○○にスコープ 変貌する宮小路・青物町 栄枯盛衰、そしてこれから
大正期から戦後、高度経済成長期にかけて、長きにわたり小田原の繁華街であった宮小路・青物町。バブル崩壊ごろを境に人通りは減る一方だったが、近年になり息を合わせるようにして新しい店舗が続々と出店している。60年間にわたり、同エリアで時代の変遷を見守ってきた伊藤光さん(86)と、現在に至るまでの変遷を辿った。
「肩がぶつかる」
小田原の郷土史を後世に伝える活動をしている小田原史談会によると、同エリアの栄枯盛衰は「芸者の数がバロメーターになる」。大正期の全盛期は100人以上の芸者衆がいて、料亭で来客を楽しませたという。娯楽が多様化しキャバレーや映画館など新しい興業が生まれた後も、1950〜60年代までは約50人の芸者が街を歩き、隆盛に花を添えた。
呉服店や小料理屋、スナックやクラブなどが立ち並び、「肩がぶつかるほど」人がひしめき合っていた”良き時代”。商店会ができたのもこの頃という。青物町には70年代にアーケードができ、肉や野菜、洋服などを買い求める人が多く訪れ、商人の街として栄えた。
同エリアには路面電車が走っていたが56年に廃止され、時代は次第に自動車社会に移っていく。67年に西湘バイパスが開通。76年には小田原城近くにあった小田原市役所が現在の荻窪に移転するなど、時を経るにつれて人通りは自然と郊外や駅前に移っていった。
「火が消えた」
伊藤さんは、60年代から同エリアで「流し」を始め、70年代から昨年までラウンジ「ツー・セブン」を経営していた。「殿さまキングス」のボーカルとして一世を風靡した歌手、宮路オサムさんと組んで、デビュー前の下積み時代をともにしたことも。当時は17軒の料亭があり、自作の楽器を携え演奏して回ったという。
今でも料亭の名前と場所を空で言えるほど思い入れが深い。「この街とともに60数年を過ごした。とてもお世話になった」と話す。閉業、あるいは小田原駅前に移転していく店舗を横目に自身は同エリアに残った。そして、「火が消えたように静かになっていった」と変化の様子を語る。
「新しい感覚で」
減少の一途を辿っていた店舗数が、ここ数年で増加しているのは明るい兆し。周辺環境の変化や建物の老朽化などの影響で同エリアの家賃は下落。小田原駅前と比較して、相対的に出店のハードルが下がった。そこに目を付けた個人事業主が個性的なお店を続々と出店し、コアなファンを掴んでいる。スナックやゲストハウス、ジビエ料理、イタリアンワイン、コンセプトバー、ゲイバーなどバリエーション豊かな顔ぶれだ。
11月には新旧の飲食店が参加したはしご酒イベントが開催されるなど店舗同士のつながりも深く、街全体での盛り上がりを見せる。伊藤さんも「街全体が活気づくのは良いこと。昔とは違う新しい感覚で、この街がどう変化していくか興味がある」と期待を寄せる。
今まさに変貌のときを迎える宮小路・青物町。昔を知る人も知らない人も、足を運んでみては。