横浜の運河の面影を探して。日本大通り~関内~伊勢佐木長者町【「水と歩く」を歩く】
ある街を歩く際、時間があればその土地の博物館や資料館に立ち寄るようにしている。はじめて訪れる街であれば、その地域の歴史を知ってから訪れるべき場所を見つることができるし、よく訪れる街であれば、見慣れた風景がどのような歴史を経て形成されたか知ることができる。今回は何度も来たことがある横浜を、とある展示を見てから歩くことにした。
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散歩の達人 2025年6月号
大特集は「東京駅・日本橋 -2025-」。過渡期を迎えた、日本のまんなか。生粋の江戸っ子から、“新参者”の江戸っ子までひっくるめて動き出したこの街の2025年の姿を見に行こう。第2特集は「最注目の“ガチ中華”タウン 高田馬場」。街を行き交う中国人留学生に人気の店とは?お見逃しなく!
横浜の“河川運河”の歴史を知る
これまで『散歩の達人』の連載「水と歩く」では東京23区内、埼玉県(八潮市)、千葉県(市川市・松戸市)の街を歩いて来たが、今回は初めて神奈川県まで足を延ばしてみた。というのも、『横浜都市発展記念館』で「運河で生きる ~都市を支えた横浜の“河川運河”~」(2025年1月18日~4月13日)という企画展が行われているのを知ったからだ。
『横浜都市発展記念館』は公式HPの「利用案内」によると、〈現在の横浜市をよりよく理解するために、その原型が形成された昭和戦前期を中心にして、「都市形成」「市民のくらし」「ヨコハマ文化」の三つの側面から、都市横浜の発展のあゆみをたど〉る施設で、みなとみらい線日本大通り駅を出てすぐの場所にありアクセスも非常に良い。建物は昭和4年(1929)に建てられたもので「旧横浜市外電話局」として横浜市認定歴史的建造物に指定されている。
企画展「運河で生きる」のあいさつ文には以下のようなことが書かれていた。
「開港後、港湾都市として発達した横浜。そこには多くの河川が流れていました。これらの河川には、吉田新田開発以前から流れていた自然河川の大岡川のほか、吉田新田の開発によって開削された中村川、開港後の都市の開発によって整備された新吉田川など、用水路や舟運路として人工的に造成された河川も含まれていました。
このような自然河川と人工河川からなる“河川運河”は、東京湾を通じて、東京や三浦半島、房総半島とつながり、一大輸送網を形成しました。この輸送網で活躍したのが、河川を行き交う艀や汽船でした。輸送網を通じて、“河川運河”沿いには問屋・卸売業や造船業、製材業など様々な商工業が進出し、戦前・戦後の横浜の経済成長を支えました。
ところが、都市横浜の成長を支える重要なインフラであった“河川運河”は、高度成長期にかけて、輸送革新や水質汚染といった問題に直面します。都市計画の開発の対象となった“河川運河”は、1960年代~70年代以降、その姿を大きく変えていきます。そこで衰退するかと思われた“河川運河”ですが、開発をめぐる議論のなかで、市民の生活を支える親水空間として復活していきます」
「運河で生きる」の展示は大変面白く、港や丘のイメージが強い横浜にも、運河と船運といった現在では忘れられつつある風景があったことを知った。また艀(はしけ)の模型や埋め立てが進む河川の写真など貴重な資料も多く、中でも水上学校に通った児童たちの作文は胸に迫るものがあった。
展示では大岡川の水上ホテルの転覆事故について触れられていたのだが、後で調べてみたところ『NHKアーカイブス』に当時のニュース映像があった(NHKアーカイブス「寒夜の惨事 横浜<時の話題>」放送:1951年)。1951年のこの事故をきっかけに水上ホテルや大岡川沿いの露店やバラックなどを含めた撤去を求める声が高まり、1959年8月には全ての水上ホテルが撤去されたそうだ。
企画展は既に終了しているが、写真や図版が多く掲載された図録を館のオンラインショップ(https://tohatsu-eurasia.shop-pro.jp/?pid=184588167)から購入できる。
ちなみに2025年6月21日~7月13日には『横浜開港記念会館』でも横浜の運河をテーマとした展示が行われるそうなので、興味のある方はぜひ足を運んでみてほしい。
「横浜の運河 変わる役割と町並み」神奈川大学非文字資料研究センター/横浜市開港記念会館 合同企画展
http://himoji.kanagawa-u.ac.jp/news/index.html#p-1774
馬車道で横浜に点在する「防火帯建築」を見る
埋め立てられた運河についての展示を見た後は、やはり実際にその場所を訪れてみたくなる。派大岡川や吉田川・新吉田川の跡は現在どうなっているのだろう。『横浜都市発展記念館』のある日本大通りからこれらの河川跡へ行くためにはひとまず根岸線の高架と関内駅がある方へ向かえばよいのだが、実は河川運河以外にもう一つ気になっている、横浜の歴史にまつわるあるものがあった。以前『横浜防火帯建築を読み解く』(藤岡泰寛 編著、花伝社)という本を読んでその存在を知った「防火帯建築」だ。
