元教員の渡辺さんに聞く 「学習運動」今に根付く 登戸研究所資料館15年
明治大学平和教育登戸研究所資料館(多摩区)は2010年の開館から今年で15周年を迎えた。秘密戦研究施設「旧日本陸軍登戸研究所」の歴史を伝える貴重な施設だが、その史実の発見と継承には、川崎市民の力が大きな役割を果たした。同資料館の展示専門委員で法政二高の元教員、渡辺賢二さん(81)の証言の後編をお送りする。
市内に多数の元所員
川崎市が1985年度から進めた「平和教育学級」は、計千人以上が参加した市民講座だった。渡辺さんが率いた「中原平和教育学級」は、明大生田キャンパス界隈に現存した「登戸研究所」に注目した。
88年3月。生田キャンパス正門付近の「動物慰霊碑」の見学会で、渡辺さんは初見の高齢男性に目が留まった。「失礼ながら元所員では」と尋ねると、男性は「そうです」。研究所の工場で働いた井上三郎さん(故人)だった。こう教えてくれた。「所内のことは墓場まで持っていけと言われていたので、街で元所員と顔を合わせても、お互い声もかけなかった。だが終戦から40年近く過ぎ、元所員で『登研会』を作った」
井上さんらが発起人となり、82年に「登研会」が発足。封印された時を語り合う「同窓会」だった。渡辺さんは「人生の一部を失ったようで苦しかった」という井上さんの言葉を覚えている。
井上さんは「登研会」の名簿を渡辺さんに託した。名簿に記載された元所員278人のうち、99人が川崎市民だった。この結果に「平和教育学級」に参加していた高校生が「アンケートを送ろう」と提案。仕事内容などを尋ねる質問を記載したアンケートを作成し、市教委の協力を得て市内の99人に送ったところ、27人から回答があった。
そして回答者の一人、小林コトさん(故人)から、約900枚に及ぶ内部文書の複写が提供された。小林さんは15歳から所内でタイピストとして勤務し、文書の複写を保管して終戦時に持ち出していた。研究所の記録は防衛庁(現防衛省)にも残らなかったほど貴重な資料だ。渡辺さんは「毒物の購入伝票や毒物兵器を持参した出張記録、所員が業務で致命傷を負った記録もあった。本格的な調査につながる大きな手掛かりだった」。
約1万筆の署名
89年には「中原平和教育学級」の取り組みを著書『私の街から戦争が見えた』として発表し、メディアの注目を集めた。だが翌90年、明治大学が研究所の遺構のうち旧本館の取り壊しを発表。保存を求める市民の声に押され、市は旧本館を撮影のうえ川崎市平和館での記録保存を決めたものの、林立していた遺構は徐々に姿を消した。
やがて「登研会」も声をあげ、2006年には「平和教育学級」の参加者を中心に遺構保存を求める「川崎市民の会」が発足。07年には遺構保存と資料展示施設の設置を求める9803筆の署名が集まり、請願書とともに市議会に提出した。
なぜ約1万もの署名が集まったのか。「市民の会」共同代表を務めた渡辺さんは「学習の力です」と笑みを見せる。保存を求める上で、頻繁に見学会を開いたそうだ。「毎回、何百人もの市民が集まった。政治運動ではなく歴史を継承する学習運動だったからこそ、浸透したのだと思う」
市民の「学習運動」の先に、現在の「資料館」がある。渡辺さんは言う。「まれにみる運動だった。あの力は今も根付いていると思う」