【現代に必要なリーダー】 上杉鷹山の成功に学ぶ、財政破綻からの改革術 「民福主義」
財政破綻をきたした米沢藩を卓越した手腕で改革を行い、再建を果たした上杉鷹山(うえすぎようざん)。
その政策は、権力を振りかざすことなく、民への思いやりに溢れた民福主義の「精神の改革」にあった。
政治の劣化が目立つといわれる現代において、今こそ求められる理想のリーダー像ともいわれる鷹山。
今回は、上杉鷹山とその改革についての経緯をご紹介しよう。
弱冠17歳で新藩主の座についた鷹山
上杉鷹山は、1751(宝暦元)年9月9日、日向高鍋藩主・秋月種美の次男として江戸で誕生した。
彼が生まれた江戸中期は、幕府はもとより多くの藩が財政危機に陥っていた。
鷹山は10歳で米沢藩主・上杉重定の養子となるが、当時、米沢藩の財政は破綻寸前で、借財が200億円に達していたといわれる。
この窮状に、重定は藩領を返上して領民救済を幕府に委ねようとした。これは今でいえば、倒産の末に公的再生を図るのと同じことだった。
そんな中、鷹山は弱冠17歳で新藩主の座につき、米沢藩の再建に乗り出す。しかし、そこには大きな障害が立ちはだかった。
上杉家は謙信以来の名家だ。それ故に藩士たちはプライドが高く、何事も伝統としきたりを重んじ、古い考え方に縛られていた。
一説によると、謙信は「たとえ上杉家の領国がどんなに縮小したとしても、家臣たちをリストラすることは許さない」といった旨の遺訓を伝えていたという。
彼らはそんな謙信を崇拝し、特に重臣たちはこの家風にどっぷりと浸っていたのだ。
改革に当たり「民の父母」となることを誓う
鷹山は、藩主就任早々に身分を問わず藩士たちを集め、自身が行う改革について説明し協力を求めた。
彼が掲げた米沢藩改革案の柱は、「精神の改革」「財政の再建」「産業の開発」の3本柱。
中でも「精神の改革」は、鷹山の改革理念の根本をよく表している。その根本とは、民への「優しさと思いやり」だった。
米沢藩を再建するには藩士たちはもとより、領民たちの協力が絶対に必要であり、これなしでは成功は叶わない。
ある意味、改革の大輪となる領民には今まで以上の労苦をかけるかもしれない。だから、鷹山は「民の父母」となることを誓ったのだ。
鷹山が生まれる35年前に、徳川吉宗により享保の改革が行なわれ、鷹山とほぼ時期を同じくして田沼意次の幕政改革が行なわれている。ともにある程度の成果をあげたが、民の犠牲なくては成し得なかった。
幕府は税収をあげるために民に増税を強いた。改革が進むにつれ幕府は楽になるが、民の生活は益々厳しいものになっていった。幕府の改革は、民に対しての「優しさと思いやり」が全く欠如していたのだ。
鷹山の改革案に対し、一部の藩士たちは感動して協力を誓ったが、多くの藩士たちは真っ向から反対したり、無関心を装うという状況だった。
それでも鷹山の改革は、少しずつ進んでいった。
ひたすらに改革を推進するという強い信念のもと、自他ともに厳しく律したことが、頑なだった藩士たちの心を徐々に崩していったのだ。
鷹山は、絹の着物を脱ぎ棄て、質素な綿の着物を着て、粥を主食とすることで倹約を示した。そして、最後まで鷹山の改革を妨害し続けた一部の重臣を涙をのんで処断するなど、その覚悟を現わした。
こうした鷹山の有言実行の姿を見て、家臣も領民も心を動かされていったのだ。
江戸時代において「民福主義」を明言
鷹山は、改革がなった1785(天明5)年に、世子・治広に藩主としての心得三カ条を与えている。
一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
これは、『伝国の辞』と呼ばれ、米沢藩では、明治維新まで家訓として伝承された。
ここには、鷹山の思想がはっきりと記されている。
要約すると「藩(国家)は藩主の私物ではなく、民(人民)もまた藩主の私物ではない。藩主というものは藩と民のために仕事をするのだ」といった内容である。
