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万葉集を読みとく3つのキーワード――佐佐木幸綱さんが読む『万葉集』#1【NHK100分de名著ブックス一挙公開】

NHK出版デジタルマガジン

万葉集を読みとく3つのキーワード――佐佐木幸綱さんが読む『万葉集』#1【NHK100分de名著ブックス一挙公開】

佐々木幸綱さんによる、『万葉集』読み解き

はじめに和歌があった――。

7世紀前半から8世紀半ばまでの歌、およそ4500首が収められた日本最古の歌集『万葉集』。

『NHK「100分de名著」ブックス 万葉集』では、佐々木幸綱さんが、大きく4期に分けられる作風の変化を代表的歌人の歌で辿りながら、日本人の心の原点を探ります。

今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第1回/全5回)

混沌・おのがじし・気分(はじめに)

 万葉集の研究・評釈は、昭和時代に入ってから一挙に盛んになります。『校本万葉集』の完成によって、信頼できる万葉集の本文が手に入るようになったからです。文庫本がでたりもして、一般の人たちも万葉集が読めるようになります。研究者はもちろんのこと、歌人たちも熱い思いを込めて万葉集の評釈に取り組みます。

 万葉集の原本はありません。後世に書写されたものが残っているだけです。後世に写された写本や断簡をできるだけ多く集めて、つき合わせ、可能な限り原本に近い本文テキストを復元しよう。こういうモチーフで『校本万葉集』が作られました。一番古い写本は、平安朝中期に写された『桂本(かつらぼん)万葉集』と呼ばれるもので、巻四の百九首と断簡だけが残っています。これをはじめとして江戸時代までに写された百三十五部(抄本・断簡を含む)のすべてを校合したのが『校本万葉集』です。編者は佐佐木信綱、橋本進吉、千田憲、武田祐吉、久松潜一の五人。明治四十五年(一九一一)から大正十三年(一九二四)までじつに十余年もの歳月をかけて作られました。本文二十冊、四千八百八十二ページに及ぶ大冊です。この成果をもとにして、昭和二年(一九二七)に漢字仮名交じりの本文テキスト・岩波文庫『新訓万葉集』(上・下)が出ます。広く安価に誰でもが万葉集にふれることができるようになったのです。ちなみに、この本ではそれを底本に用いました。

 こうして信頼できる万葉集の本文が身近になったので、歌人たちも万葉集の研究に打ち込めるようになります。昭和期に三人の歌人が万葉集全巻の注釈書を書き上げています。窪田空穂、土屋文明、佐佐木信綱の三人です。万葉集は何しろ四千五百余首もの大部な歌集ですから、単独で全部の歌の注釈を完成させるのは大事業です。近代の研究者でそれをなしとげた人はわずか十人しかいませんでした。そのうち三人が歌人だった事実に私は注目します。この三人のほかにも、斎藤茂吉、島木赤彦、尾山篤二郎といった歌人たちが注目すべき万葉集についての著作を残しています。

 ここでは、歌人たちの万葉集評釈の中から、三つのキーワードに注目したいと思います。それぞれに万葉集の一面を的確に言い当てているからです。

 三つとは、「混沌」「おのがじし」「気分」の三つです。「混沌」は斎藤茂吉『柿本人麿』、「おのがじし」は佐佐木信綱『評釈万葉集』、「気分」は窪田空穂『万葉集評釈』に出てくる用語です。万葉集を眺めるとき、この三つのキーワードを鍵にその特色を見るのが有効です。

 まず斎藤茂吉の「混沌(カオス)」。初期万葉集の作品を見るときに特に有効なキーワードです。古事記・日本書紀に挿入されている歌謡には、不定形の歌がかなりあるのですが、万葉集になると急激に整理されて、不定形歌はなくなり、ほぼ短歌と長歌に集約されます(旋頭歌(せどうか)六十二首、仏足石歌(ぶつそくせきか)一首とわずかな例外はありますが)。個人が短歌という定型歌を作るようになる前に、集団の歌つまり複数の声を抱き込んでいる歌があったと想定されます。たとえば村落共同体の全員が一つの歌を共有する、といったケースです。そうした歌には個人の歌にはみられない混沌(カオス)がある。この混沌(カオス)が万葉集の歌の大きな魅力だと斎藤茂吉は言っています。

