戦争の記憶をつなぐ① 真っ赤な横浜 見て泣いた夜 磯子区在住 座間さん
1945年8月15日の終戦から今年で79年。太平洋戦争を語り継ぐ世代が貴重な存在となっている。現在は磯子区杉田在住で、金沢区で終戦を迎えた座間淑美さん(90)に話を聞いた。
大山や伊豆へ疎開
金沢区出身の座間さんは1934(昭和9)年生まれの90歳。金沢小学校4年の頃、同区の小学3年から6年生100人以上とともに、大山の麓にある秦野市蓑毛の寺に集団疎開した。
食事は「ご飯が泳いでいるようなおじや」で、ヤギやヒツジの乳は臭くて飲めず、1日1粒の肝油が唯一の栄養だったという。入浴ができるのは週に一度。村人の風呂に10人ずつ位交代で入った。小学3年の弟は家が恋しく毎晩泣くため、同じ部屋で寝かされたという。シラミがまん延し、月に1度、親が来た時に、すきぐしで髪をすくと、血を吸ったシラミがバラバラ取れた。「脇の下もくわれて皆血だらけだった」と振り返る。
栄養失調から両足の裏に魚の目が7つ、8つとでき、歩けなくなったため、伊豆・多賀の叔母の家に「縁故疎開」することに。18歳の叔母が嫁いで一週間後に叔父は出征。それきり帰ってこなかった。
疎開先のすぐ近くの小学校の校庭では、戦地に赴く兵隊が「一人一殺」という命令のもとでわら人形を竹やりで突き刺す訓練をしていた。空襲警報が鳴ると、防空壕に逃げる日々だった。
多賀から見える横浜・東京方面は、夜はいつも真っ赤で、焼け野原と聞いていたため、「お父さんもお母さんも死んじゃったのでは」と弟と泣く毎日。電車で母が会いに来ると「生きていたんだ」と安堵したが、楽しいことはなく、恐ろしいことばかりだった。
笑いながら撃つ米兵
三島の艦砲射撃が始まり、ドカンドカンと音が聞こえて「もうこれまでか」と思っていた。網代には人間魚雷の基地があったと漁師から聞いた。アメリカにその情報が漏れて、空からの攻撃が激しくなった。学校帰りに米兵の機銃掃射に狙われたが、桜の木に抱きつき難を逃れた経験も。飛行機の窓から笑っている米兵の顔が見え、本当に恐ろしい思いをしたという。足元にパッパッパッと弾がはねて土煙があがったことを今でも思い出す。「戦争は怖い、嫌だ」というのがその時の記憶だ。
金沢区で迎えた「敗戦」
秋田県の知人の家に疎開するために一時的に金沢区の自宅に戻った。称名寺近くの防空壕に駆け込み、追浜の飛行場に落とされる爆弾の音を聞いていた。「今度も助かった」と家に帰る日が終戦まで続き、秋田には行かず終戦を迎えた。「敗戦」を知らせるラジオ放送を聞いた時、もう逃げ隠れしなくていいとほっとしたという。
今、ロシアとウクライナの戦いをテレビで見ても、逃げ惑い、死ぬことがどんなに残酷かを思い知らされる。「戦争を絶対にしてはならない」と強く願い、近年は平和への思いを込めた絵を描き続けている。「未来永劫平和を祈ってやみません」
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本紙では、次代に語り継ぐ「戦争の記憶」を不定期で紹介します。ご自身やご家族の「戦争」にまつわる体験談など情報お待ちしています。