鷹山の生きた時代は封建幕藩体制の下、藩民は藩主の私物であり、税を得る対象だった。民の人格は全くとはいえないまでも、無視されても仕方がない時代だった。
そんな時代に鷹山は、「民を大切にする」という、いうなれば民福主義を明言していたのだ。
してみせて 言って聞かせて させてみる
この鷹山の思想は、米沢藩改革のいたるところに反映された。この「精神の改革」があってこそ米沢藩の改革は成功し、藩財政は蘇ったのだ。
だが、鷹山といえども最初から米沢藩の改革を軌道に乗せたわけではなかった。
彼が最初に打ち出したのは、幕府や諸藩同様の「大倹令」だった。
家臣たちの俸給を削り、家中にはびこる放漫経営の弊害を取り除き、倹約の精神を行き渡らせようとしたのだ。さすがの鷹山といえども、まずは定石通りの手法で改革に臨んだ。
しかし、その効果は芳しくなかった。そこで、鷹山は発想を転換させる。
「してみせて 言って聞かせて させてみる」をモットーに行動を起こしたのである。
まず自分で範を示し、次に改革の目的を明確にし、藩士や領民に改革が実現すればどれだけメリットがあるのかを説明し、各々に役割を与えて改革の一端を担わせた。
この結果、藩士から領民にいたるまで、改革に対しての機運が盛り上がり、鷹山の改革は大きく前進して行った。
鷹山は、藩士や領民に対して彼らの「やる気」を喚起し、改革の同志としてともに突き進んでいったのだ。
今から250年前ものむかし、鷹山は見事に真の改革を実践した。
真偽は不明だが、アメリカ大統領ジョン・F・ケネディが「尊敬する日本人の政治家は?」と問われ、「上杉鷹山」と答えたというエピソードも有名である。
上杉鷹山が行った「産業開発と財政再建」
鷹山の財政再建は、産業の開発とセットで進められた。米沢市のある山形県置賜地方は、今でこそ有数の米どころとして知られる。
しかし、それは明治に入ってからの米の品種改良によって実現したことで、それ以前は、寒冷地というハンデにあわせて荒れた土地が多く、とても財政の柱となる年貢米を増産するどころではなかったのだ。
そこで、鷹山は寒い土地でも栽培ができ、さらに、利用価値の高い商品作物の生産を考えた。
鷹山の産業開発の要とされる漆・桑・楮(コウゾ)の各100万本植樹計画もその一つだ。
鷹山は、この植樹計画が順調に進めば、17万石近くの年収を得られると計算していたという。当時の米沢藩の石高は15万石なので、一気にそれ以上の収入になるわけだ。
鷹山は、藩士・農民・商人・職人から寺社に至るまで、領民の全てをこの植樹計画の対象とした。しかし、ここでも鷹山は命令一本の強制ではなく、植樹をする費用を支弁する、成木になった時は藩が一定の値段で買い上げる、などの保障をつけて、細かいフォローを行っている。
この100万本植樹計画は、鷹山が描いたほどの成功には至らなかったが、漆の販売による換金、楮による製紙業、桑による養蚕業の発展など、年貢に替わる米沢藩の財政源としては充分に機能した。
さらに、鷹山は米沢織・紅花染・笹野一刀彫り・養殖鯉など、現在も米沢に引き継がれる産業の開発を行っている。
鷹山の改革は、倒産の危機に瀕した米沢藩を救った。
鷹山が後見した次の藩主治広の時代には、借財を全て返済して5000両を備蓄するまでとなり、後に幕末の動乱に巻きこまれた際には、その遺志を引き継ぎ、貯蓄した備蓄金の中から30000両を新政府に献上して藩存続の危機を乗り切った。
これは、全て鷹山の改革なしにはありえなかったことだ。
今の世の中に、上杉鷹山のような人がいたらどんなに力強いか。混沌とした世の中が必要としているのは、鷹山のような真のリーダーなのではないだろうか。
※参考文献
横山昭男著 『上杉鷹山』 人物叢書 新装版
童門冬二著 『上杉鷹山の経営学 危機を乗り切るリーダーの条件』PHP文庫
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