永遠の憧れ、藤井フミヤの夢とは?「デビューしてこのかたずっと旅してる」
現在、47都道府県をめぐる2度目のコンサートツアーの真っ最中。シンガー、作詞家、画家。そして旅人。“鉄分”豊富な福岡県久留米発、 藤井フミヤさんの愉快で沁みる人生列車。
藤井フミヤ
ふじい ふみや/1962年、福岡県久留米市生まれ。1983年にチェッカーズのボーカリストとしてデビュー。1993年にコンピュータグラフィックス展「FUMIYART~TAKE A BREAK」を全国9都市で開催。同年『TRUE LOVE』をリリースしソロ活動を開始。以降、楽曲リリースや全国ツアーなど音楽活動を積極的に続けている。2023年にデビュー40周年を迎えた。
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オフィシャルサイト:https://www.fumiyafujii.net/
実家は町の美容室。家と店はボーダレス
藤井 中3の時、ブルートレインに乗って、東京まで家出しようとしたことがあるんだよ。何か悪さして見つかったんだろうね。寝台券が必要と知らず、途中で降ろされて、初めて下関から博多まで新幹線に乗った。
あっという間の日帰り家出。その数年後、俺、つなぐことになるんだけどね、ブルートレインを。
——いろいろとお聞きしたいことが満載です(笑)。久留米ではどんな幼少期を?
藤井 俺が生まれたのは、久留米市の山も川もある山川町というところ。自然がいっぱいで、タヌキの親子がいたりコウモリが住む洞窟があったり。毎日、弟と木登りや虫を取ったりして遊んでたね。
父親は国鉄職員で、母親は美容師。「ビューティサロン藤井」は当時、町に一軒の美容室で、みんなお出かけするときは髪をセットするし、着物の着付けもある。女性はほぼ全員がパーマをかける時代だったから繁盛していたし、物心ついたときには女性に囲まれていたよね。
学校から帰ると、頭にロットを巻いたおばちゃんが台所でご飯を食べていて、「お帰り~ふみやちゃん」って。
おふくろは料理好きで、店に置いている『婦人画報』に載っていたハンバーグを作ったりして。お店みたいに鉄板で出てくるから、遊びにきた友だちはびっくり。おもしろいほど境界線がない環境だった。
おやじは寡黙で頑固な昭和の男だったから、少し居心地悪かったかもしれないね。
——10代になると?
藤井 不良よ、いわゆる。不良じゃないとモテないんだよ。『ハイティーン・ブギ』とか少女漫画も、彼氏はみんな不良だったし。
中1の時、「キャロル」の解散コンサートに衝撃を受けて、友だちとバンドを組むんだよね。高1になると、久留米の市民会館なんかのダンスパーティーに演奏しに行くようになって、中心は高校生。みんな、フィフティーズの格好で踊りにくる。
4、5バンド出るんだけど、チェッカーズは久留米では有名で、福岡に呼ばれたりもした。福岡全体がスタイリッシュで、音楽シーンも「めんたいロック」が盛り上がってた時代だったね。
でも、思えばデビューするまで、親も俺が歌がうまいなんて知らない。カラオケはないし、歌うのは遠足のバスの中ぐらい。『明星』の歌本とマイクが回ってきて、みんな好きなアイドルの歌を歌ってた。
自分では、俺って歌うまいのかもなあって少し思っていたかな。
——バンド活動を続けながら、就職を?
藤井 そう。その頃、国鉄職員の息子は国鉄に入ることが多かったから。俺は構内係。客車や貨物を連結したり、移動したり。
当時、社員には国鉄の割引があって、新幹線で年3~4回は東京に行ってたね。彼女と遠距離恋愛してたから。
待ち合わせは、新宿アルタ前。『笑っていいとも!』をやっているのは、ここか~って感動した。
彼女は文化服装学院に通っていたから、すごくおしゃれで、会うたびにかわいいファッションをしてるわけ。ニューヨークっぽい!って俺も影響を受けて、髪も彼女に聞いて原宿のサロンに切りに行ってた。
バンド内で、俺だけどんどん垢抜けてったねえ(笑)。
——国鉄を辞め二十歳で上京を。
藤井 ヤマハの全国大会で優勝して、東京に行けばデビューできるし、売れなくてもどうにかなるかって。親は驚いただろうね。
チェッカーズは、メンバー同士はばりばり九州弁だし、アマチュアの頃からみんなでやってきた結束や楽しそうな空気感があって、そういうのってやっぱり伝わる。
結果、売れたんだけどね。あるとき、飛行機の窓から地上を見て、町じゅうの人が俺たちのこと知ってんだ、逃げ場ないじゃんってゾッとした。でも親は、毎週何回もテレビで息子たちの顔が見られる。すごい親孝行だよね!
久留米は九州の中心部。卑弥呼伝説にB級グルメ
——久留米は、九州の中ではどんな位置づけ?
