大阪で旋風を巻き起こした伝説の番組『ミュージックガンボ』|谷村有美×佐藤竹善×塚越隆史インタビュー
FM802が開局した1989年6月から始まった『ミュージックガンボ』。後にJ-POPシーンをけん引していくことになるアーティストが日替わりでDJを務め、音楽や日常について飾らずに話すスタイルが若者から圧倒的な支持を集めた、伝説のラジオ番組である。なかでもトークに定評のある谷村有美と佐藤竹善、そして当時ディレクターを務めた塚越隆史氏が久しぶりに顔を合わせ、番組トークよろしく想い出を語り合った。
『FUNKY STUDIO 802 MUSIC GUMBO』とは?
FM802が開局した1989年6月から98年9月にかけて、夜10時から2時間生放送されていたワイド番組。曜日ごとにDJが替わり、佐藤竹善、吉田美和、桜井和寿、草野マサムネ、KAN、槇原敬之、谷村有美といった当時の若手アーティストや、伊藤政則などのプロのDJが番組を担当した。
声でバレちゃうくらい浸透率がスゴイんです
1980年代後半から90年代にかけての時期、多くのラジオ局が開設された。大阪を拠点とするFM802もそのひとつ。佐藤竹善は青森県出身、谷村有美は東京都育ち。関西出身ではない二人だが、大阪に溶け込むのにそう時間はかからなかった。
佐藤80年代後半に僕の地元の青森にもエフエム青森が開局しました。それまではFMといえばNHKしかなかったので、新しい局が増えたのはうれしかったですね。FM802のことは開局される少し前に知りました。当時、FM横浜でレギュラー番組をもっていたんですが、移動中の電車で大阪のラジオ関係の方にばったり出会って、話を聞かせてもらったんです。どういう局になるのか楽しみでしたね。
谷村開局と同時に番組を担当させていただけたことは、後で思うと本当にありがたい経験ですし、幸せだったと感謝しています。私なんてデビューしたばかりで、海のものとも山のものともわからない頃だったので(笑)。最初にお話をいただいた時は「毎週大阪に通える!」といううれしさがありました(笑)。
佐藤それは大きいよね。しかも毎週、生放送ですよ。僕は開局してから半年後に番組の担当になったんですけど、開局してそんなに経ってないのに大阪の街にかなり浸透しているのがわかりました。
谷村FM802は関西ではとにかく圧倒的に支持を得ていて、メッセージ性も強かったです。特に開局当時は「バンパーステッカーキャンペーン」が行われていて、FM802のステッカーがたくさん配られていました。大阪中を走るすべてのクルマにステッカーが貼られてたんじゃないかって思うくらいに広がっていて、一大ムーブメントだった印象です。
佐藤なぜかスナックのドアにも貼られていました。それを貼るのがステータスみたいな感じになっていたんだと思います。
谷村ステッカーがいろんな所で見られるのと同じように、FM802は本当に大勢の方が聴いていて、関西に行くと声でバレちゃうんです。チケット売り場で「すみません、大人2枚」って言ったら、「あれ? あんた、ガンボの谷村有美?」って言われてしまうくらい声の浸透率がすごかったですね。タクシーの運転手さんは十中八九振り向いて、「聴いてるよ!」って。
佐藤そう。言われるよね。「ラジオと同じ声ですね」って(笑)。
谷村「本物だ! 聴いてるで! がんばりや!」って家族みたいに話しかけられてうれしかったです。
塚越FM局がたくさん開局するなかで、FM802は独特のカラーがあったので注目されたのですが、そのカラーを作ってくれたのはミュージシャンの方たちでした。
ヒット曲でもかけない曲があったりするんです
今では当たり前のように存在する“ヘビーローテーション”を開局当初から打ち出していたFM802は“音楽”へのこだわりを強く打ち出していた。
