《連載》もっと文楽!~文楽技芸員インタビュー~ Vol. 10 吉田簑二郎(文楽人形遣い)
可愛らしい娘、落ち着いたおばあさん、優男から胴欲なおじいさんまで、遣う人形の幅の広さにも定評がある人形遣い、吉田簑二郎(70)。国立劇場第3期文楽研修生であり、現在は養成所の講師も務める彼に、迷える青春時代にみつけた居場所である文楽への思い、去る11月7日に惜しまれつつこの世を去った大好きな師匠・吉田簑助との思い出のほか、現在、第34期研修生を募集中の文楽研修制度への考えなどを聞いた。
赤穂義士のふるさとに育って
2023年発行の『文楽名鑑』に、会ってみたい歴史上の人物として記した名は「大石内蔵助」。それもそのはず、簑二郎さんは、大石内蔵助率いる赤穂義士のふるさと、兵庫県赤穂市の出身だ。
「赤穂と言っても広うございまして、中心部から少し離れたところに住んでいたのですが、赤穂義士は小学校時代から身近な存在でした。討ち入りを果たした12月14日の“義士祭”では、午前中に講堂に集められ、担当の先生が忠臣蔵のお話をする“義士教育”があって。その内容が、『神崎与五郎東下り』とか『赤垣源蔵徳利の別れ』とか、今思うと史実ではないフィクションだったのですが、やっぱり子供心に面白かったんです。でも、文楽の演目にも忠臣蔵があるとわかったのは、研修生として勉強している時のこと。大石内蔵助が大星由良助、浅野内匠頭が塩谷判官に名前を変えているし、文楽では討ち入りの場面もやらないし、戸惑いましたが、忠臣蔵という言葉自体が、人形浄瑠璃から出たことを知ったのは嬉しかったですね」
つまり、出身地と文楽の世界に入ったことに、因果関係はなし。それどころか、初めて生の文楽を観たのは、大阪ではなく東京の国立劇場だったという。では、簑二郎さんはどのようにして文楽の世界にたどり着いたのだろうか?
「父親含め、周囲に教職関係が多かったので、自分も学校の先生になるのかなと漠然と思いつつ、浪人してしまったんです。東京の予備校に行くようにと親に言われて上京したものの、実際には全然行かず、最初に何をしたかというと、国立劇場で文楽を観たんです。関西では、土曜日になると吉本新喜劇や松竹新喜劇、漫才などをテレビで欠かさず放映していましたから、やっぱりそういうものが好きだったというのはあると思います。あとは、歌舞伎座の3階席で歌舞伎を観たり。1年半くらい、ふらふらしていました。このことは親にはずっと内緒だったのですが、一昨年、母が102歳で亡くなったので、もう言ってもいいかな、と(笑)」
初めて観た文楽は1975年の『嬢景清八島日記(むすめかげきよやしまにっき)』日向島の段。娘糸滝を遣っていたのが、のちの師匠、三世吉田簑助だった。
「師匠が遣う糸滝が、自分にとっては強烈な印象で。一人だけピンスポットが当たっているように見えるくらいでした。その次、また観に行った時には『桂川連理柵』では長吉を遣っていたのですが、それもやっぱり、『なんか違うな』と。その2回目の時、ロビーで『文楽研修生募集』のポスターを見たんです。芸事なんて特殊な家に生まれた人がやるもので、自分とは違う世界だと考えていたのが、素人でもできるんだと思い、言葉は悪いですが冷やかし半分で応募しました」
面接では試験官として簑助のほか、先代(二世)桐竹勘十郎、(先代)吉田玉男、七世竹本住太夫など錚々たる顔ぶれが並ぶ中、「この世界は経済的に大変だよ。どう思う?」と聞かれ、「金は天下の回りものですから、どうにかなるんじゃないですか」と答えたところ、ドーッとウケた。その後、応募した全員が合格し、研修生生活がスタート。同期には三味線弾きの野澤錦糸がいる。数ヶ月経った頃、養成課の職員から、「あなたのあの一言で皆さん、一度は入学をバツにしたのよ。でもその割に頑張っているね、と講師の師匠方がおっしゃってるわよ」と言われたとか。「自分の経験上も、後輩を見ても、文楽が大好きで『やるぞ』という思いがガチガチに強い人より、漠然と来た子の方が案外続いているように思います。私が今、講師として心がけているのは、技術だけでなく、文楽の楽しさを伝えること。こんな失敗談があったよといったエピソードや、舞台のアクシデントの対処法などを話すようにしています」。ぜひ、若者には気負わず応募してほしいものだ。
