民主主義は米国のプレゼントなどではない――100年前に達成されていた日本の民主的政治体制
東京都知事選や米大統領選など、政党の存在意義がわからなくなるようなケースが増えてきました。一方、政党支持率が落ちても政党の存在を前提とした政治システム自体はびくともしません。その理由は一体どこにあるのか?『政党内閣制の成立 一九一八~二七年』(有斐閣)でサントリー学芸賞を受賞した村井良太さんの新刊『「憲政常道」の近代日本 戦前の民主化を問う』の一部を抜粋して公開します。
序章 第一次世界大戦後の世界と日本 政党政治の智慧と経験をめぐって
私たちのデモクラシーの出自を考える
現在、私たちは長らく民主政治(デモクラシー)の下で生活を送っており、幸いそれを意識することすらまれである。選挙があることは当たり前で、選びたい候補がいないと嘆くことはあっても、結果が不正に操作されていると憤ることは少ない。政治家の行動や政府の施策におかしいと考えることがあれば、身の危険を感じることなく批判の声を上げることができる。時に首相は退陣に追い込まれ、新たな首相が登場する。政権党が交代しても特に驚きはない。いずれの場合でも権力移行は平和的であり、その時々の有権者多数の支持に立脚している。
私たちにとってそれは当たり前に感じられる。ドイツや英国など西ヨーロッパの国々、米国や韓国を訪れても大きくは変わらない。しかし、国際社会全体ではそうではない。日本はフリーダムハウスという米国発の国際NGO団体が出している自由度指標で二〇二四年、一〇〇ポイント中九六ポイントという高い評価を得ている(*2)。二五項目を五段階で評価した総計で、選挙プロセスや権力の創出方法など政治的権利と市民的自由の両面が含まれ、自由民主主義体制としての質が問われている。そのホームページでは地図で世界の状況を一覧することができるが、日本や先にあげたような自由な国々だけではなく、部分的に自由な国々、そして自由でない国々も世界には多く存在する。もちろん指標の選び方には団体の価値付けが反映されており、八三ポイントの米国のデモクラシーが日本と比べて機能していないかというとそう単純な話ではない。日本の数字も項目によって年毎ごとの変動があり、改善と後退を繰り返していく。それでも現在の日本は他の同種の指標も含めて、安定して成熟した自由民主主義体制の一つと見られている。
そのような現在の日本の民主政治の出自はどこに求められるのだろうか。一九九〇年代以降の日本の政治改革は憲法こそ改正されなかったが、選挙法をはじめ大きな変革であった。とはいえ、一九四五年の敗戦を機に占領下で作られた民主政治であるというのが長らくの基本的理解であろう。一九四七年、米国を中心とする連合国の占領下で改正された憲法が施行され、一九五二年の占領終結後もそのまま維持されてきている。国際的な民主化研究においても、日本は旧西ドイツとともに敗戦後の民主化例として取り上げられる。敗戦によって与えられた「負け取ったデモクラシー」だろうか。日本で学界を席巻していたマルクス主義歴史学でも、社会で広く支持された
丸山真男に代表される近代主義政治学でも同じ理解であり、同時代の日本人の共通体験でもあった。
しかし、そのような理解は史実として正しいのだろうか。二〇〇三年に米国がイラクに侵攻する際、日本占領の例が持ち出され、民主的なイラクの誕生が期待された。だがそれは米国の日本専門家が当初から疑問を抱いた考えであった。前提条件が違いすぎると。近年、英語圏では歴史家のジョン・ダワーの研究を通して日本占領が占領者と被占領者の共同作業であったという理解が一般的になっている(*3)。そもそも民主主義は戦争の勝者が押しつけることのできるものなのだろうか。問われるべきは、占領下で強制されたにもかかわらず、なぜ民主主義が根付いたかではないか。