佐藤「こういう曲をかけたい」というのがすごくわかるFM局でしたね。試験放送期間に大阪に行った時に立ち寄ったりしたんですけど、かかってる曲がすごくシャレてる曲が多かったんです。「こういう曲をかけるんですか?」って聞いたら、「こういう曲だけじゃないけど、こういうイメージでいきたいんです」って言ってて、思わず、「こういう音楽で数字(聴取率)が取れるんですか?」って言っちゃいました(笑)。「でも、がんばるんです」って言ってて、実際にそういう方向性でうまくいったワケですからね。すごいなって思います。ヒット曲、歌謡曲、演歌をかけないというのは結構勇気がいることだと思うし。
塚越いやいや、ヒット曲はかけるけどね(笑)。
佐藤あ、そうだよね(笑)。でも、ヒット曲でもかけない曲があったりするんです。
谷村ランキング番組もFM802独自のカラーがありましたよね。
佐藤そうそう。「この曲はかけない」じゃなくて、「この曲は他の局でもいっぱいかかってるんだから、うちがかけなくてもいいでしょう」って感じなんです。「その分、他でかかってないこの曲を流してあげたい」ってね。そういうスタンスだからアーティストはリスペクトしますよね。「FM802だったらかけてくれる」って。
塚越“FUNKY”というのがFM802のテーマというかキーワードみたいになっていたので…。
谷村その“FUNKY”につながるのかもしれないですけど、とにかく活気がありました。局自体が部活みたいで。ある日、局内にスノーボードがいっぱいあって、「なんですか?」って聞いたら、「みんなでスノボ始めるねん、これで!」ってプロデューサーの方とかDJの方とかが全員ロビーで練習してる。そんなノリなんです。この部活みたいというのは決してアマチュアとか仲間内というのではなくて、一人ひとりが本気で全力で“カッコいい!”と思えるものを追求して、バリバリにとんがっていて、個性が豊かなプロフェッショナル集団です。無邪気に全力で取り組んでいるその熱量が半端ない。だからこそ、最高にカッコよくて、あったかくて、我が家みたいな場所に感じたんだと思います。
佐藤局の中にバーカウンターもあって、お酒が並んでいて、夜になると飲んでるアーティストもいて…。
塚越それが「FUNKY BAR」でした。
佐藤そのバーでアーティストが演奏したり。
谷村それを生放送したりしましたよね。
佐藤そういうことをやっちゃう空気が、そのまま電波に乗ってるのがFM802なんです。
初回に届いたファックス「お前、誰や?」
局のカラーを最初に作ったのが、二人も担当した番組『FUNKY STUDIO 802 ミュージックガンボ』だった。
谷村私はもともと、テレビで朝の情報番組を月曜日から金曜日まで担当させてもらっていて、その曜日を少し減らして、FM横浜やTBSラジオやNHKFMのお仕事を始めさせてもらうようになりました。そこに『ミュージックガンボ』も始まって、FM 横浜が金曜日に2時間、ガンボが水曜日に2時間、TBSラジオが木曜日に2時間、NHKが隔週で3時間という感じです。どの番組にもフリートークがあるわけですよ。話す内容を「水曜日にこれを話して、木曜日にこれを、金曜日はこの話」と、前もって振り分けておくのに、いざ「こんばんは」って生放送が始まっちゃうと、段取りをすべて忘れて全部話しちゃうんです。
佐藤ハハハハ。わかる(笑)。
谷村結局、翌日も同じトピックを話すことになるんですけど、自分が飽きてしまう。いかに新鮮な気持ちで、同じトピックを違う切り口でおもしろく話せるかを、意識して話すことにしました。それが結構大変で、毎週千本ノックを受けてる気持ちで鍛えられました。
佐藤僕もラジオを始めた時の話をしちゃいますけど、最初にラジオの仕事をしたのはエフエム青森でした。デビューの1年半くらい前に、エフエム青森のディレクターから「デビューしたらラジオやらなきゃいけなくなるから」って言ってくれて、番組をもたせてくれたんです。『佐藤竹善のSING LIKE TALKING』というシュールな番組タイトルでした(笑)。
谷村えぇ! おもしろい(笑)。
佐藤その時は30分番組だったんですけど、アドリブなんて一切話せないから一字一句(台本を)書きました。「あの〜」とかも含めて。そこで1年間鍛えられて、その後、東京とかで番組を始めて、一字一句書いていたのが箇条書きになり、どんどん減っていって『ガンボ』をやる頃には書かなくても大丈夫になりました。
谷村それは録音?
