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朱里エイコは「北国行きで」の大ヒットを飛ばしながら、日本の歌謡界では活躍の場が狭すぎた、悲劇のジャズ&ポップス歌手だった

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朱里エイコは「北国行きで」の大ヒットを飛ばしながら、日本の歌謡界では活躍の場が狭すぎた、悲劇のジャズ&ポップス歌手だった

 それが日本の芸能界、歌謡界の常だといわれれば仕方がない。一発芸ならぬ、一曲だけ大ヒットを飛ばしながら、NHK紅白に出場するほどの名曲と歌い手が知らぬ間に消えていくのも昭和の流行歌全盛時代の特徴といえるのだろう。しかし、朱里エイコ(1946年3月19日—2004年7月31日、享年58)の場合は一発屋というにはあまりにも非礼極まりなく、ニューヨークのカーネギーホールという檜舞台に立ったこともあるほどの実力の持ち主だった。作詞:山上路夫、作曲:鈴木邦彦「北国行きで」は、1972年1月25日にワーナー・パイオニアから発売された。朱里エイコがデビューして実に8年を経て、この大ヒット曲にめぐり合った。旧名・田辺エイコ(本名:田辺栄子)で日本ビクターから最初にリリースした、いずみたく作曲の「交通戦争はイヤ」(1963年10月)の記録があり、作詞は童話作家・詩人のさとうよしみ。残念ながらこの音源はボクには不明で、想像するに、中学生で童謡を歌唱していたのだろうか。歌手として生きよう、と明確な目標を持ったのが中学生の頃だったという。

 母・朱里みさをは舞踊家にして振付師として知られ、父はオペラ歌手だった。いわば芸能一家に生まれたが生後間もなく両親は離婚している。舞踊家として世界を股にかける母だったが、米国ハリウッドの著名なプロデューサーが来日した折、栄子はオーディションを受けて合格する。母の反対を押し切って、1964年(昭和39)、日本人の渡航が許されるのを待っていたかのように18歳で単身渡米するのだ。2年の契約で、ラスベガスを中心に各地のショー・ビジネスにデビューする。リノ、レイクタホ、ハワイ、シアトル、シカゴ、ニューヨークなどの一流クラブやホテルのステージで大活躍。歌手として天性の才能があったのか、まだ若く完成したエンターテイナーとはいえなかったが、当時の日本人ポピュラー歌手の通念をうち破った力量だった。すでに強烈な個性を発揮し小柄ながらボリュームのある声量、全身で表現するリズム感は、世界のエンターテイナーとして通用する実力を備えるようになっていた。と言えなくもないが、日本人の小さな少女の桁外れの歌唱力と相まって、珍しもの好きのアメリカ人の好奇心をそそったのではないだろうか。

 驚くべきは、女性ジャズヴォーカルの一人者、サラ・ヴォーンと同じステージを踏んでいる。アメリカの人気歌手の多くは、レコーディングやテレビでも活躍しているが、それ以上にニューヨークやラスベガスといった大都市のナイトクラブや一流ホテルのステージを大切にしていた。聴衆を眼前に、歌い、演じ、語りかけ、聴き入っている人たちを惹き付け魅了しなくてはならない。客を楽しませることが出来なければ、失格。当時のサミー・デイビス・ジュニア、フランク・シナトラ、ディーン・マーチン、女性歌手はサラ・ヴォーン、ナンシー・ウィルソン、リナ・ホーンといった一流といわれる歌手たちにもまれながらショー・ビジネスの本場を体験していったのだった。アメリカの上位40曲以上の原曲を歌唱できることを常に求められたという。二十歳になるかならないかの頃から朱里エイコは、日本よりむしろアメリカでその実力を認められた稀有の日本人エンターテイナーだったのである。

 帰国後数年間は、レコーディングに精を出すが、なかなかヒットに恵まれず、その間も渡米を繰り返している。辛うじて話題となったのは、小林亜星の作詞・作曲による「イエ・イエ」というCMソングが1967年にリリースされている。レナウンが発売するニット製品のCMで使われた。独特のリズムで、ひたすら「イエ・イエ」と繰り返すだけだが、それが斬新な表現手法として当時の広告業界で注目された。ボクはその歌唱が朱里エイコだったことなど知る由もなかった。「北国行きで」が発売される雌伏の期間のことだが、朱里エイコの類まれな才能が感じられるものの、レコードがヒットしたわけではなかった。

