阪神・淡路大震災30年 平塚市在住山内さん 「ミキサーの中にいた」 大震災の記憶鮮明に
淡路島北部を震源とするマグニチュード7・3の直下型地震が発生した「阪神・淡路大震災」から1月17日で30年が経過した。平塚市在住で当時神戸市に住んでいた山内享子さん(63)は「たった数秒だったけれど、ミキサーの中で回っている感覚だった」と当時を振り返る。
1995年1月17日午前5時46分。夫の転勤で地元平塚から神戸に移り住んだ山内さんは、マンションの13階にある自宅で就寝中だった。とっさに、小学2年生だった息子に覆いかぶさった。29インチの大型テレビが空中を舞い、タンスが次々と倒れた。暗闇のリビングにはガラスが飛散し、倒壊した電気温水器から熱湯が一面に流れ出して、火傷と切り傷を負った山内さん。「日の出を家族で見た時、生きてて良かったと思った」
災害の後
指定された避難所で2週間を過ごした。「私たち家族や東京から来た人たちは関東大震災の教訓で非常持ち出し袋を持っていたけれど、関西の人たちは地震への備えをしていない人が多いと感じた」と振り返る。
Jリーグが始まった頃で、息子はサッカーをするのが好きだった。「サッカーの練習をしていた小学校ががれき置き場になっていたのを見て息子が泣いていたのを鮮明に覚えている」と目を潤ませる。
経験伝える
平塚市に戻った後、地域の公民館などに被災経験を話す講演を頼まれるようになった。「思い出したくない過去だったけれど、ありのままを話すことで気持ちの整理ができた」と前向きに語る。有志団体「防災を考える会」のメンバーにもなり、防災かるたの制作にも携わった。
市内で幼児教室「モンテッソーリ湘南子どもの家」を開く山内さんは、教室に通う子どもたちに自助の大切さを伝えている。「災害時、地域の人たちがお互いの情報を知っているエリアは助け合えたので、死者が少なかったと聞く。神戸では、高齢者の次に一人暮らしの学生が多く亡くなった。家族や近所の人と日頃から防災について話し合ってほしい」