佐藤そう。本当に読んでるだけって感じ、棒読みで(笑)。
谷村青森弁だったんですか?
佐藤いやいや、標準語で。
谷村竹善さんの青森弁のDJ、聴いてみたい気がします(笑)。
佐藤青森でのライブではMCが青森弁なので、バンドメンバーもMCの間は外タレのバックをしている時のような顔をしています。「何しゃべってんだ?」って。
谷村そういう感じになりそうですよね(笑)。あ、これもラジオのお仕事を始めた時のことなんですけど、20分くらいの録音番組でオープニングに3分のフリートークに苦労した時期があったんです。生放送の番組を担当する時に、スタッフの人にからかわれたんだと思うんですけど、「ラジオは7秒間沈黙したらスタッフが1人責任をとっていなくなるから気をつけて」って(笑)。
佐藤プレッシャーだね(笑)。
谷村そうなんです! すっごいプレッシャーを感じて、間を空けちゃいけないって思って、ダーッとしゃべってました。テレビのお仕事は逆で、その7秒くらいの間に全部まとめてあいさつをして送り出して、というのをギュッと詰め込まないといけないので、それはそれで緊張しましたね。
塚越二人ともそういうラジオでの経験があったからだと思いますけど、『ガンボ』を始める時にはすでにベースができ上がっていました。
谷村『ガンボ』は2時間の生放送でレスポンスも早く反響も大きかったです。リスナーの方とのやり取りもあり、全部受け入れてくれる感じで本当に楽しかったです。
佐藤電リクもあったでしょ?
谷村はい。リクエストの電話を受けるスタッフの方が大勢いましたね。電話の量もすごかった。
佐藤たまに、わざと俺が出てみたりして、かけてきた人がビックリしてた(笑)。あと、当時はファックスでした。最初の放送で「お前、誰や?」ってファックスが届いたんです。ADの子がそれを隠してくれてたんですけど、隠し切れてなくて俺が見つけちゃって。「これ、読む!」って言って、「『お前、誰や?』って、お前が誰か言え!」って生放送で言ったんです。そしたら、その人から返事があって、「すみません! これから毎週聴きます!」って(笑)。それが、大阪の空気をつかんだような気がした出来事でしたね。東京とか横浜の番組だとそういうファックスはあり得ないですし、そういうボケとツッコミみたいなやり取りができるというのも大阪らしいなって。
塚越ミュージシャンの方がラジオ番組をもった時によく言うのが、「ライブとはまた違うお客さん(ファン)とのつながりを感じたり、新曲やライブの感想がすぐに聞けたりするのがうれしい」ということです。
谷村それは私も思いました。ライブとはまた違うものだなぁって。他にも、相談コーナーがあって、軽い恋愛相談内容から、結構重めの「これ、どうする?」っていうものまであって。そうしたなかで歌のヒントもいただきました。「優しいのにも程がある」っていう曲は、女の子からの「彼の気持ちがわかりません」っていう相談をヒントに作りました。
佐藤みんなあるんじゃないかな。直接的じゃなくても、リスナーとのキャッチボールのなかでヒントが生まれたりしているはずだから。
谷村その方が実際に体験したリアルな言葉ですからね。
塚越恋愛や人生の相談を受けたら、その人と一対一でしゃべってるようなテンションになって、止まらなかったよね(笑)。
佐藤僕のところにも恋愛相談がたまにきたけど、その時は「これは有美ちゃんのところに送った方がいいよ」って返してました。「俺は答えられない!」って。『ガンボ』のDJをやってるアーティストたちだけのイベントもやりましたよね。普段の自分たちのコンサートとは違う客層だったし、おもしろいイベントでした。有美ちゃんとデュエットもして。
