木久扇さんと日本橋。昭和12年日本橋区久松町生まれの東京っ子語り「日本橋は高速道路がない頃の印象が強いんです」
浜町も人形町も隣町、日本橋久松町の商家に生まれた林家木久扇さん。80年も前、三味の音が聞こえる粋な下町の心豊かな暮らしの日々を、つい昨日のことのように語る、愛嬌(あいきょう)たっぷりの笑顔と共に。
林家木久扇(はやしやきくおう)
昭和12年(1937)東京日本橋生まれの落語界の重鎮。1960年三代目桂三木助に入門。翌年八代目林家正蔵門下に移り「林家木久蔵」となる。1973年真打昇進。2007年親子W襲名により、林家木久扇に改名。2024年3月に55年間出演した『笑点』の大喜利メンバーを卒業。
チャンバラごっこに興じた小学校時代
僕の実家は久松町の雑貨卸問屋。竹ぼうきや磨き砂、ちり紙とかタワシとかを雑貨屋に卸す商売です。店の前にはリアカーを付けた自転車が5台は停まってて、注文があると配達するんです。「鈴木商店」て屋号で、番頭さんが3人くらいいました。父は小岩の生まれで、浅草橋だか大伝馬町の大問屋さんで丁稚(でっち)奉公から勤め上げて、のれん分けしてもらったんです。
うちの向かいにある久松小学校に通ってました。幼稚園も学校の付属ですから同じ場所、校舎の1階が幼稚園でした。友達もみんな近所に住んでた子。よくチャンバラごっこやってました。昔は遊びっていうとチャンバラか相撲。どこの学校にも土俵と櫓(やぐら)があってね。朝礼の時に二宮金次郎の銅像へお参りして。うちの左隣はボタン屋さん、右隣は病院。近所に醤油問屋があったけど、他にはあまりお店がなかったです。
歌舞伎に絵看板。明治座の思い出は尽きない
幼稚園にいると、おばあちゃんが迎えに来るんですよ、お芝居が始まるって。浜町の『明治座』はすぐそばでしょ。おばあちゃんは歌舞伎が大好きで、「ひろちゃん(本名・洋)、おばあちゃんが来たから行ってらっしゃい」って、担任の先生の粋なはからいでね、おおらかな時代でした。
でも歌舞伎なんて子供には分からないし、幼稚園にいるのに途中からいなくなるのが嫌だった。だけどおばあちゃんとお芝居に行く時は三段弁当を誂(あつら)えるんですよ! 上の二段がごちそうで、一番下が白いごはん。隣町にある「弁菊」っていう青島幸男さんのご実家が仕出し弁当を作ってて、多分そこから取り寄せてたと思うけど、その「のの字」の玉子焼き目当てでついて行きました。だから僕は幼稚園では「いつも途中でいなくなる子」。
『明治座』には出し物の大きな絵が掛かってて、芝居が替わるたびに降ろされるんです。それをじ〜っと飽きずに見てましたね。家に帰って反故(ほご)紙の裏に描いておばあちゃんに見せると、ほめてくれてお菓子をくれたんです。ご近所の家にも配ると「上手ね」ってお菓子を貰う。これで絵を描くとギャラを貰えることを覚えました(笑)。
うちの居間にはいつも三味線がぶらさがっていてね。お母さんは春日小春豊って小唄のお師匠さんだったんです、戦争が激しくなって、もう稽古をつけることもなかったけど、家で三味線を爪弾いたりね。花街というか、そういう独特の雰囲気をなんとなく子供心にも感じてました。歩いてると三味線の音色が聞こえてましたから。
同居してたおばちゃんは葭町(よしちょう)の見番の電話係で、中には芸者さんの稽古場もありました。そこへ僕もよく遊びに行ったんです。するとお昼ごはんをおばさんが作ってくれるんです。冷たいごはんに熱いお茶かけて青海苔ちらしてお醤油かけてね。これが好きだった! 時々芸者さんが「おはようございます」って通るといい匂いがしてねぇ。そういう街でした。
番頭さんの肩車で行った映画館と、昔日の『三越』の情景
毎晩夕食は外食。毎日家族とお店の人の食事を作るお母さんが大変だって、お父さんが決めたんです。近所の銭湯に行ってから「今日は何にする?」って。中華「五十番」とか『㐂寿司』ってお寿司屋さん、洋食屋の『芳味亭』とかね、そりゃぁうれしかったですよ。「五十番」の揚げワンタンてのが大好きで、味を覚えてますよ。