藤井 久留米はいわゆる“ハブ”。鉄道もそこから鹿児島、大分、長崎方面に分かれる。だから久留米の人間は、鹿児島弁も熊本弁も長崎弁も大分弁もわかるんだよ。
久留米は“筑後弁”で、特徴は聞こえるか聞こえないかぐらいの小さい「ち」がつくの。「○○さんがこんなこと言っとったっち」みたいに。
あと、熊本は「~たい」って言うけど、博多弁は「~くさ」、筑後弁だと「~くさい」。黒木瞳さんの出身地・八女(やめ)あたりになると「俺が○○○しよるげっと」と、「げっと」がつく。
——久留米の自慢は?
藤井 九州邪馬台国説というのがあるんだけど、実は久留米がその中心。筑後平野が邪馬台国、祇園山古墳というのが、卑弥呼のお墓だったかもしれないっていわれてる。
筑後川があり稲作ができるし、有明海も近い。古代の国があってもおかしくないんだよ。高良大社がある高良山は、狼煙(のろし)を上げれば一帯が見えるしね。
小中高と校歌で歌ってきた、あの「高良山」が邪馬台国か!って。
藤井 あとB級グルメがうまい。とんこつラーメン発祥の地だし、ソース焼きそばや餃子の専門店もある。人口に対する焼きとり店の数が全国1位になったことも。
おすすめは、屋台上がりの大将がやっている居酒屋さん。魚に肉料理、なんならラーメンや餃子も食べられる。
家族4人で九州旅行をするときはグルメと温泉、それに野球観戦。福岡ソフトバンクホークスの応援歌『勝利の空へ』を歌ってるから、勝つと球場で歌うんだよね(フミヤが来ると勝つ説がある)。負けるとこっそり帰るんだよ(笑)。
山を見ると安らぐ。休日はひとり登山
藤井 いま、年に何度かかみさんと旅行するんだけど、こないだは松山に行きたい神社があるって言うから、車で瀬戸内を走って道後温泉へ。
今回は広い部屋の宿にしよう!と気合を入れて予約したら、一面ガラス張りで見晴らしは最高。ただ日差しが強すぎて……。そこにいられない。
ずっと二人で階段の陰に隠れてシャンパン飲んでた。人間にはやっぱり陰が必要よ。
——海も好きだし、山も好き?
藤井 山は、見ると胸のあたりがううぅってなって心が安らぐ。ノスタルジーだよね。実家は山の麓にあって、自分の部屋の窓を開けると右から左まで耳納連山が見えた。
ソロになった30代、ツアーメンバーと初めて富士山に登ったとき「なにこの気持ち」って思って、それから登山が好きになった。
一番好きなのは早朝、中央本線に乗って山を目指し、駅の売店が開くのを待ち、弁当を買って登る。山ん中は何時間も一人、心は「無」だね。
標高1000mぐらいだと、耳を澄ませば列車の音が聞こえるし、迷ってもなんとかなる。下山したら、近場の温泉に入ってビール。温泉はむかしから好きで、よく仰向けで浮かんでたねえ。息をいっぱい吸って止める。そうすると、浮くよ。
——どの年代も、いつも明るくハッピーな秘訣は?
藤井 俺に悩みがまったくないみたいに(笑)。でもなんだろうね。努力はしていたのかもしれない。仕事や人に対する真面目さとか、いろんなことへの好奇心。
デビューしてからこのかたずっと旅をしてる。どこに行っても刺激を受けるけど、忘れられないのは、番組で行ったイースター島もその一つ。
現地のお祭りで島民が正座して、あやとりをしながら歴史を語るんだよ。正座にあやとりなんて、日本とつながってるんじゃ!?と思いながら、モアイ像の前で『TRUE LOVE』を歌って帰ってきた。なかなかない経験だよね。
各駅停車の旅が夢。 行き当たりばったりで降りるんだ
藤井 これから行きたいのは、そこに行かなければふれられないような文化がある田舎かな。日本はどこまでも鉄道が走っているから、各駅停車の旅をやってみたい。
「俺の夢なんだ」ってかみさんに話したら、「じゃあ一緒に行く」って。本当かね~。
あと無重力状態で浮いてみたいっていうのもあるね。月で浮きながら音楽を聴くとどんなだろう。
もし夫婦でNASAに勤めている人がいたら、月で子どもを授かったりして「お前は最初の宇宙人だぞ」なんてこともあるよね。
でもどこを旅しても、どこに住んでもふるさとだけは、一生変えることができない。だからこそ、ふるさとをもっていてよかった。地理や文化をこんなにも知っている土地があるって誇りに思うね。
47都道府県コンサートツアー 2025-2026 FUTATABI
2023~2024年に行われた47都道府県をめぐるツアーの第2弾が4月18日、愛知県からスタート。チェッカーズ時代の名曲からF-BLOOD、ソロのナンバーまで堪能できるスペシャルライブ、F(フミヤ)UTA(歌)TABI(旅)!
●詳しくはオフィシャルWEBサイトへ
https://www.fumiyafujii.net
聞き手=くればやしよしえ 撮影=千倉志野
『旅の手帖』2025年5月号より