そこで注目されるのが第一次世界大戦後、一九二〇年代日本の政治経験である。一八九〇年施行の大日本帝国憲法は民主政治を予定していなかった。五箇条の御誓文は後の民主化を許容する内容であったとはいえ、民主化と直接結びつくわけではない。にもかかわらず、一九二四年六月に第一次加藤高明内閣が成立してから一九三二年五月に犬養毅内閣が崩壊するまでの約八年間、七代にわたって政党内閣が連続した。この時期は「政党内閣期」と後に呼ばれて歴史分析の対象となるが、同時代にはそのような政権交代が「憲政の常道」であると理解され、高い正統性を持ってすでに慣行化しているとみられていた。
このような慣行は一〇年と経たずに失われたが、後で述べるように、第二次世界大戦の敗戦が迫る中、米国政府内では浜口雄幸などこの時期の政治指導者の名前が想起され、日本に降伏を求めるポツダム宣言では占領方針として「民主主義的傾向の復活強化」という言葉が使われた。すなわち敗戦後の何もないところに民主主義を新たに敷設するのではなく、強化をともなう再建だったのである。占領下で復活強化された民主政治は、占領終結後も七〇年以上にわたって続いている。占領後しばらく日本人の民族性が民主主義に反するのではとも議論され、民主主義の再逆転が危惧されたことを思えば隔世の感である。国際比較の中でも希有な安定性と言えるだろう。
筆者はこれまで一九一八年から一九三六年の時期を対象に、当時の基本的な政治構造を形作る首相選定制度の変容に注目して検証することで、政党内閣制の成立・展開・崩壊過程を明らかにしてきた。その成果は二冊の研究書にまとめている(『政党内閣制の成立 一九一八~二七年』有斐閣、二〇〇五年、『政党内閣制の展開と崩壊 一九二七~三六年』有斐閣、二〇一四年)。本書ではその知見を活かしつつも、首相選定構造を越えて第一次世界大戦後の政党政治について対外態度も含めたより総合的な全体像を提起することで、過去の史実への最新の理解はもとより、現在の政党政治を考え将来を展望する手がかりを提供したい(なお本書での引用に際しては前著を「村井㊤」、次著を「村井㊦」と本文中に表記し、参考文献や先行研究との関係についても参照を願いたい)。
本書の新しさを生んだ二つの幸運
筆者が研究を始めたのは約三〇年前のことだが、当時、「昭和史」として一九四五年の敗戦に向かう弊害と転落の政党政治史が多く論じられ、軍も悪かったが政党政治も悪かったと総括されていた。また、近代日本における政党政治はいわゆる明治国家における徒花であったかのように論じられてきた。その結果が先の「負け取ったデモクラシー」論である(*4)(村井㊤313)。
しかし、明治国家、その中心的な制度設計者である伊藤博文(一八四一│一九〇九)や、公議輿論、官僚制、軍などへの実証研究が進む中で、政党政治や自由主義体制こそが明治期の近代国家建設の本筋の帰結であるとの理解が進みつつある。
その中で本書の元となる研究では、第一次世界大戦後の政党政治が立憲政治の中に育まれた民主政治であったことを明らかにした。すなわち、(一)政党内閣の連続が単なる政党内閣期ではなく、政治改革の帰結として政党間で政権交代する政党内閣制の成立であったこと、(二)西園寺公望の政治指導は政党や社会の圧力を受けた状況対応から政党内閣制への強い意思を持って首相選定上の変化を促す態度へと変化していったこと、(三)政権交代という新たな統治システムの始まりにおける混乱が見られたとはいえ、政党内閣制が「憲政の常道」と呼ばれたように国民や政治家においても確信を持って理解されていたこと、(四)世界大恐慌以後の動きは軍縮体制への弱者としての軍部の反動であり、首相選定上の動揺がそれを後押ししたこと、また、(五)「挙国一致」内閣と呼ばれてきた斎藤実・岡田啓介内閣が政党内閣制下の非常時暫定内閣として政党内閣の回復を目指しながら、逆にこの時期に日本政治が後戻りできないほど傷ついていくことなどである。政党が悪かったから政権から排除されたのではなく、排除されたことで劣化したのであり、五・一五事件の後も政党内閣制の崩壊は突然訪れたのではなく二・二六事件までの緩慢なものであった。
