の “独善的エキゾティシズム” に抗議するのではなく、あえてその世界に入り込んでみせることで価値観を逆転させてしまう… という “返し技” だった。
西洋的価値観でゆがめられた “エキゾティシズム” を面白がって見ているつもりでいるうちに、実はその作品に自分が見られている。そんな批評精神をもったポップミュージック。それが細野晴臣の “トロピカル” のコンセプトだった。そして注目すべきなのは、すでにこの時点で細野の視野は、国内だけでなく海外のリスナーをターゲットとして捉えていたことだ。
細野晴臣は、サードアルバム『泰安洋行』(1976年)でそのコンセプトをさらに推し進め、独自のオリエンタルテイストにあふれたユニークなポップミュージックへのアプローチを深化させていく。しかし、その作品はディープな音楽ファンには高く評価されたけれど、一般的には “趣味性の強い特殊な音楽” と見られることが多かった。
坂本龍一、高橋幸宏が賛同。固められたYMOの構想
それでも細野はそのコンセプトをさらに具体化させていく。4枚目のソロアルバム『はらいそ』(1978年)のアーティスト名義は “ハリー細野とイエロー・マジック・バンド” となっているが、これは『トロピカル・ダンディー』で打ち出した “トロピカル” を、よりストレートに “イエロー・マジック” として、それをバンドの形で表現していく姿勢の表明だった。
ちなみに、この “イエロー・マジック” とは、邪悪な呪術を表わすブラック・マジック(黒魔術)のもじりで、西洋に向けられた “東洋の呪術” というニュアンスが込められた造語だ。ちなみに細野晴臣はこれ以前に、ティン・パン・アレーのセッションアルバム『キャラメル・ママ』(1975年)で「イエロー・マジック・カーニバル」という楽曲を提供しているが、これが “イエロー・マジック” という言葉を使った最初だったと思う。
『はらいそ』も大きな反響は得られなかったが、この “イエロー・マジック・バンド” の構想こそがイエロー・マジック・オーケストラの原型だった。事実、このアルバムには坂本龍一、高橋幸宏が参加しており、細野晴臣は3人が揃った「ファム・ファタール〜妖婦」という曲のレコーディング時にYMOの構想を伝え、彼らの賛同で活動が決まったのだ。
アルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」に込めたコンセプト
細野が示したコンセプトは、1950~1960年代のアメリカで一世を風靡したエキゾチカのアーティスト、マーティン・デニーの《「ファイアークラッカー」をシンセサイザーを使用したエレクトリック・チャンキー・ディスコとしてアレンジし、シングルを世界で400万枚売る》というものだった。
そのヒントとなったのは、アルバム『アウトバーン』(1974年)でシンセサイザーによる魅力的なポップサウンドを聴かせ、世界的に知られるようになった西ドイツのグループ、クラフトワーク。そしてドナ・サマーの「アイ・フィール・ラブ」(1975年)など、こちらもシンセサイザーによるディスコサウンドで一世を風靡したイタリア人プロデューサーのジョルジォ・モロダーだった。
クラシカルなエキゾティック・サウンドを、エレクトロニクス・ディスコサウンドに変身させて世界に打って出る―― YMOのファーストアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』は、そのコンセプトがストレートに反映されたアルバムだった。文字通りエレクトロニクス・ディスコサウンドになった「ファイアー・クラッカー」をはじめ、細野によるエキゾチカ色の強い楽曲、さらにはコンピュータゲーム(スペースインベーダーなど)のサウンドを取り入れた楽曲など、いま聴くと実験的イメージの強い楽曲が目につく。
しかし、アメリカのA&Mレコードのプロデューサー、トミー・リピューマがこのアルバムを気に入ったことで、名エンジニア、アル・シュミットのリミックスにより1979年5月にアメリカで、6月にはイギリスでもリリース。さらに8月には、ロサンゼルスでザ・チューブスのオープニングアクトという形のライブデビューを飾り、大きな反響を得ていくことになり。
革新的ポップアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」
もちろん、こういったアメリカ、イギリスでの反響は日本にもフィードバックされ、YMOへの関心は一気に高まっていく。そんな最高の状態だった1979年9月にリリースされたのが、セカンドアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』だった。
細野晴臣のコンセプトが強く感じられたファーストに対して、このアルバムは、よりバンド的なダイナミズムとドライブ感を感じさせ、新鮮なポップアルバムとしてのニュアンスが強くなっている。音楽性の広がりも感じられ、難しいことを考えなくとも、心地よいエレクトロビートに体を委ねることで、それまで味わったことのない心地よい感覚に浸ることができた。
『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』は、まさに新しい時代を拓く革新的ポップアルバムとして、アルバム年間売上1位という大ヒットを記録。文字通り時代を動かしたといえる作品だ。テクノポップという時代を切り開いたモニュメントであるだけでなく、2025年の今聴いても音楽の様式を越えて心に響く、純粋な音楽のエネルギーを感じることができる。時代によって風化しないパワーと質があるからこそ、きっと次の時代にも聴く価値がある。そう思う。
Original Issue:2022/09/25 掲載記事をアップデート