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「こどもホスピスを作る!」と立ち上がる有志たちの感動実話 重篤な病の子どもが持つ「人を変える力」とは

コクリコ

重い病や障害とともに生きる子どもとその家族を支える「こどもホスピス」ルポ第5回。全国に広まりつつある「こどもホスピスプロジェクト」と発起人たち、その活動について。全5回

【写真➡】第4回こどもホスピスの“きょうだい児”や遺族のケアを見る

大阪市に生まれた「TSURUMI(つるみ)こどもホスピス」(2016年)や横浜市で実現した「うみとそらのおうち」(2021年)に続き、全国各地で「こどもホスピス」の開設を目指すプロジェクトが立ち上がり、さまざまな活動を続けています。連携してプロジェクトを推進していく法人も発足し、公的支援や制度的な位置づけをめぐり、国との協議も始まりました。

重い病の子どもを知る大人たちが立ち上がった

小児がんの治療をしながらも模索

重い病や障害などのため、命が脅かされている子どもとその家族に寄り添う場所として、1980年代はじめにイギリスで誕生した「こどもホスピス」。日本でも2010年代から首都圏や大阪に施設が立ち始め、それぞれの形で運用が進んでいます。

22年には、こどもホスピスの取り組みを支援する議員連盟が設立され、各地のプロジェクトも連携して情報交換を始めました。24年には連携の形が「一般社団法人全国こどもホスピス協議会」と本格的なものになり、こども家庭庁など国との協議を進める基盤が整いました。

そして「うみとそらのおうち」(略称うみそら)の田川尚登(ひさと)さんが小児がんで亡くなった次女・はるかさんへの思いを胸に立ち上がったように、各プロジェクトの中心は、さまざまな背景から「こどもホスピスをつくろう」と決意した人たちです。

「愛知こどもホスピスプロジェクト」の代表・畑中めぐみさんは、看護師時代に小児がん患者と向き合った経験から、仲間とともにプロジェクトを立ち上げました。

「福岡こどもホスピスプロジェクト」の代表・濱田裕子さんは、小児がんを発症した我が子の闘病に伴走した経験があり、看護学やグリーフケア研究を深める研究者の立場から、プロジェクトをけん引しています。

昨年(2024)10月には、「沖縄こどもホスピスのようなものプロジェクト」がNPO法人となりました。代表を務める宮本二郎さんは、小児緩和ケアを専門とする医師の立場から、プロジェクトを始めました。

宮本さんは長い間、沖縄県内の医療機関で小児がんの治療にあたっていましたが、10年ほど前、従来型の医療行為に疑問を持ち始めたといいます。こう語ります。

「医療の進歩により、小児がんの7~8割は治る時代。治療の成功率が高いので、医師としてもやりがいがあります。でも、厳しい治療を受け続けて病院で亡くなる子どもも少なくなく、これでいいのだろうかと。それで小児緩和ケアの勉強を始めました」

「海で魚を突きたい」小児がんの子の願いを実現

2016年、宮本さんは沖縄を離れ、小児緩和ケアの実績がある「大阪市立総合医療センター」の緩和ケアチームに移籍しました。偶然ですがこの年、大阪では「TSURUMI(つるみ)こどもホスピス」(略称TSURUMI)が誕生しました。そして同医療センターには、「TSURUMI」のプロジェクトを中心となって進めた医師たちがいました。

医療センターに通う子どもたちも「TSURUMI」を利用し始め、宮本さんに、「こどもホスピス」という場の魅力を教えてくれました。自身も「TSURUMI」を訪ねてみて、こう思いました。

「沖縄にも、こんな場所があるといいなあ」

ただし「TSURUMI」のプロジェクトでは、5億円を超える総事業費が大手企業と日本財団から拠出された経緯があります。そのため当時は「憧れ」でしかありませんでした。