本書は史料を重視する実証研究を旨としているが、従来の通説を否定するこのような新しい理解は、二つの大きな幸運に支えられている。
一つは研究のアプローチについてである。対象への接近方法には研究者の個性が表れるが、研究者も時代の子である。一九八〇年代後半以降に進んだ政治学における「新制度論」の隆盛、そして政治学と歴史学の融合に大きな影響を受けた。政治史は単なる政治の歴史ではなく、歴史の方法を用いた政治分析、政治学を用いた歴史叙述であると筆者は考えている。
新制度論が政治史にとって重要であるのは、旧制度論は法律学的な研究に近く、制度の静態的な記述が中心であった。したがって、大日本帝国憲法の法体系において議院内閣制がとられず、革命も起きていない以上、その下での民主化を論じるのは思想や運動が中心となる。
この旧制度論を批判し、次に政治学の主流に躍り出たのが「行動論」であった。政治史との関係で言えば政治家などの行為者(アクター)に注目し、政治過程の解明が進んだ。それは実証史学と相性が良く、日本政治史でも様々な研究が花開いた。そして登場した新制度論はあらためて制度に注目するだけでなく、制度を動態的に、かつ広く理解する。
経済史研究者ダグラス・ノースの定義では「制度とは、社会のゲームのルール」である。すなわち、制度は行為者にとっての誘因構造を形作り、相互の期待を規定する(*5)。日本政治史の一九二〇年代研究でもすでに「デ・ファクト」(事実上の)という言葉を用いて政党間での政権交代も慣行として論じられていた(*6)。例えば、政党内閣期の政党内閣の連続を最後の元老西園寺の自由判断とみなせば、それは行動論的な説明であるが、制度を新制度論的に理解すれば、西園寺がそのような広義の制度(予測可能性や期待の集積)とどう関わっていたのかを分析することができる。また、旧制度論であれば男子普選法は重視されるが、政党内閣制は無視される。法律になっていないからである。しかし、実際は政党内閣制の有無によって男子普通選挙法の意味や効果は全く異なる。アクターの行動を評価するためにはゲームのルールと環境をより正確に理解する必要があり、ルールをめぐる競合とルールの下での競合が同時並行で進んでいる様子も観察できる。それは法的でなくとも制度である。また政治学の発想として、政治学者河野勝が述べる「歴史を前向きに(歴史が実際に進んだ方向にそって)解釈し直さなければならない」という言葉は日本政治史にとって特に重要である(*7)。「昭和史」と言われるようにとかく敗戦から逆算されてきたからである。
行動論から新制度論への転回は政治学者の歴史への関心を高めた。また、政治史の分野では、ヨーロッパ政治史だけでなく日本政治史でも例えば坂野潤治・宮地正人編『日本近代史における
転換期の研究』(山川出版社、一九八五年)のような政治学的な歴史説明の魅力的な先例があった。そもそも一九二〇年代の日本政治史研究を大きく進めた升味準之輔は現代政治分析から出発していた。
筆者がこの研究ができるかもしれないと思ったのは、一九二〇年代の政党政治史を研究することを決めて国立国会図書館憲政資料室で調査していた折りに、牧野伸顕関係文書(書類の部九八)「内閣ノ首班ヲ諮問セラルル機関ニ就テ」を見たことによってであった。同時代で首相選定制度が問題になっていたことを知ったのである。いかに新しい視点を応用したいと考えても、研究のできは史料が与えてくれる情報量に左右され、史料で実証されなければ仮説に止まる。
そこでもう一つの幸運は史料についてである。一九八九年の昭和天皇崩御後に関連資料が一気に公開・刊行された。それは先人と関係者の努力と理解の賜物である。特に内政において昭和初期に関わる研究はそれ以前と以後で史料状況が全く異なる。