この本で取り上げられている横浜の「防火帯建築」とは〈一般的には「防火建築帯」として知られて〉いるもので、〈1952年5月31日に制定施行された「耐火建築促進法」に出てくる用語であり、この法律を根拠に、延焼防止帯となる不燃建築を帯状(路線状)に形成することを目標として、全国92都市で防火建築帯が指定された〉という(同書p.13)。
しかし「耐火建築促進法」が施行された1952年というのは、他の主要各都市では戦災復興事業が一段落したところだったが、横浜では米軍に接収された土地の返還が進み始めたばかりだっため〈まとまった造成が困難であり、指定された防火建築帯と実際に立つ建築がイコールとならず、個々の復興建築を別途「防火帯建築」と呼び分けるようになった〉(同書p.25)。
つまり本来は「防火建築帯」として面的に整備するように計画されたものの、部分的にしか実現せず、結果各所に「点」として存在している建築を「防火帯建築」と呼びならわすようになった、ということらしい。
元々馬車道会館ビルとして建てられ、後に野田ビルという名称が分けて付けられたようだが建物としては一体のものとなっている。外から見る限り、南西側には1階から3階まで飲食店が、北東側には1階に眼鏡店が入っているようだ。
いかにも歴史がありそうに見える近代建築と異なり、鉄筋コンクリート造のシンプルな外形は「ただの古いビル」として見過ごしてしまいそうになるが、横浜中心部には他にも街路に沿って建てられた3〜5階建ての「防火帯建築」が残っていて、こうした今となっては目立たぬ建築(群)こそが戦後の横浜の景観を特徴付けてきた。
写真を撮っていると馬車道会館ビルの前を大きなキャリーバッグを転がしながら歩く観光客が何人も通り過ぎていった。きっと周辺のホテルに宿泊しているのだろう。観光地では珍しくない光景だが、ここが馬車道であることを考えると、幕末からさまざまな国や地域から人を迎えてきたこの道の役割が今も引き継がれているのだと感じる。
関内駅周辺の派大岡川跡と残された橋
馬車道を南に下っていくと根岸線の高架が見えてくる。派大岡川はどうやらこの高架から、その向こうの首都高速神奈川1号横羽線の通っているあたりを流れていたようだ。現在の吉田橋はかつて派大岡川に架かっていた「鉄(かね)の橋」と呼ばれていた吉田橋を復元したものらしい。
横浜開港時、開港場と吉田新田を結ぶ橋として架けられたのが吉田橋で、現在の橋は5代目になる。この吉田橋に関所が設けられ、関門の内側が関内、外側が関外と呼ばれるようになった。関内の駅名はこの「関内」の名残だ。
吉田橋を渡ってみるとわかるが、派大岡川の川幅はそれなりに広かったのだろう。
かつての川は地下街となり首都高となり、街に新たな流れをもたらしている。吉田橋を渡ると正面にイセザキ・モールが続いているが、今回は寄らず、右に外れて吉田町へと向かう。
吉田町・福富町に存在した「かまぼこ兵舎」
戦後、市内中心部は米軍によって接収され、吉田町・福富町一帯には「かまぼこ兵舎」が並んでいた。「かまぼこ兵舎」とは英語で「クォンセット・ハット(Quonset hut)」と呼ばれるトタンによるプレハブ工法で制作された建物で、戦後日本では在日米軍の兵舎として建設された(東京都墨田区墨田にある墨田聖書教会の会堂はこのクォンセット・ハットを改修したもので、現在も教会として使用されている)。
1949年に米軍によって撮影された空中写真を見ると吉田町・福富町に同じ形の建物が並んでいるのがわかる。これが「かまぼこ兵舎」だ。
赤い塗装が特徴的な吉田町第一名店ビルのあたりから、その背後の福富町にかけて、かまぼこ兵舎がかつて立ち並んでいた。一帯が米軍による接収から解除されたのは戦後11年経った1956年8月だったという。
吉田川・新吉田川を埋め立てた大通り公園へ
今回は主に河川運河(跡)をたどる散策なので、福富町をゆっくり歩くのはまたの機会ということにして、大通り公園へと向かう。吉田町から新横浜通りを関内駅の方へ歩くと、やがて南西方向へと長く延びる公園が見えてくる。ここが吉田川・新吉田川を埋め立てて整備された大通り公園だ。
川跡がそのまま公園になっているため、幅30〜40m、長さ1200mという細長い形状をしていて、通常の公園とは異なる開放感がある。
公園には「石の広場」「水の広場」「サンク・ガーデン」「みどりの森」の4つのゾーンがあり、それぞれに彫刻やテーマに沿った構造物が設置されている。平日の午後だったが、近くで働く人たちや地域住民らしき人たちが横になったり弁当を食べたりと、それぞれの時間を過ごしていた。
2026年から「横浜市大通り公園1区〜3区リニューアル事業」が始まり、飲食店舗やイベント広場などが新たに整備されるという。現在ののんびりした空気も好きだが、どのように変わっていくのか楽しみでもある。