ところが2021年11月、横浜に「うみそら」が開設されました。総事業費のほとんどを寄付やチャリティーイベントで集めたと聞き、こどもホスピスは「実現可能」なものに感じられました。愛知や北海道、仙台など、各地で続々とプロジェクトも立ち上がり、「憧れ」は「決意」へと変わりました。

宮本さんは21年に沖縄県に戻り、仲間と共にイベントや講演会を開きながら、こどもホスピスのことを発信すると共に、LTC(生命を脅かす病気)の子どもたちの「やりたいこと」を叶える活動を続けています。

21年の夏には、「海で魚をモリで突いてみたい」という男の子の希望を叶えました。男の子は進行した小児がんで、泳ぐことも歩くことも難しいため、インストラクターや複数の大人が付き添う形で実現。男の子はインストラクターに抱えられた状態で海に浮かび、目の前でプロの漁師が魚を捕獲し、その魚を男の子に渡してくれました。

男の子は数ヵ月後に旅立ちましたが、家族からは感謝の言葉が伝えられました。

「体験の後、お母さんが『息子が驚くほど成長した』とお話しされていました。麻痺した手で友達に『男たるもの』とメッセージを書いたり、いろいろなことを自分で決めるようになったと」

LTCの子どもたちは周囲を変える力がある

ところでプロジェクト名「沖縄こどもホスピスのようなものプロジェクト」に、「のようなもの」とあるのは、なぜでしょう。

「施設を作ることだけが目的ではなく、施設を利用するLTCの子どもたちと、健康な子どもたちや地域との接点を作り、真にインクルーシブな社会にしたいんです」

数年前、宮本さんが担当した小児がんの女の子が、「学校に遊びに行きたい」と言うので、家族と付き添った際のことです。

病気は厳しい状態だったものの、約1年ぶりに小学校の友達と会えて大喜びでした。給食も食べることになり、一つの班に混ざって食べ始めたときでした。

別の班から「あの子、死ぬんでしょ?」という声が聞こえ、誰かが「しっ!」と遮りました。それが聞こえたかどうかはわかりませんが、帰り道、女の子は「すっごく楽しかった」と笑顔を輝かせていました。

「LTCの子どもたちは支えられるだけの存在ではなく、周囲の人々を変える力があります。共に過ごすことで、病や命に対する理解を深め、他者への思いやりや想像力を育む場所を目指したい」

資金集めはこれから本格化しますが、地元の企業が、自社の土地を「候補地の一つに」と提案してくれています。

「目の前に海が広がる、素晴らしい場所。時間はかかりますが、必ず実現させます」

沖縄こどもホスピスのようなものプロジェクト」代表理事で小児緩和ケア医・訪問診療医の宮本二郎さん。  写真提供:宮本二郎さん

地域性を考慮した「間借り方式」や切符の寄付

北の大地でも、NPO法人「北海道こどもホスピスプロジェクト」が、施設の開設を目指し、さまざまな取り組みを進めています。

北海道のプロジェクトの特徴は、札幌市内でひとまず「間借り方式」で病児とその家族を受け入れていることです。活動に共鳴した市民が無償で貸してくれている札幌市内のマンションの2部屋を、「くまさんち」と名付け、宿泊や休憩用に貸し出しています。

プロジェクト理事長の奥田萌(めぐみ)さんが説明します。

「北海道では主要な病院が札幌に集中している一方で、とにかく広いので、移動に4~5時間かかる地域から治療に来なくてはなりません。

北海道で闘病する子どもの家族は、心身の辛さに加えて経済的負担も大きいし、離れて暮らす時間も増える。家族の絆が希薄になりがちなので、そういう部分を少しでも支えることができたらと考えています」

例えば、札幌の病院で治療を受けるために、自宅から半日がかりで移動してホテルに前泊するケースや、退院当日の長時間の移動を避け、病院の近くで泊まってから、翌日に移動するケースが多いそうです。