≫楽しくて仕方がなかった文楽の世界
楽しくて仕方がなかった文楽の世界
晴れて研修生となった簑二郎さん。研修生活は本当に楽しかった、と振り返る。
「それまでは松戸のアパートで悶々とした日々を送っていましたが、養成所には自分のロッカーがあり、自分の座る場所がある。居場所ができたわけです。養成所では同期の歌舞伎の研修生が同じ更衣室を使っていたので、隣のクラスの同級生みたいな雰囲気で、ロッカールームでワイワイ話したり、皆で温泉に行ったり。卒業してからも、よく一緒に飲みに行きました」
研修生になって嬉しかったことは、まだある。
「簑助師匠が研修生の講師をなさるようになったのは、私の3期生からなんです。子どもの頃から文楽の世界に入られた師匠からすると、学校みたいな形での養成授業には色々とお考えがあったというふうに聞いています。それでも、1期生、2期生の頑張りや、先代玉男師匠、先代勘十郎師匠といった方々のお口添えもあって、講師を引き受けてくださり、手取り足取りご指導していただきました」
1976年5月に研修生となり、その年の10月に行われる適性試験を受けて本格的に足の勉強が始まるのだが、なんと簑二郎さんはその年の夏休み前、早くも文楽の地方巡業に連れて行ってもらったのだという。
「その時、文楽で海外公演が入っていたんですよ。そのため地方巡業の人手が足りないからと、私も、足の持ち方もわからないうちに巡業に連れて行ってもらって。『絵本太功記』で母・さつきを遣う先代勘十郎師匠の足を遣わせていただいたのですが、女方の足の“ふき”の持ち方すらわからなくて、急に師匠がたて膝をされて対応できずにいたら『習ってへんのか』と教えていただきました。『生写朝顔話(しょううつしあさがおばなし)』では(吉田)作十郎師匠が遣われた戎屋(えびすや)徳右衛門の足も遣わせていただいて。人形がお辞儀をする時、足遣いはそれを下から受けないといけないのですが、上からどんどん押してきて重たいから足を下に下げたら「受けろ、受けろ」と言われて。楽屋で玉男師匠が作十郎師匠に、『いやいや、まだ教えてないねん!』。そういったことの全てが楽しくて、これは自分にもやり甲斐がある仕事かなと思いました」
2年間の研修が終わると、いよいよ入門。どの師匠に弟子入りするかは、養成所から研修生に意向の打診がある。「思いは簑助師匠なんだけれども言って良いのか悪いのか……」と悩みつつ、「取る気がないと言われたら文楽を辞めるつもりで」思い切って名前を出したところ、「引き受けてくださった」と連絡を受け、弟子入りが決まった。そして付けてもらった芸名が、「簑二郎」。
「芸名は師匠がお決めになることですが、事前に色々と考えはしました。まず、『簑の字はつくだろう』と。で、やっぱり私としては、師匠の前名が紋二郎ですから、簑二郎という名前がいいなというのはお腹の中で思っていたんです。でも、そんなことは口が裂けても言えない。それに、兄弟子に今の勘十郎、当時の簑太郎がいて、後に辞められた先輩がその次にいて、私は三番目の弟子でしたし。で、ここから熱く語りますが(笑)、大阪の朝日座で、勘十郎から師匠が呼んでいると聞き、師匠の部屋に行って机の上を見ると、半紙が二つ折りになっていて中が透けて見えるんですよ! で、真ん中に簑二郎の名前が見えていて、その前後に他の名前が幾つか書いてあって、師匠が『この中から選んで来なさい』と。『選ぶも何も!』と思いつつ、『有難うございます』と持ち帰りました。……悩みましたね、どういう風に思っているか試されているのだろうか?なんて考えて。ただの妄想かもしれないんですけど」
翌日、『平家女護島』の鬼界が島の段の千鳥を遣う師匠が下手に控えている時、「“簑二郎”をいただきたいんです」と言うと、「わかった」。「先輩方からは、お前、3番目の弟子なのになんで簑二郎やねん」と言われましたけれども、有り難かったですね」と笑顔を見せる。こうして、簑二郎の名で朝日座にて初舞台。1978年4月のことだ。
≫“簑助イズム”を浴び続けて
“簑助イズム”を浴び続けて
簑助の弟子となって、今年で46年。改めて、簑二郎さんにとって、どんな師匠なのだろうか?