谷村竹善さんとのデュエットが私の初デュエットでした。
佐藤あれが初だったの? 他にもミスチルの桜井(和寿)くんとも歌ったなぁ。
塚越打ち上げでも二人で歌ってたよね(笑)。
佐藤歌ったねぇ。打ち上げにはスタッフも参加してたんだけど、社長も来てたんです。社長も一緒にっていうのがよかったんです。FM802は、「MEET THE WORLD BEAT」という大きなイベントをやったり、クラブサーキットの「MINAMI WHEEL」っていうのを開催したり、FM局だけどアーティストを応援、育成する場を作ってくれてるのがすごいと思ってます。
震災の時に感じたラジオの必要性
二人が番組を担当していた期間のなかで忘れられない大きな出来事があった。95年1月17日午前5時46分52秒に発生した阪神・淡路大震災だ。
佐藤僕は番組が終わった後、いつものように飲みに行って、朝の5時40分くらいまでミナミのソウルバーで飲んでたのかな。店を出て、タクシーでホテルに帰る途中で揺れた。揺れたんだけど、クルマに乗ってるからどれくらい揺れたのかはわからなくて。でも、道に割れたガラスとかが散乱しているのが見えました。ホテルに着いたらエレベーターが止まっていて、泊まってた部屋が20階ぐらいだったんですけど、酔ってましたから「走って行こう!」って。階段を登りましたが4階ぐらいから息切れして、なんとか部屋にたどり着きました。ニュースを見ても、まだ発生直後だったから被害がそれほど報告されてなくて。でも、寝て起きてからニュースを見たら大変なことになっていました。
谷村私はその日、郡山(福島県)にいました。ツアーの最終日が終わって、眠れずに起きているとテレビのニュースで放送局の室内カメラで「揺れてます!」という映像が映し出されて。翌朝新幹線の駅で号外を受け取ると、そこには倒壊した阪神高速の写真が大きく写っていて、変わり果てた様子に愕然としました。東京に戻ってNHKに入ってしばらく待機した後、番組の収録をしたんですけど、その番組は放送されることはありませんでした。すべてが停止してしまって、仕事も停止で自宅待機に。テレビから流れる映像に絶望の気持ちで無力な自分に葛藤するばかりでした。FM802の方と連絡が取れたのも数日後で、「すぐにでもボランティアに行きたい」って伝えたんですけど、塚越さんに「そんなに甘いものではない」と言われて、自分が思っている以上に大変な状況なんだと実感しました。
塚越その震災で、ラジオの必要性を感じました。情報を伝えるだけじゃなく、安否確認にも役立てると思いましたし。
谷村いつもリクエストや相談のファックスを送ってくれるリスナーの皆は、大丈夫なのかな?って心配になりましたし、逆に、FM802の方たちも震災で大変なのに「有美ちゃん大丈夫?無事なの?」って心配してくれて…。震災直後の大阪厚生年金会館大ホールの追加公演は忘れられません。久しぶりに番組が再開してもまだまだ余震が続いていて、かける曲が思いつかなくて生放送で歌ったりしました。
佐藤震災後って自粛ムードがあって暗い曲しかかからなかったんですよね。「これ、なんとかならないかな?ちょっと違う気がする」って思って、「よし、あれをかけよう!」ってことでアレサ・フランクリンの「Oh Happy Day」をかけました。そうしたら「避難所でラジオを聴いていても暗い曲ばかり流れてきます。そんな時にこの曲が流れてきて元気になりました」って、避難されてる方が多分コンビニとかから送ってきてくれたんだと思うんですけど、それがすごくうれしかったです。
「ただいま!」って感じで番組にきていました
『ミュージックガンボ』以降も多くのラジオ番組を担当しているお二人。今振り返ってみて、『ミュージックガンボ』はどのような番組だったのかを最後に聞かせてもらった。
