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「文字」という語の由来とは?【声と文字の人類学】

NHK出版デジタルマガジン

「文字」という語の由来とは?【声と文字の人類学】

 「声より先に文字がある」「文字記録が信頼されない」など、意外な事例に満ちた文字の歴史を紐解いた『声と文字の人類学』。構造主義をはじめとする文化人類学理論が専門の出口顯さんが、声に出して話し、文字を読むという日常的な営みについて、人文学の領域を横断しながら論じます。当記事では、第Ⅲ部「書承と口承の境界面」の一部を抜粋して公開します。

出口顯『声と文字の人類学』第Ⅲ部「書承と口承の境界面」より

「文字」という語の由来

 柳田國男の耳の文芸・眼の文学のように、文字は声との対比で、眼と視覚に結びつけられる。しかし、それは、まず書き記す紙なり石に触れて、記したりときには刻みこんだりするという、触覚に何よりも結びつくものなのだ。漢字の研究で大きな足跡を残した白川静によれば、「文字」の「文」のもともとの意味は文身であった。

 文身とは何らかの儀礼的な目的をもって加えられる身体装飾をいう。その方法には、朱や黒などで一時的に文様を描き加える絵身、皮膚を鋭い針で刺して破り、そこから墨などを皮下に注入する黥𣵀(入れ墨)、皮膚に切り傷などを加えてその傷跡を文様化する瘢痕がある。文のもともとの字体を考えると、屍体を聖化する絵身の方法がとられていたようだが、そのとき死者の世界への加入と霊の復活を願う儀礼として行われたのは、心という形の文身を死者の胸部に加えることだった。

 一方、「字」のもともとの意味は「あざな」で、家廟に子の出生を報告する儀礼で、幼名 (あざな)をつけ、子の養育(字養)のことを定める。こちらは人の誕生と家への加入の儀礼で、しかも養育という子の身体に触れて行う営みを指す。

 文と字がセットになる「文字」は、それ故もともとは誕生から死後まで人の身体に触れるという皮膚感覚に結びつくものであったことがわかる。芳一の身体に書き記されたお経(*)は、このような、まず記されるものであり触れるものとしてある文字の特質を、いささか極端な形で表したものに他ならないといえよう。そしてときにそれは指や手の記憶として現代の日本人に残り続けることを示したのが、東京大学の総長を務めた仏文学者で映画批評家である蓮實重彦による『反=日本語論』の、「仕掛けのない手品」である。

*小泉八雲「耳なし芳一」の物語で、亡霊を近づけないために和尚が芳一の身体に記したお経

不可視の黒板

 夫人でフランス語を母語とするシャンタル蓮實氏が国立の女子大学でフランス語を教えていたとき、彼女は授業で、あるゲームを学生に課した。学生を二列に分けて並んでもらい、両方の列の端の二人に一つの文章を示す。声を立てずに読んだそのフランス語の文章を、二人はそれぞれの列の次の人の耳元でささやく。それを次から次へと伝えていって、最後の人が改めて紙に書き写し、原文と比較して、歪曲や捏造、記憶違いや誤解が紛れ込んでいないかを確認して勝敗を競うという、さして珍しくはないゲームである。

 このとき、蓮實夫人はあることに心奪われる。次の人へ伝えようとするとき記憶が曖昧になったり自信をなくしたりすると、多くの学生が目をつむって右手の人差し指を膝の上で動かしたり、宙に模様を描くように右手を震わせたりする。そして、その指の動きによって何かを確信しえたといった具合に、急に晴れやかな表情になって、停滞していた言葉の伝達を不意に活発にするのである。「あれは、いったい何なのか」。秘密の指話法のような記号体系を皆が共有しているのではないかと彼女は思ったほどだった。

 しかし日本語を母語とする夫には、そこに仕掛けなど何もないことが歴然としている。学生たちは、指先の動きで伝えるべき文章の単語の綴りをなぞり、それを発音と結びつけていた。複雑な計算を暗算でやらなければならないときにするのと同じように、うっかり忘れてしまった漢字を思い出そうとするときも、見えてはいない文字の形態をなぞりながら、視覚的記憶を筆先におびき寄せようとする。「どうしても憶えていなければならない文章の音声のつらなりを、文字の綴りを宙に描く指の動きによって活性化させていたのに違いない」