 次に佐佐木信綱の「おのがじし」。人それぞれ、めいめい、といった意味です。現在の言葉で言えば個性的、個性尊重などが近いかと思います。これが万葉集の歌の特色だというのです。

 六〇〇年代後半、日本人は「今」を自覚し、人間の生がくり返しのきかない一回限りのものだということに気づきます。古墳の時代から火葬の時代へ移行します。日本ではじめて編年体の歴史書が書かれます。古墳の時代まではこの世と死の世界が地続きだったわけですが、火葬の時代になって生と死の世界が断絶します。ほぼ同じころに干支(えと)、四季のように循環していた時間が、くり返しのきかない流れゆく時間にとって変わられます。「今」はくり返せないということ、人間の生は一回かぎりだということ。そこに、おのがじしの生き方があらわれ、個の抒情が芽生えます。万葉集は、この個の抒情の誕生と深く関係しています。

 たとえば空に浮く雲もおのがじしの目でとらえられ、おのがじしの言葉で表現されるようになります。信綱は「万葉集の雲」という評論で古今集以下の勅撰集とちがって、万葉集だけに多彩な雲が登場する事実を指摘しています。「……色では白雲、青雲、時では朝雲、形では横雲、布雲、豊旗雲、浪雲、その状態については、立つ雲、ゐる雲、飛ぶ雲、いさよふ雲、行く雲、たなびく雲、かかる雲、延(は)ふ雲、横切る雲……」。万葉集の歌の多彩さは、万葉人たちが「おのがじし」を自覚したことによる、と言っていいでしょう。

 窪田空穂は、「気分」を万葉集の歌に見いだしました。万葉集後期の時代になってくると「個」の自覚がすすみ、「孤独」をうたう歌が多く見られるようになります。そういうなかで、「気分」という、流動的かつとらえどころのない心の状態の表現が生まれてきます。他者と共有できない本人だけの内部の深淵です。

 万葉集の成立は、言葉を換えていえば、日本における詩の誕生です。日本において詩が誕生した現場を見ようとするとき、この「混沌」「おのがじし」「気分」、という三つのキーワードは重要なポイントとなるでしょうし、万葉集を読むときの有効な手がかりになるだろうと思うのです。

著者

佐佐木幸綱(ささき・ゆきつな)
歌人。河出書房新社「文藝」編集長を経て早稲田大学教授。2009年より同名誉教授。2011年より「心の花」主宰。2008年より日本芸術院会員。歌集に『群黎』(第15回現代歌人協会賞・青土社)、『瀧の時間』(第28回迢空賞・ながらみ書房)、『ムーンウォーク』(第63回読売 文学賞・ながらみ書房)などがあり、「男歌」の歌人として知られる。その他の著書に『万葉集の〈われ〉』(角川選書)、『柿本人麻呂ノート』(青土社)、『佐佐木幸綱の世界』全16巻(河出書房新社)、『万葉集東歌』(東京新聞出版部)、『東歌』(筑摩書房)、『万葉集を読む』(岩波書店)などがある。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。

■『NHK100分de名著ブックス 万葉集』(佐佐木幸綱著)より抜粋
■書籍に掲載の脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛しております。

*本書における『万葉集』からの引用は、佐佐木信綱編『新訂 新訓万葉集』(岩波文庫)を底本にしていますが、漢字の旧字体は新字体に改め、本文も適宜、読みやすいように著者が改めました。なお、訳文は著者によります。
*本書は、「NHK100分de名著」において、2014年4月に放送された「万葉集」のテキストを底本として一部加筆・修正し、新たにブックス特別章「相聞歌三十首選」などを収載したものです。

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