現存する中で最も古い城掟が残る国史跡「鏡山城跡」の歴史【東広島史】
東広島にまつわる歴史を探り、現代へとつなぎたい。郷土史のスペシャリストがみなさんを、歴史の1ページへ案内いたします。
執筆:天野 浩一郎
鏡山城跡(かがみやまじょうあと)
(所在地:東広島市鏡山2丁目)
はじめに
周防(すおう)・長門(ながと)国(現・山口県)の領主であった大内氏(おおうちし)は、1360年代に安芸国(現・広島県)に進出し、勢力を拡大して1550年代中頃まで現在の東広島市の大半と呉市の一部を含む東西条(とうさいじょう)を治めました。鏡山城は大内氏が東西条統治のため築きましたが、1523(大永3)年に戦火で焼失します。
鏡山城跡は戦国時代の大内氏の地域支配の拠点を現在に残す貴重な遺跡として、1998(平成10)年に国の史跡に指定されました。
大内氏の安芸国進出
大内氏は西日本最大の貿易港博多を押さえ外国との貿易で巨利を得ていました。博多から京都に至る大動脈の瀬戸内海を押さえる必要があり、領国の東隣にある安芸国の拠点として鏡山城を築いたと思われます。
当時は南北朝時代で、朝廷が南朝と北朝に分裂し争っていました。大内氏は南朝方でしたが、北朝の足利義詮が出したと思われる「北朝方に変れば、安芸国は切取り次第」のような条件を受け入れ北朝方に変わります。
早速強力な軍事力を持つ大内氏は安芸国に進出し、この東広島地方の南朝方であった西条の西条氏(𠮷岡氏・山形氏)・河野氏・三戸氏、志和の東志和天野氏・堀天野氏などを攻め、安芸国を席巻します。
定かではありませんが、南北朝末期には西条に政治的拠点となる鏡山城を築いたと考えられます。西条の鏡山の地を選んだのは、「鏡山城跡周辺地形図」のようにこの地が交通の要衝であったことが挙げられます。
城の構造
城の遺構は鏡山の山頂を中心に約300㍍四方に広がり、東西に延びる尾根の両側を大きな堀切(外敵の侵入を防ぐ大きな溝)で遮断しています。山頂部の郭(くるわ)(崖に囲まれた平たん面)群、南郭群、北郭群の間に畝(うね)状の竪郭け(けんかく)群が存在し、威風堂々とした風情を醸し出しています。単に戦闘のためだけでなく、見せる工夫がなされていたと考えられます。
最高所の1郭は「御殿場(ごてんば)」と呼ばれています。「中のダバ(段場か)」と呼ばれる東側の2郭と共に本丸(ほんまる)(城の中心)に当たる主郭を形成し、周囲を急峻(きゅうしゅん)な13~23㍍の切岸(きりぎし)で防御しています。主郭には基壇や礎石などが露出しており、多くの建物があったようです。
また、「馬(午…南の方向か)のダバ」と呼ばれる3郭は、主郭に登る重要な郭で南斜面に畝状竪堀群を設けています。突き出したように配された4郭は南郭群へ通路が伸びており、大手門があったと推測されます。南郭群へ伸びる通路が大手道であったと推定されます。
5郭は「下のダバ」と呼ばれ、礎石建物跡や小規模な築山状の遺構もあることから会所のような接客空間があった可能性があります。
城内には井戸の跡が5カ所残っています。構造が確認された井戸の底には白色粘土が貼られ、溜(ため)井戸として造られています。多くの人達が城内で生活していたことが分かります。※(注1)
※(注1)第5回安芸のまほろばフォーラム「鏡山城 その歴史と意義」の「史跡鏡山城跡の概要」を基に記述
東西条支配の拠点〝鏡山城〟
大内氏は鏡山城をこの地域の政治的拠点と位置づけ、仁保弘有や陶興房(すえおきふさ)などの重臣を東西条代官(東西条郡代)に任命します。彼らは山口で多くの仕事を抱えており鏡山城には常駐はせず、「小郡代(こぐんだい)」と呼ばれる者に留守の管理をさせていました。
1478(文明10)年、大内氏は鏡山城を管理する城掟(しろおきて)「西条鏡城法式条条(さいじょうかがみじょうほうしきじょうじょう)」を定め、〝城衆(じょうしゅう)〟達には鏡山城への勤務を義務付け、城の毎日の普請などを要求しています。〝城衆〟は大内氏に忠節を尽くした褒賞として、東西条の中で領地を与えられた〝東西条衆〟のことで、東西条衆が鏡山城の主要な守備勢力であったことが分かります。
また、掟では城衆の知人でも城内に入ることは禁じられています。しかし、鏡山城は守護所であり代官所であったため、一般の人達が訴訟をおこし年貢を納めるような施設があったはずです。その場所は南郭群にあったと考えられます。なお、この城掟は現存する城掟の中で最古のものです。
1523年6月、鏡山城は出雲(いずも)国の尼子経久(あまごつねひさ)に攻められます。東西条代官の陶興房は山口にいて留守で、城は蔵田房信(くらたふさのぶ)・市地國松(いちじくにまつ)・黒瀬右京進(くろせうきょうのしん)らの東西条衆が守っていました。
一方尼子方は、大内氏に服していた国衆(くにしゅう)…領地を所有していた各地の豪族の高屋・平賀氏、吉田・毛利氏、志和・天野氏、瀬野・阿曽沼氏達が大内氏を裏切って尼子方に味方したので大きな勢力になりました。
この戦いについては、毛利元就(もうりもとなり)の策略による落城の話がよく知られていますが、軍記物による創作が多くて事実ではないようです。鏡山落城の最も重要な役割を果たしたのは、尼子経久から600貫余りの最も多くの所領を得た高屋の平賀弘保(ひらがひろやす)と思われます。
鏡山城跡の中心部の岩や礎石はほとんど火を受けて赤く変色し、火災の痕跡が顕著です。鏡山城は大勢の尼子方の激しい攻撃により焼け落ちたと考えられます。
尼子経久に不意を打たれ鏡山城を落とされた大内氏は、陶興房を総大将にして反撃にうつり、1525(大永5)年頃には安芸国の大半をほぼ回復したと推測されます。
陶興房はより比高が高い、盆地の西端(現・八本松町原地区)の杣(そま)城(曽場(そば)が城)に拠点を移し、鏡山城は廃されました。
※参考文献:「安芸の城館」他
プレスネット編集部