70年以上「鉄の肺」と共に生き抜いた弁護士 〜ポール・アレクサンダー
あなたはポリオという感染症をご存じだろうか。
安全性の高いポリオワクチンが普及した現代では、日本国内でポリオに感染する患者は極めて少なくなっているが、1960年頃まではポリオは幼い子を持つ親たちに、多大なる恐怖を与える感染症だった。
ポリオは、重症化すると体の様々な部位に麻痺を引き起こす病気で、呼吸を行うための筋肉が麻痺すると、患者は呼吸困難に陥り死亡してしまう。
ポリオによる呼吸不全を治療し、患者を生き永らえさせるために開発された医療機器、それこそが「鉄の肺」だ。
患者の胸郭をタンク内の圧力を変化させることにより、物理的に動かして呼吸を促す「鉄の肺」は、1950年代までアメリカを中心にポリオによる呼吸不全治療のために広く用いられていた。
アメリカ人のポール・リチャード・アレクサンダー氏は、この「鉄の肺」を用いて生き続けた最後の男と呼ばれる人物だ。
今回は「鉄の肺」の中で人生のほとんどの時間を過ごし、アメリカ人男性の平均寿命を越えて78歳まで生き抜いた弁護士、ポール・アレクサンダー氏の生涯に触れていきたい。(※本稿はポール・アレクサンダー氏の生涯に焦点を当てたものであり、医学的なアドバイスや解説を目的としたものではない)
6歳の時にポリオに感染
ポリオとは、ポリオウイルスによって引き起こされる感染症で、急性灰白髄炎、または脊髄性小児麻痺とも呼ばれる病気である。
「小児麻痺」の名の通り、5歳以下の子供がかかることが多く、ポリオウイルスに感染しても約75%の罹患者は無症状だ。
しかし発症してしまうと、軽度な症状なら発熱、のどの痛みや胃腸炎のような症状、重篤になると頭痛、感覚異常、首のこわばりなどの症状が起こる。
これらの症状は一般的には1、2週間のうちに回復するが、稀に重症化した場合、手足の筋肉や呼吸するための筋肉に永久的な麻痺が発生し、呼吸困難を起こして死亡する場合もある。
1930年代から1950年代初頭にかけて、アメリカ国内ではこのポリオが爆発的に流行した。
ポールが両親と共に暮らしていたテキサス州ダラスも例外ではなく、何百人ものポリオに感染した子供がダラスのパークランド記念病院に運び込まれた。
ポールもその子供たちのうちの1人で、1946年生まれの彼は、この時まだ6歳だった。
病院に運び込まれたポールは呼吸不全で瀕死の状態であったが、医師の判断で即座に「鉄の肺」に入れられて、一命を取り留めたのだ。
退院後も「鉄の肺」の中で過ごすことを余儀なくされる
約1年半の入院期間を経て退院したポールだったが、首から下の身体に永続的な麻痺が残り、呼吸機能も回復しなかったため「鉄の肺」の中で生き続けることを余儀なくされた。
ポールの両親は、ポータブル発電機とトラックを借り、鉄の肺に入ったままのポールを自宅に連れ帰ったのだ。
「鉄の肺」が無ければ呼吸すらままならず、ろくに身動きすら取れない生活の苦労は想像を絶するものだっただろう。
医師からも「長生きはできない」と告げられたが、ポールと両親は、人生を充実させることを諦めなかった。
退院後、間もない1954年頃から、ポールは両親と国立小児麻痺財団「マーチ・オブ・ダイムズ」や理学療法士の助けを借りて、リハビリを始めた。
懸命なリハビリの結果、ポールは舌咽呼吸を習得し、少しずつ鉄の肺から出られる時間を増やしていったのだ。
ただ、最大8時間ほどなら自力で呼吸ができるようになったものの、生命を維持するために「鉄の肺」は不可欠であった。
1967年21歳の時、ポールはW.W.サミュエルハイスクールを、クラスで上位から2番目の成績で卒業した。
「鉄の肺」の中で生きる彼が、実際に教室で行われる授業に出席することはなかった。
手足の麻痺によりノートを書くこともできなかったが、ホームスクールの授業の内容を丸暗記するという方法で、勉学に勤しんだのだ。
大学に進学して「学士号・法務博士号・弁護士資格」を取得
ハイスクールを卒業したポールは、奨学金を得てサザン・メソジスト大学に進学し、その後はより専門的に法学を学ぶために、全米でもトップクラスの大学であるテキサス大学オースティン校に編入した。
1978年、32歳の時に法学部で学士号を取得し、その6年後には法務博士号を取得、さらにその2年後の1986年には、オースティンの職業学校で法廷速記者向けの法律用語の講師として働きながら、弁護士資格を取得した。
ポールが弁護士として法廷に立つ際は、三つ揃えのスーツに身を包み、体をまっすぐに保てるように改造された車椅子に乗り、助手の介助を受けながら、依頼人の弁護に当たった。
時には遠方に出張することもあったため、車輪付きの「鉄の肺」を目的地に持ち込むこともあったという。
そして、30年に及んだ弁護士の仕事を引退した後、2020年74歳の時に、自らの人生を振り返る自伝を自費出版した。
弁護士時代と同様に「鉄の肺」の中で過ごすポールは、枕元に設置されたキーボードを口にくわえた棒で操作したり、口頭で述べた文章を友人に代筆してもらったりしながら、8年の月日をかけて自伝の執筆を行ったという。
さらに、ポールの人生が世界中に知られることになったきっかけは、彼自身が2024年1月から始めたSNSである。
https://www.tiktok.com/@ironlungman
ポールはSNSで、自分自身のこれまでの人生について語る動画を投稿し、2024年3月に亡くなるまでの約2ヶ月で、フォロワーは33万人以上に増えた。
2024年3月11日、ポールはほとんどの時間を「鉄の肺」と共に生きた人生を、78歳で終えた。
首から下の身体の自由を失い、冷たい金属製のタンクの中での生活を余儀なくされても、希望を失わずに生き抜いたポールの生涯は、これからも語り継がれていくだろう。
参考文献
Mark M. Griffith (著)
『Biography of Paul Richard Alexander : The iron will of a Polio Survivor (English Edition)』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部