鈴木茂【公開インタビュー】① 日本ロック史に燦然と輝く名盤「BAND WAGON」50周年
日本のロック史に燦然と輝く名盤、鈴木茂のファーストソロアルバム『BAND WAGON』が発売から50年を迎え、『BAND WAGON -50th Anniversary- 2025』として新たにリリースされた。本人監修による2025年版最新リマスター音源を使用したCDと、ハイレゾ音源を収録したBlu-rayオーディオの2枚組、カラー盤アナログレコード、カセットテープの3形態の発売で、Blu-rayオーディオには2008年に制作された「微熱少年」「スノー・エキスプレス」「人力飛行機の夜」「夕焼け波止場」の未編集ロングバージョンも収録された。
発売50周年を記念した鈴木茂のトークイベント
このリリースを記念して、3月30日に “HMV record shop 渋谷店” にて、鈴木茂のトークイベントが開催された。光栄にも筆者が聴き手を務めさせていただいたが、その時の模様をここにお届けする。まずは『BAND WAGON』の発売から50年を迎え、どんな思いでいるのかを語っていただくことにした。
――「とても嬉しい限りです。自分で言うのも何ですが、このアルバムを作った時、サンフランシスコとロサンゼルスのミュージシャンのエネルギー、パワーが凄くてね。僕の作った曲を題材にして、みんなが集まって自分の演奏を展開してくれています。例えば『砂の女』はレコーディングの時、僕のギターと仮歌、ドラムとベースの3人で録ったんです。僕がコードを弾いて歌うと、ああしてくれ、こうしてくれと言うリクエストなしに、すぐミュージシャンたちが付いてくる。デヴィッド・ガリヴァルディのドラムパターンがトリッキーで面白いんだけど、あれは最初から出てきたんです。普通は一度演奏して、アイデアが浮かぶ形が多いけれど、いきなりあのパターンが出てきたので、僕もびっくりしてね」
「一度練習して “じゃあ録ろうか” となった最初の演奏がOKテイクです。ただ、イントロの歌が入る前、ドラムのフィル・インで1ヶ所ミスタッチ的なところがあって、デヴィッドはそこを気にして、合計3回ぐらい録ったのかな。でも最初のテイクの勢いが全然エネルギッシュで好きだったし、頭のミスタッチも気にならないので、デヴィッドにこれをOKテイクにして欲しい、と言ったんです。そんなふうに、僕の曲の上にミュージシャンたちが絵を描くというか、自分なりのアイデアを瞬時にはめてくれて、ピースが集まって1つの作品になる。そんな作り方でした」
青春時代の音楽を形にしたかった。それが「BAND WAGON」
『BAND WAGON』のレコーディング期間は1974年10月28日からの1ヶ月間。鈴木茂が在籍していたはっぴいえんどは1973年に解散し、鈴木は細野晴臣とキャラメル・ママを結成(その後1974年にティン・パン・アレーに改称)して1年ほどが経過した時期であった。自身のソロアルバムをティン・パン・アレーのメンバーとレコーディングする、という選択肢はなかったのだろうか。
――「はっぴいえんどを解散して、大滝詠一さんはナイアガラ・レーベルをスタートさせ、松本隆さんは南佳孝くんのプロデュースや作詞活動に入った。僕は細野さんとマッスル・ショールズ(注1)みたいなプロデュース集団を作ろうと思って、ティン・パン・アレーを始めたんです」
「モータウンなどにもお抱えの専属ミュージシャンがいて、色々なアーティストの演奏をする、そういう形を夢見ていた。ところがなかなか思うようにいかず、そのうち細野さんはソロアルバムを作り、僕もソロアルバムを作らなくちゃいけないとは思っていて。その際には、高校生の頃にやり残したものを形にしたかったんです。高校時代はトラフィックとかプロコル・ハルムとかヤードバーズとか、イギリスのバンドが好きで、アメリカのバンドはほとんど聴いていませんでした。はっぴいえんどに加入してから、ポコとか、ロギンズ&メッシーナなどアメリカのカントリー系のバンドも聴くようになったけど、ソロアルバムでは、僕が一番熱く燃えていた、青春時代の音楽を形にしたかった。それが『BAND WAGON』なんです」