谷村担当していた水曜日は、私にとって一週間のスタートでもあり、リセットでもありました。当時は新幹線移動が多くて、3時間半有意義に過ごせていましたね。東京駅のキヨスクで雑誌とスポーツ紙を全部買って、あらゆる話題すべてに目を通しておもしろそうな記事があったら自分のなかでストックする!つもりで読みあさりました。週に一度大阪に行けるのはうれしかったですし、FM802の皆さんがいつもはっちゃけていて、とんがっていて、でも番組作りにしっかり向き合っていて、すごい方ばかりだったので常に刺激をいただいてました。
塚越そんな準備をしてたんですか?基本的に真面目ですからね。
谷村いえいえ、そんなことないですよ(笑)。
塚越でも、そんな谷村さんもだんだんリラックスしてきて、自分の部屋、自分の場所でしゃべっているような感じになってきて、それがすごく魅力的でした。
谷村「ただいま!」って感じで番組にきてました。ちょうどその時期、『FMステーション』の人気投票で5年くらいナンバー1にさせてもらって、そういう輝きをいっぱいいただける場所になっていました。
佐藤僕はラジオがすごく好きで、小学4年生の頃から耳元にラジオが鳴ってないと眠れないくらいでした。文化放送でみのもんたさんがDJをやってた頃から聴いてます(笑)。あと、『オールナイトニッポン』ですけど、モロに通ってきてます。FMっていうとオシャレなイメージがあると思うんですけど、僕は“FM”よりも“ラジオ”自体に思い入れが強いので、僕が勝手に作った決まり事ですが、オシャレな曲をかければかけるほど、オシャレなトークは絶対にしないでおこうと思いました。それは、オシャレとして音楽を聴くのではなくて、普通によいものとして聴く感じで紹介したかったからなんです。ゲストにいろんな方が来てくれたりして、その時にしゃべったことがすごく勉強になったんです。特にカフを下げた時のトークが(笑)。桑田佳祐さんが来てくれたり、近くにブルーノート大阪があったからチャカ・カーンやクール&ザ・ギャングがライブ終わりに来てたりして、ミュージシャンという部分の土台がこの番組とFM802で形作られた感じがしています。
谷村そうなんですよね。ゲストの方の他に、アーティストの方がキャンペーンで必ず訪れる局なので、著名なアーティストの方が普通に局内を歩いているんです。そういう方とごあいさつしてお話をしたり、番組にも遊びに来てくださったり、そういうところも刺激的でした。普通に放送していたら、誰かが「うわぁ!」って騒いでいるから、誰かと思ったら泉谷しげるさんで、乱入して帰るとか、そういうこともありました(笑)。
塚越おもしろい場所だったよね。竹善さんが言ってるように、下世話な話からオシャレな話まであって、でも全体的にはいつも音楽の話をしているっていう。
佐藤僕の番組の後に入ってるアーティストが、少し早く来てごあいさつしてくれたりするんです。レミオロメンの藤巻亮太くんとか、後に出世していくわけですけど、その時の思い出が大きいらしく、「がんばってね」って言われたことが励みになりましたって。番組の最後に「この後は誰々です。あ、今いますね。今日は楽しそうな話をしそうな顔してるよね」って、ちょっと煽ったりして(笑)。でも、それがうれしかったっていってくれたんです。
塚越ちゃんとバトンをつないでいたワケですね。
谷村そういう交流が素敵だなって私も思いました。「いい音楽をやってるね」「がんばってね」っていう気持ちが常にあって、応援され、リスペクトし、自分も力をもらう。「常に何かが始まる」そういう場所でした。ご恩返ししていきたいと思っています。