#2 兄弟を倒した男はなぜ「名君」を目指したのか──出口治明さんと読むリーダー論『貞観政要』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
出口治明さんによる『貞観政要』読み解き#2
優れたリーダーに、優れたフォロワーになるために──。
『NHK「100分de名著」ブックス 貞観政要』では、リーダー論の最高峰ともいわれる『貞観政要』を、ライフネット生命創業者でAPU(立命館アジア太平洋大学)学長特命補佐・出口治明さんが読み解きます。
2025年7月から全国の書店とNHK出版ECサイトで開催中の「100分de名著」フェアを記念して、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第2回/全5回)
第1章──優れたリーダーの条件 より
名君誕生のいきさつ
『貞観政要』にその言行が記された唐の第二代皇帝、太宗・李世民(在位六二六~六四九)は、のちに「貞観の治」と呼ばれる太平の世を実現した名君です。太宗はなぜ立派な皇帝になれたのでしょうか。『貞観政要』という中国の古典をよりよく理解するために、まずは時代背景からお話ししたいと思います。
唐(六一八~九〇七)を建国したのは、李世民の父、李淵(りえん)です。唐の前に中国を統一していた隋(ずい)は、大運河をつくるなど土木事業を盛んに行って民衆を疲弊させ、周辺国への遠征に失敗したりするなど失政が続いたため、人々の反乱が起こり、わずか三十八年で滅んでしまいました。ちなみに隋と唐はともに、北方から移動してきた遊牧民にルーツを持つ王朝で、李淵は隋の第二代皇帝のいとこにあたります。
唐を建国するにあたって功績があったのが、李淵の次男、李世民でした。李世民はまだ二十歳を過ぎたばかりの若者だったのですが、李淵に挙兵を勧め、自ら軍隊を率いて敵対勢力を平定し、建国間もない唐を軌道に乗せる重要な役割を果たしました。
しかし、そんな李世民の活躍を快く思わない人もいました。それが、李淵の長男、李建成(りけんせい)です。皇太子の地位も弟によって奪われかねないと危惧した李建成は、四男の李元吉(りげんきつ)と図って、次男である李世民の殺害を計画します。その動きを察知した李世民は先手を打ちました。臣下らと謀り、兄と弟を殺害したのです。この事件は「玄武門(げんぶもん)の変」と呼ばれています。玄武門の変のあと、李世民は父の李淵を軟禁して実権を掌握。二十九歳にして第二代皇帝に即位しました。
李世民が皇帝となった背景には、実はこのような血なまぐさいドラマがあったのです。兄弟を殺して実力で帝位を奪い取った。このとてつもない汚名を返上するには、いったいどうすればいいのか。李世民が出した答えは、「優れた皇帝になること」でした。ひたすら正しい政治を行い、部下の言うことを聞いて、人民のために尽くし、贅沢をせず、業績をたくさん残してみんなに認めてもらうしかない。そう考えたのです。
李世民がこのように考えることができたのは、ひとつには彼自身が賢い人だったからです。加えて、そこには「易姓革命」という中国ならではのロジックがありました。易姓革命とは、王朝の交代について孟子(もうし)の考えに裏付けられた思想で、徳を失った王朝が天から見放され(天命が革まる)、王家の姓が易わる(変わる)という理論です。天は君主に人民を統治させていますが、その様子をいつもチェックしていて、悪政が行われていれば天災を起こして君主に警告を発し、それが無視されると、今度は人民に反乱を起こさせて、新しい王朝に取って代わらせるのです。
この考え方に従えば、滅んだ王朝の最後の君主は悪政を行った人、ということになりますね。実際に、隋の最後の皇帝である煬帝(ようだい)は、中国史を代表する暴君とされています。もちろんこのロジックには、現王朝の正統性を担保するために都合のいい考え方だという側面もあります。煬帝が本当にそこまでの悪政を行ったのかどうかは、評価が分かれるところです。