「もちろんティン・パンのメンバーはものすごく才能のある人たちで、色々なタイプの音楽もこなせるけれど、僕があの時作りたかったのは、ロックしか演奏できないような、不器用だけど、これをやらせたらすごいぞ!という人とやりたかった。それでティン・パンのメンバーに断りもなく、1人で渡米したんです」
「BAND WAGON」がロックっぽいサウンドになった理由
はっぴいえんどの3枚目のアルバム『HAPPY END』をロサンゼルスでレコーディングした際、コーディネートしてくれた新興音楽出版(現:シンコーミュージック・エンタテイメント)ロサンゼルス支社のキャシー・カイザーに依頼し、鈴木は演奏メンバーを事前にリクエストしていた。当初想定していたのはベースがジェームス・ジェマーソンとチャック・レイニー。ドラムがジム・ゴードンとジェームス・ギャドソンだったらしい。
――「ところが、空港に着いたら1人も捕まらないと言われ、これは失敗したかな、と。一週間ぐらいやることもなくハリウッドの街を彷徨い歩いていたら、キャシーと同じ職場で働いていた木原(紀子)さんという女性から電話があって、“ダグ・ローチが一緒にやりたがっている " と言うんです。それで翌日、ギターを持ってサンフランシスコのダグの家まで出向きました。バナナの形をした甘いお菓子を食べていたのを覚えています(笑)」
ダグ・ローチは、1970年代前半のサンタナのアルバム『キャラバン・サライ』などでベースを弾いていた名手である。
――「彼はドラマーのグレッグ・エリコと一緒に、デヴィッド・ボウイのツアーに同行していたんですが、ダグってすごく派手でオシャレな服を着る人でね。ボウイのツアーでも、2人の衣装がボウイより派手だったので、最初は舞台の真ん中でボウイを囲むようにドラムとベースが配されていたんだけど、数日ある公演のうち、日に日に2人が横にずれていき、そのうち舞台袖のお客さんから “見えないところで演奏させられた” って文句を言ってました(笑)。彼はサンフランシスコのスタジオをリザーブしてくれて、グレッグ・エリコも紹介してくれて、同じように僕は彼の部屋まで行ってギターを弾いて、ドラムとセッションしました。エリコの家には天体望遠鏡があって、星を見るのが好きな人なんですよ(笑)」
グレッグ・エリコはスライ&ザ・ファミリー・ストーンのドラマー。最初にチョイスしていたミュージシャンとはタッチの違うメンバーになって、サウンドの変化はどう受け止めていたのだろう。
――「ダグ・ローチのベースは、ジェームス・ジェマーソンやチャック・レイニーとは全然違う。でかい手でチョッパーをうねうねと弾くんですが、フレーズを繋いでくれる弾き方なんです。ビートルズもそうだけど、ポール・マッカートニーのベースって、次のブロックに行くまでの繋ぎ方がメロディックでしょう。ダグも同じようにかっこいい繋ぎ方をしてくれる。ベースの繋ぎがいいとその後、ダビングしなくていいし、ドラムとベース、ギター、あとちょっとピアノがあれば成立しちゃう」
「ジェマーソンやレイニーのようなベースだと、もう少し分厚いサウンドに変わっていたかもしれないですね。『BAND WAGON』がロックっぽいサウンドに落ち着いたのは、すべてダグ・ローチのおかげだと思っています」
リトル・フィートのメンバーも参加
ダグ・ローチを中心にサンフランシスコで7曲録音し、その後リトル・フィートのベースであるケニー・グラダニーとドラムのリッチー・ヘイワードの組み合わせで、ロサンゼルスでもレコーディングを行った。彼らはどういう経緯で参加することになったのか。