ちなみにそんな現状を奥田さんたちがJR北海道の幹部に伝えた結果、「くまさんち」の利用者の移動費のうち、道内のJR料金を切符で「寄付」してくれることになりました。

プロジェクトの理事で、「くまさんち」の運営責任者の白坂るみさんは、自身の看護師経験から「家族ケア」の重要性を痛感していると言います。

「小児病棟で付き添う多くのご家族は、自宅から遠い病院までの移動負担に加え、自宅に残っているきょうだい児のことも心配しながら、子どもの治療生活を支えています。

『くまさんち』では、入退院の前後泊利用のほか、治療の合間などに、家族水入らずでお風呂に入るとか、温かい手料理で一息つくとかして、第二の我が家のように過ごしていただきたい」

「くまさんち」は2022年10月に運用を開始し、2024年4月に移転。同年12月末までにのべ35人が利用し、稼働率は約90日間でした。石川県や神奈川県から、北大病院での治療のために利用した家族もいたそうです。

病児ケアのガイドと車椅子でアウトドア体験

もう一つ、奥田さんたちが大切にしているのが、アウトドアイベントです。春や夏のキャンプや、秋のバーベキューイベント、冬の雪遊びなど、北海道の大自然を満喫できる催しを、四季ごとに開催します。奥田さんはこう話します。

「子どもは自然の中で遊ぶことが大好き。でも、たくさんのお子さんが病室や自宅にこもりきりです。でも幸い、北海道には病児のケアに詳しいアウトドアガイドがたくさんいます。家族もきょうだいも、みんなが一緒に楽しめるよう、私たちもガイドたちも、全力でサポートします」

筋ジストロフィーの長男・史弥くん(12)と共に、家族ぐるみで2023年からイベントに参加している苫小牧市の石森恵美さんは、「家族全員が楽しめるので、いつも楽しみです」と満面の笑みです。

史弥くんが電動車いすで生活しているため、家族で外出する際は、史弥くんが行ける場所に限られてしまいます。恵美さんはこう語ります。

「普段は車椅子だと無理だから行かない、となりがちですが、奥田さんのところでは『車椅子でもOK』と言ってもらえます。下の子も、きょうだい児同士で虫取りに走り回ったり、日ごろできていない遊びに夢中です。プロが子どもたちに寄り添ってくれるので、その間、親もリラックスできる。さまざまにありがたい機会です」

昨年11月には、プロ野球の日本ハムファイターズのファン感謝デーに招待され、プロジェクトへの寄付を、史弥くんが選手から直接、受け取るという特別な経験もしました。こうしてプロジェクトのイベントは、史弥くんにとっても、なくてはならないものになったそうです。

恵美さんは、「ひとつ終わるとすぐ、『次はいつ?』『お母さん、次のイベント申し込んだ?』と質問攻めです」と苦笑します。

そして現在の活動を深めつつ、奥田さんたちも「うみそら」のような自前の施設を目指しています。奥田さんはこう語ります。

「自分たちの場所があれば、必要な方にいつでも来ていただけます。家族の絆と負担軽減にフォーカスした『くまさんち』とはまた違った幅広いサポートを、実現できると思います」

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残された時間があとわずかだとしても、最後の瞬間まで、子どもらしく生きてほしい──。

横浜のこどもホスピス「うみとそらのおうち」を取材させていただく中で、お子さんを笑顔で見守るご家族の姿から、そんな無言のメッセージを受け取ることが、多々あります。

ご紹介したように、国内各地でこどもホスピスプロジェクトが立ち上がりましたが、翻(ひるがえ)って考えると、重い病や障がいと共にある子どもたちと家族が、これまでいかに病院と自宅に閉じ込められてきたか、ということだと思います。

こどもホスピスの「概念」も定まらない段階ですが、一人でも多くの子どもとご家族が、「こどもホスピス」的な環境に出会える社会について、考え続けたいと思います。

取材・文/浜田奈美

フリーライター浜田奈美が、こどもホスピス「うみとそらのおうち」での物語を描いたノンフィクション。高橋源一郎氏推薦。『最後の花火 横浜こどもホスピス「うみそら」物語』(朝日新聞出版)

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