いずれにせよ、易姓革命と煬帝の存在は、李世民に大きく影響したと考えられます。というのも、煬帝と李世民は即位の事情が似ているからです。ともに次男で皇太子ではなく、肉親を殺したのちに帝位に就いている。おそらく李世民は次のように考えたのでしょう。煬帝は暴君ということになっているが、実は自分と似ている。ということは、人々の中には自分を悪く思っている人もいるだろう。このままではまずい。自分が立派な皇帝だと思われるためには、ひたすら自分を律して良い政治を行うしかない。そうすれば、のちの時代にもそう悪く書かれることはないだろう。同時に、易姓革命の思想にのっとって、煬帝のことは貶めるようにしよう。
こうして李世民は心を入れ替え、良きリーダーとは何かを一所懸命考え、それを実践する道を歩み始めたのです。
李世民を支えた臣下たち
李世民は皇帝として国を治めるにあたり、有能な臣下を数多く登用しました。中でもとくに有名なのが、房玄齢(ぼうげんれい)、杜如晦(とじょかい)、魏徴(ぎちょう)の三名です。彼らは『貞観政要』にもしばしば登場します。
房玄齢と杜如晦は、李世民が即位する前から彼に仕えていた側近です。玄武門の変にも加わっています。唐の諸制度をつくり上げた房玄齢は、貞観の治の立役者の一人。唐の成立当初は人材の養成や推薦に努め、組織編成に尽力しました。杜如晦の才能を見抜いて李世民に推挙したのも彼です。その杜如晦は、政治や軍事面で力を発揮しました。
一方、魏徴はもともとの臣下ではなく、いわゆる外様です。はじめは李世民の兄の李建成に仕えていたのですが、彼の死後、李世民に才能を見出され、登用されました。李世民は、自分に敵対したかどうかではなく、その人物の行動の根本原理を見て、重用するかどうかを決めていました。
魏徴は、かつて仕えた李建成に、「あなたの弟の世民は能力も野望も桁外れだから、早く殺しなさい。さもないとあなたが殺されます」と言い続けていました。しかし、優柔不断な李建成はその進言を受け入れることができず、結局は殺されてしまう。犯罪人として捕らえられた魏徴は李世民に、「あなたの兄上がもっと賢かったら、私は罪人にならずに済んだものを」と言ったそうです。これを聞いた李世民は、直ちに彼を側近として使うことを決めます。自分の殺害を計画した者の臣下であっても、実力があれば積極的に側に置いたのです。
上に立つ者の過失を遠慮なく指摘して忠告することを「諫言」と言います。魏徴は、この諫言を仕事とする諫議大夫(かんぎたいふ)という役職に就きました。そして、李世民が誤った政策を進めようとしたり、リーダーとしてやるべきことをやっていなかったりしたときには、進んで忠告を行いました。こうした事情もあって、『貞観政要』でもっとも多く登場する臣下です。
僕は、モンゴル帝国の第五代皇帝クビライを史上もっとも有能なリーダーの一人だと思っているのですが、彼は生涯にわたって自分にとっての「魏徴」を探し続けたといわれています。あれだけの大帝国をつくった大人物でありながら、自分にはまだ足りないところがあるかもしれないと思っていた。そして、それを指摘してくれる人を求めていた。魏徴のような人物は、とても稀有な存在なのです。
著者
出口治明(でぐち・はるあき)
ライフネット生命創業者。APU(立命館アジア太平洋大学)学長特命補佐。自身の経験と豊富な読書にもとづき、旺盛な執筆活動を続ける。おもな著書に『仕事に効く 教養としての「世界史」Ⅰ・Ⅱ』(祥伝社)、『ぼくは古典を読み続ける 珠玉の5冊を堪能する』(光文社)など多数。
※刊行時の情報です。
■『NHK「100分de名著」ブックス 貞観政要 世を革めるのはリーダーのみにあらず』(出口治明著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛している場合があります。
※本書は、「NHK100分de名著」において、2020年1月に放送された「貞観政要」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「たくましいフォロワーとして生き抜くために」などを収載したものです。