また史料は新しいほど良いわけではない。新しい史料が出ることですでにある史料の意味が変わったり、二重に確認することができたりする。岡義武、升味準之輔らの政党政治に必ずしも積極的でない西園寺理解は、『松本剛吉政治日誌』の影響が強く感じられるが、他の基本史料が出ることで相対化することができた。また、先の牧野文書は一九五一年に憲政資料室に入っていたが、昭和天皇崩御後に彼の日記をはじめ宮中関係の資料が相次いで公刊されたことが大きな助けとなった。私にとって特に印象的だったのは後に触れる侍従次長河井弥八日記の所収史料である(*8)。
本書は、政党内閣か否かという従来論じられてきた首相選定の結果だけでなく、首相選定の論理と方法という制度に着目し、新しい史料状況の中で政党内閣制が成立していたという仮説を確認するものであり、その意味と崩壊についても明らかにする。ここでは「政党内閣制」を、議会を基礎とする政党の党首が首相となり、政党による組織的な政権担当以外の内閣が除外される政権交代システムと定義する。また「政党内閣主義」を、政党の党首以外が内閣を組織することへの排他性と定義する。政党内閣制とは、政党内閣主義に基づく政権交代システムと言い換えてもよい。政党内閣が成立したかどうかではなく、政党内閣期の政権交代システムに注目するのである。
対象とする時期は、一九一八年に初の「本格的政党内閣」と言われた原敬内閣が成立してから、一九三六年の二・二六事件後に政党内閣制の将来が見通せなくなる時期までである。従来の研究が多く政党政治の確立過程と崩壊過程を別個に検討してきたことから、丁寧に資料で跡づけながら政党内閣制の成立・展開・崩壊を一冊の本で描ききる試みは本書の特徴である。
著者プロフィール
村井良太 (むらい・りょうた)
駒澤大学法学部教授。1972年、香川県生まれ。新潟高校卒業、神戸大学法学部卒業、同大大学院法学研究科博士課程修了。博士(政治学)。
著書に『政党内閣制の成立 一九一八~二七年』(有斐閣、サントリー学芸賞受賞)、『政党内閣制の展開と崩壊 一九二七~三六年』(有斐閣)、『佐藤栄作──戦後日本の政治指導者』(中公新書)、『市川房枝──後退を阻止して前進』(ミネルヴァ書房)など。共著に『日本政治史──現代日本を形作るもの』(有斐閣ストゥディア)、『立憲民政党全史 1927-1940』(講談社)など。共編に『河井弥八日記 戦後篇』1-5(信山社)など。
註
*1 猪木武徳『経済社会の学び方(中公新書、二〇二一年)二二七頁。
*2 フリーダムハウス(https://freedomhouse.org/)。二〇二四年一二月八日閲覧。
*3 John W Dower, Embracing Defeat: Japan inthe Aftermath of World War II , Penguin, 2000.邦訳増補版は、ジョン・ダワー著/三浦陽一・高杉忠明訳『敗北を抱きしめて[増補版]』上下(岩波書店、二〇〇四年)。
*4 従来の研究の整理については、村井良太『政党内閣制の成立 一九一八~二七年(有斐閣、二〇〇五年)、『政党内閣制の展開と崩壊 一九二七~三六年(同、二〇一四年)を参照。
*5 河野勝『制度(東京大学出版会、二〇〇二年)一三│一四頁。経済学的定義と社会学的定義、制度のもつ政治性、動学的なプロセスについても同書参照。他に建林正彦・曽我謙悟・待鳥聡史『比較政治制度論(有斐閣、二〇〇八年)、久米郁男・川出良枝・古城佳子・田中愛治・真渕勝『補訂版 政治学(有斐閣、二〇一一年)を参照。
*6 三谷太一郎『増補 日本政党政治の形成(東京大学出版会、一九九五年)一四、一〇七頁。三谷太一郎「政党内閣期の条件」(中村隆英・伊藤隆編『近代日本研究入門[増補版]』東京大学出版会、一九八三年)では、政党内閣制が「習俗的規律」として成立したことが論じられている(六九頁)。
*7 河野『制度』六六頁。
*8 松本剛吉著/岡義武・林茂校訂『大正デモクラシー期の政治 松本剛吉政治日誌(岩波書店、一九五九年)。以下、『松本剛吉政治日誌』と略す。河井弥八著/高橋紘・小田部雄次・粟屋憲太郎編『昭和初期の天皇と宮中 侍従次長河井弥八日記』六巻(岩波書店、一九九四年)。以下、『河井弥八日記』と略す。