 しかしフランス語話者の妻には、この説明も理解困難なものであった。「単語の綴りをなぞりながら、それを発音と結びつけていたんですって。それが、一種の記憶術だなんて、とても信じることはできない」。やや曖昧なフランス語の単語の綴りを思いだそうとすることはあるが、視覚的記憶にうったえて人差し指を動かしたことなどただの一度もない。ここでtが二つ続くのか、などと頭の中で思い出そうと努力するだけだ。「あなたは、フランス語の綴りをおぼえるときも、そんな魔術めいたやりかたをなさったの」。

 これに対して、フランス語話者の妻から複雑な綴りの単語のスペルを尋ねられたときのことを思い返しながら、日本人である夫は、見えていない文字を記憶の中でたどりながらフランス語の綴りをゆっくり読み上げることは可能であったと思い起こす。

 それは、不可視の文字として、どこかに刻みこまれているのだ。夫にとって、外国語の単語とは、この痕跡を視覚化することによって獲得されてゆく。[中略]われわれは、筆の動きをともなった一連の図型のようなものとして、単語の綴りをどこかしらに視覚的に刻みつけている。そしてその魔術的な記憶術を、漢字の習得の過程で身につけているのではないか。

 蓮實の考察は、誰もが国語のノートに繰り返し漢字や仮名を書いて覚えるという経験をしている日本人には首肯できるものである。このあとエッセイは、言語が文字や表記法にいささかも従属することのない「音声」的な現象であり、「声」こそが言語的思考の真の対象であるという「音声中心主義」の批判へと展開していく。そのため聴覚的側面に対する視覚的側面という二項対立が論点であるように見えるが、問題なのが、視覚を呼び起こすのが手や指を動かしたという身体記憶であることに間違いはない。というのは、蓮實による『フランス語の余白に』(朝日出版社)という教科書の序言には、「視覚的、あるいは聴覚的にフランス語へと接近するのではなく、もっぱら手を動かして、つまり書くことによってそれに同化すべく」作られたこの教科書のいくつもの例文を、「ただ盲滅法に書き写し、ついには原典を見ずに全文がすらすら書き綴れるようになってほしい」と書かれていたからである。

手の記憶

 この経験が貝原益軒にまで遡ることができるのを、比較教育史の観点から実証的に説明したのは添田晴雄である。添田は、日本の初等・中等の学校教育が、書字随伴型学習(文字を書きながら学ぶ学習)と書字随伴型授業(文字を書きながら展開する授業)を中心に成り立っており、それを支えるのが、教室の前面いっぱいに設置された黒板で頻繁に書き替えられる板書であることを明らかにしている。それは、確かに黒板に文字が書かれはするが黒板は主に掲示板的な役割を果たすのみであり、授業は口頭で行われるという欧米の授業スタイルとは大きく異なっている。

 生徒に文字を読ませるだけでなく、書かせることを重視した学習指導法のスタイルは、江戸時代の手習い所(寺子屋)で既に見られたものであり、それを説いたのが貝原益軒である。彼は宝永七(一七一〇)年に八十一歳で著述した『和俗童子訓』巻之三において次のように述べている。

六七歳より和字をよませ、書ならはしむべし。はじめて和字ををしゆるに、「あいうゑを」五十韻を、平がなに書て、たて・よこによませ、書ならはしむ。又、世間往来[=往復書簡を集めて手習いの手本としたもの]の、かなの文の手本をならはしむべし。

 「手」ならいというように、文字をまず書くことが学びの始まりなのである。その文字の視覚的形はまず手に記憶されている。でこぼした机、あるいは反対につるつるの下敷きの表面に置かれた紙の上に字を書くという、記される表面と筆や鉛筆のような道具を使う手の間の緊張関係、それらは音声中心主義的な言語観や口頭伝承の社会の考察では、しばしば見落とされてきたものなのである。

著者

出口顯(でぐち・あきら)
島根大学名誉教授・放送大学島根学習センター所長。博士(文学)。1957年、島根県生まれ。専門は文化人類学。著書に『ほんとうの構造主義──言語・権力・主体』(NHKブックス)など。

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