プリンも好きでね、子供心におしゃれを感じて食べてました。おやつはみつまめよりプリン。お祭りのお神輿(みこし)担いでると、商店の前にそこの好意でお菓子やラムネが置いてあって、かりんととかじゃなくてシュークリームなんですよ。僕、シュークリームの味はお祭りで覚えました。下町なのにおしゃれっていうか進んでたっていうかね。
人形町には3つ映画館があって、番頭さんの肩車で人形町松竹なんかに行きました。番頭さんは自分が見たい映画に連れて行くから、面白くないんですよ。『愛染かつら』なんて男と女が入ったり来たりしてるだけでしょ? 僕はチャンバラが見たいのに……。
昔の交通は川なんです。おばあちゃんと浅草に遊びに行く時も、浜町から水上バスに乗って吾妻橋まで。小学校の裏手にも川が流れてて、荷を積んだ船が通ると橋の上から大勢で「わ〜い!」って叫んでね。船が通り過ぎるとオシッコするの。船頭さんがものすごく怒るんだけど、川だから戻れないでしょ。いたずらばっかり(笑)。
都電に乗る時は水天宮まで歩くんです。ここからいろんな方面に行く都電が出てたから。水天宮のそばに駄菓子屋が5軒くらい並んでましてね、ベッコウ飴や金平糖を買ってもらった記憶があります。お小遣いなんて貰っていませんでしたから。都電はいつも一番前に乗って、路面を飲み込むように車が走ってるのを見るのが好きでした。
『三越』で印象に残ってるのは、1階の吹き抜けに本物の軍用機が吊るしてあったこと。戦意高揚のためでしょうけど、迫力がありましたねぇ。屋上に行くと、東京駅が見えるんです。汽車の発着も見えて、ポ〜〜なんて汽笛が聞こえる。「何番線にどこどこ行きが参りま〜す」なんてアナウンスの真似してね、ずっと見てました。
戦後も現在も変わらぬ、ふるさと日本橋との付き合い
空襲が激しくなって、小学1年で久松町を離れて、以来日本橋には住むことはなくなりました。でも噺家(はなしか)になって三木助の弟子になった時、グルメな師匠から、あちこち決まった店に買い物にやらされるんです。『草加屋』のお煎餅は金庫にしまうほど好きでした。富貴豆や玉子焼きも人形町でしたね。
師匠は人形町の「末廣」によく出てたから、前座でお供しました。古い建物の寄席で芸人とお客さんのトイレが一緒。志ん生と並んで用足したってお客さんが自慢したりね。ここのお席亭は怖い人で有名だったけど、戦後の久松小学校のPTA会長だったんです。僕が久松だって分かったら、ひとりだけ優しくしてくれて(笑)。
『三越』は落語会がありますから。帰りは『吉野鮨』に寄るんです。僕の席も決まってて、地元の人もいっぱいいるから、何の話をしても通じるんですよ。『髙島屋』の特別食堂には僕が好きな田村能里子先生の大きな絵があってね、そこの『野田岩』に行きます。
『丸善』では絵の個展を3回やらせていただきましたよ。『三越』の向かいにある『大和屋』のかつお節が好きで自分でよく買いに来ましたね。『木屋』って刃物屋さんは今でもコレド室町ん中にありますね。そこの團十郎って一番いいかつお節削り箱を使ってますよ。
日本橋の街の風景も随分変わりましたけど、歴史があってどしっとした重みがあって、威厳というか貫禄があるんですね。ちいちゃい頃に行った店がまだあるのはありがたいですね。やっぱりここは僕の故郷ですから。
日本橋『洋食・喫茶 カフェ ウィーン』でじっくりお話を伺いました
洋食・喫茶 カフェ ウィーン
住所:東京都中央区日本橋室町1-4-1 日本橋三越本店本館2F/営業時間:10:00~19:00(お食事18:00LO・喫茶18:30LO)/定休日:無/アクセス:地下鉄銀座線・半蔵門線三越前駅から徒歩1分
取材・文=高野ひろし 撮影=加藤昌人
『散歩の達人』2025年6月号より