 
 1971年ワーナー・パイオニアと契約。一年後に2曲目のリリース「北国行きで」発売。多くの日本人がこの大ヒット曲で朱里エイコを知ることになるが、その力強い歌声やちょっとガナリ立てるようなパンチのある歌唱に弘田三枝子が重なったであろう。ボクもそうだった。弘田三枝子は〝和製ブレンダリー(Brenda Lee)〟とデビュー当時から呼ばれた。日本に洋楽が雪崩のごとく持ち込まれた1957年から60年代初めブレンダリーは〝Miss Dynamite〟という愛称で呼ばれていたが、それは彼女のヒット曲「Dynamite」に由来している。弘田三枝子→Brenda Lee→朱里エイコとつながれば、そのパンチのある歌唱と激しいアクションの小柄な朱里エイコが〝リトル・ダイナマイト(Little Dynamite)〟とアメリカ人が称賛するのも当然だった。同時に、彼女の脚線美とショートパンツの衣装が人目を引いた。小さなダイナマイトとはあるいは脚線美のセクシーさを指していたものか。

「北国行きで」が男と女の別れ歌ではあるが、詩を書いた山上路夫は、いわばアメリカ育ち(アーチストとして)の朱里エイコを思えば従来の情念が渦巻くような別れ話にはしたくなかったのではないだろうか。彼女はサバサバとして軽快感のある現代的な女性をイメージしたのだろう。そんなヒロイン像が朱里エイコのキャラクターとマッチすると踏んだに違いない。結果として大ヒットにつながった、といえるだろう。
—いつも別れましょうといったけれど、そうよ、今度だけはほんとのことなの―と女の口から言わせるなんて、よほど強い意志を持っている女だ。歌謡曲の定番のように縋りつくような女々しさがない。—憎みあわない前に、さっさと私は消えて行くの―と潔い。曲もイントロのシンコペーションが軽快で別れ話の重苦しさなど感じさせず、ドラムスの響きがいかにもポップス調だ。1970年代といえば、女性の社会進出、ウーマンリブの運動や男女雇用機会均等法など、時代の背景を想い起こされ、強い女の出現が始まっていく。ジメジメした別れ話など受ける時代ではなくなった。

 朱里エイコは、ワーナー・パイオニアでは合計19枚のシングルを発売しているが、35万枚を突破した「北国行きで」だけが突出した売り上げで、あとはほとんど二桁にも届いていない。「日本ではレコードがヒットしないと、テレビにも呼ばれないし、実力が発揮できない」と嘆いた時期がある。(歌が下手でも売れれば勝ちみたいな)日本の芸能界では活動の幅が広がらず、ずっと亜流に甘んじなければならなかった。1972年(昭和47)12月31日 第23回NHK紅白歌合戦(東京宝塚劇場)に「北国行きで」の歌唱で3組目に初出場。白組は堺正章が「運がよければいいことあるさ」を歌唱している。朱里エイコは上下繋ぎの黄金のホットパンツで登場。見事な脚線が目を引いた。翌年の紅白も「ジェット最終便」(ヒット曲ではなかった)を歌唱したが、1番を歌った直後、曲が中断され沖縄・名護の桜の花々を若手アイドルや紅組歌手たちが客席を回って配るという演出が入って、2番の出だしをトチってしまう一幕があった。沖縄返還間もないNHKのお粗末な演出だったが、もしかしたら、あれがケチのつけはじめだったのか。以後、朱里エイコは日本の芸能界から忘れ去られていった。

 その後も彼女のスキャンダラスめいた失踪やステージをドタキャンするなど悪い話題は芸能週刊誌ネタとなって繰り返されたが、そのたびに、朱里エイコはアメリカのステージに立って大歓声を浴びている。「日本では歌謡曲を、アメリカではポップスを」というスタンスがどこで狂ったのか、誰も朱里エイコを救えなかったのか。歌唱の実力、声量、明るいキャラクター、もちろんあの脚線美、一ファンとして58歳の死は残念でならない。

文=村澤次郎 イラスト=山﨑杉夫

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