今も残る戦争の影 こどもの国・弾薬庫跡
広大な自然の中に、広場や遊具、牧場などがある「こどもの国」。この時期は夏限定の屋外プールが家族連れで賑わう同園にも、第二次世界大戦の影を残す場所がある。
同園の内周道路沿いにぽつぽつと見られる、緑の扉で閉ざされた洞窟のような入り口。これは、第二次世界大戦中に使われていた、旧陸軍田奈弾薬庫補給廠の名残だ。かつてここは旧陸軍田奈部隊に管理され、戦地に送る弾薬の保管・発送・製造が行われていた。
この場所は、米軍が相模湾から上陸した際に首都攻防戦の拠点となり得ることや地質の適性等を理由に弾薬庫建設地に選ばれた。1938年に農家13軒の立ち退きが命じられ、建設に着手。敷地の西側が完成した41年に田奈部隊が発足した。
敷地内には火工場、熔填場、穿孔場、完成場、33の半洞窟式弾薬貯蔵庫、貯水池、陸軍兵器学校の分校があった。緑の扉は半洞窟式弾薬貯蔵庫の入口で、現在は10数基のみ確認できる。砲弾や地雷、手りゅう弾などが作られ、薬莢(やっきょう)に火薬を詰める作業には県立横浜第二中学(現・横浜翠嵐高校)と神奈川高等女学校(現・神奈川学園)の生徒が駆り出された。空襲はなかったものの、輸送中の爆発や通学中の事故などで数人の生徒が犠牲になったという。
終戦後、米軍に接収されていたが61年に返還され、65年5月5日に「こどもの国」が開園した。現在、弾薬庫は一部を除いて閉鎖されているが、同園HPや展示スペースでは園の歴史や当時の様子を知ることができる。園内にある高台「白百合の丘」には、「自分たちが作った砲弾で命を落とした人がいただろう」と心を痛めた当時の女学生によって96年に「平和の碑」が建てられた。「こどもの国」は今も、戦争の歴史を伝え続けている。