――「はっぴいえんどのレコーディングの時、リトル・フィートのローウェル・ジョージ(g、vo)とビル・ペイン(key、vo)が手伝ってくれたこともあり、彼らとやりたいとキャシーに伝えていたんです。それでサンフランシスコで7曲ほど録ったあたりで、彼らがツアーから戻ってきたと連絡があり、ダグには申し訳ないが残りの曲をお断りして、翌日、マルチテープを持ってロサンゼルスまで行き「スノー・エキスプレス」と「夕焼け波止場」を演りました」
なお、『BAND WAGON』のロサンゼルスレコーディングを行ったクローバー・スタジオは、はっぴいえんどのロサンゼルス録音時に、リトル・フィートの名盤『ディキシー・チキン』のレコーディング見学に訪れた場所でもあった。
――「スタジオの船にある丸窓のようなところから4人でレコーディング風景をのぞいていたんですが、円陣を組むようにして、ローウェル・ジョージは楽器も持たずに真ん中に立って、指揮していました(笑)。何より音がすごい迫力で、ノックアウトされました。はっぴいえんどのレコーディングはサンセット・サウンド・レコーダーズという老舗で、ここはここで素晴らしいけれど、クローバー・スタジオはそこにないエネルギッシュな音が出せる。いつかここで自分のアルバムを作るぞ、と思っていて、それがこの時、実現したんです」
このクローバー・スタジオのエンジニア、マイク・ボシェアーは、『ディキシー・チキン』でセカンドエンジニアをしていた人物で、『ディキシー・チキン』みたいな音にしたい、という鈴木の要求を快く受け入れてくれたという。
――「その際、サンフランシスコで録った音を持って行ったら、マイクがしかめっ面をして "この音は何だ" と。でも工夫して音作りをしてくれて、両方で録音した音を、大体同じレベルぐらいの雰囲気に持っていってくれました。専門的な話になりますが、EMTというリバーブや鉄板エコーなどの機材を作る会社があって、そこでカッティング用のコンプレッサーも作っているんです。そのコンプレッサーが『BAND WAGON』では大活躍して、トータルでコンプをかけるとああいった感じになるんです」
「マイ・スウィート・ロード」を弾きながら作った「砂の女」
このレコーディングの合間に、鈴木はジョージ・ハリスンのライブを見に行ったそうである。
――「サンフランシスコでレコーディングしている時に、ジョージのライブ情報を見て、運良くチケットが買えたんです。体育館みたいなところで、ラヴィ・シャンカール楽団と、トム・スコットなどL.A.エクスプレスがサポートで入って、ジョージとラヴィがテーブルの上に白い布を被せて、その上に座りながら演奏していました」
「トム・スコットも座りながらフルートを吹いてね。要はインド音楽をやっていたわけ。ちょうどジョージも「マイ・スウィート・ロード」が大ヒットして勢いに乗っていた時期で、多忙で疲れていたのか、ハスキーな声だったんです。それがまたかっこ良くてね。でもマスコミは “声が出ていない" "風邪をひいたのか" などと酷評で、それがショックだったのかそれ以来ライブをやらなくなっちゃった。向こうのマスコミは結構きついことを言うからね」
「でも僕は、一番観るべきものを観られたことに感激して。ライブを観た次の日、台所で「マイ・スウィート・ロード」を弾きながら作ったのが「砂の女」なんですよ。ジョージの方は8ビートだけど、僕はあの頃、完全に16ビートの雰囲気になっていたので、意図したわけでなく自然とコードを口ずさみながら、そのまま作っちゃった」
名曲「砂の女」は、鈴木茂がジョージのライブを見ていなければ生まれなかったかもしれない。次回は大滝詠一、細野晴臣といった鈴木とゆかりの深い人たちとのエピソードを交えお届けします。
<注1>
アメリカ・アラバマ州にあったマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ専属のセッショングループ「マッスル・ショールズ・リズム・セクション」。通称ザ・スワンパーズ。アレサ・フランクリン、ボズ・スキャッグス、ポール・サイモンなどをはじめ、サザンロック、サザンソウルの名曲群のバックを数多く演奏している。