「石の広場」から南西に歩き「水の広場」ゾーンへと入ると、大通り公園の脇に隣接してもうひとつの公園があることに気づいた。iPhoneアプリ「横濱時層地図」で「昭和戦前期(昭和3-14年)(1928-1939年)」の地図を見てみると、吉田川と中村川をつなぐように「日ノ出川」が南東方向に流れている。全長603mほどの長さで、川幅が狭く水深も浅いことから大型の船が行き来することができず、早くから利用価値が疑問視されていたという。1953年から埋め立てが始まり、現在はその一部がテニスコートや芝生広場のある公園として整備されているようだ。
日ノ出川公園の脇には伊勢佐木長者町駅の出入りがあり、階段を下りていくと地下の連絡通路の壁面何やら川の形をデザインしたモニュメントのようなものがあった。
横浜市道路局橋梁課が発行する「はしのはなし VOL.2 第二稿 吉田川・新吉田川に架けられた橋」によると、吉田川・新吉田川の埋め立てにともない全ての橋梁が廃止されてしまったが、市民から橋名板を利用した記念碑を制作してほしいという声が上がり、それを受けて1981年に橋名板を埋め込んだモニュメントが設置されたそうだ。
橋名板を使った記念碑を残してほしいという声があがるくらい、吉田川・新吉田川に架かる橋は地域の人にとって身近なものだったのだろう。
大通り公園へと出る階段を上がって再び地上へ戻り(階段を上がりきったところで思わず「ぷはぁっ」と言いたくなる)、今度は埋め立てられていない川、大岡川まで歩くことにする。
(次回へ続く)
取材・文・撮影=かつしかけいた
【参考文献・URLなど】
・「運河で生きる」展示関連
『横浜都市発展記念館』公式HP
http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/
横浜市公式ウェブサイト「かわのはなし」
https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/machizukuri-kankyo/kasen-gesuido/kasen/kouhou/kawa-hanashi/kawanohanashi.html
・馬車道
馬車道商店街オフィシャルサイト「馬車道の歴史 大火からのまちづくり」
https://www.bashamichi.or.jp/history/GreatFire.html
・防火帯建築
藤岡泰寛 編著『横浜防火帯建築を読み解く 現代に語りかける未完の都市建築 』 花伝社
https://www.kadensha.net/book/b10032534.html
藤岡泰寛「横浜の防火帯建築と戦後復興」
http://bokatai.blogspot.com/
・かまぼこ兵舎
『横浜都市発展記念館』戦後横浜写真アーカイブズ
http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/test_sengo.html
神奈川新聞社『カナロコ』 神奈川新聞アーカイブズ「かながわの記憶1948(昭和23)年」、2025年5月19日参照
https://kanagawashimbun-archives.jp/kanaloco/kanagawanokioku1948.html
神奈川新聞社『カナロコ』 神奈川新聞アーカイブズ「ヨコハマと戦災復興の記憶 」、2025年5月19日参照
https://www.kanaloco.jp/news/social/article-740275.html
『墨田聖書教会へようこそ』「教会建築リノベーション」
http://sumidabible.blog10.fc2.com/blog-entry-8.html
『建築リノベーションアーカイブ.com』「墨田聖書協会」
https://renovation-archive.com/2025/03/01/post-4230/
・吉田川・新吉田川、連絡通路モニュメント
横浜市公式ウェブサイト「はしのはなし」 第二稿 吉田川・新吉田川に架けられた橋
https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/machizukuri-kankyo/doro/kensetsu/kyoryo/hashinohanashi.html
・日ノ出川
『横浜開港資料館』公式HP内 館報「開港のひろば」第95号 2007(平成19)年1月31日発行 「企画展 消えた八つの川 埋立か? 存続か? ゆれ続けた日ノ出川」
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/
日ノ出川公園
https://www.kanagawaparks.com/hinodegawa/
かつしかけいた
漫画家・イラストレーター
葛飾区出身・在住の漫画家・イラストレーター。2010年代より同人誌などに漫画を発表。イラストレーターとしても雑誌や書籍の装画などを制作する。2021年よりWebコミックメ ディア「路草」にて『東東京区区』を連載中。