「師匠は言葉であれこれおっしゃる方ではなく、しっかり見て覚えろ、という方。入門の時に言われたのは、『責任を持って足遣いにはしてやる。その後は自分次第』。身体的な条件も、感性も、人それぞれ。ある程度のところまでは教えられるけれど、人形を遣うということは、自分自身の問題になってきます。足遣いの次に勤める左遣いの勉強も自分でしないといけないし、経験を積みたかったら待っていないで自分の方から求めていかないといけないですから」
褒められたことなど一度もない。だが、「ひょっとしたらあれは褒めてくださったのかな」という思い出があるという。
「『女殺油地獄』で師匠が遣う与兵衛の足を入門4年目で遣わせていただいたんです。舞台が終わって、楽屋に入ったら、出たばかりの新聞の劇評を、僕私の目の前にポンッと出されたので『劇評ですか』と広げると、豊島屋油店の簑助の与兵衛の動きがすごく良い、みたいなことが書かれていて。勿論、足がどうのこうのなんて書いてあるわけじゃないんですが、あれはもしかしたら……という気がするんです」
簑助は2021年4月、国立文楽劇場での『国性爺合戦』楼門の段を最後に引退。コロナ禍により千穐楽が1日前倒しになったその最後の舞台は筆者も観たが、終演後の引退セレモニーでは、師匠の介添えをしながらわなわなと泣く簑二郎さんの姿も忘れ難い。
「セレモニーで傍につくようにとは言われていて、その心づもりはしていたのですが、急遽、1日前のその日が千穐楽と決まって、全てがバタバタ。セレモニーのことだけでなく、師匠の東京のお客様に知らせたり、そうしたら『東京から行くからチケットを取ってくれ』と言われたり……。セレモニーでは、師匠を舞台までお連れし、緞帳が上がったら何歩か後ろに下がろうと思っていたのですが、師匠が立たれた時にふらっとされたんで急遽後ろについて、あの絵になってしまいました」
大好きな師匠から受け継いだものを、簑二郎さんは“簑助イズム”と称する。
「自ら、女方遣いだ、立役遣いだというような考え方はしないというのが師匠のお考え。世間の人が『お前は女方がいいね』と言ってくださることはあっても、自分自身は、立役も女方も両方遣えての人形遣いだという意識だけは持っておかないといけない、と。これが“簑助イズム”ではないかなと思います。私も有難いことに両方遣わせていただくし、兄弟弟子一同、やはり両方、という意識は持っているでしょう。それから、我々の仕事はお客さんに喜んでもらうことであって、払っていただいたチケット代に対して舞台からお返しするわけですから、自分がそれに値するために何ができるかが大事だと、師匠からは教わりました」
その簑助は去る11月7日、帰らぬ人となった。技芸員および文楽ファンの喪失感は計り知れないが、簑助イズムを弟子たちの舞台姿に観るのが楽しみだ。昨年、簑二郎さんが宙乗りを披露して話題を呼んだ文楽劇場の『西遊記』も勿論、例外ではない。
「それも結局、お客様に喜んでもらうため。古典でも新作でも、工夫はどんどんできるわけです。先輩たちのやった舞台を否定するのではなく、それを踏まえつつ、自分の工夫をそこに乗っけていく。より面白く見えるように、宙乗りのようなものもさせていただくし、古典でも毎回どこかしら変えています。それを、『一人で目立ちしたいために、先輩たちと違うことをやっている』なんて思われたらそれまでですが、『ああいう表現の仕方もあるのだ』と感じてくれたら、と。今は毎公演、記録動画が残るので、自分が考えた振りなどを何年後かに後輩がやってくれていることもあります。冗談で後輩に『ちゃんと家元にご挨拶は必要じゃないの』と言って『何ですか?』『あれ、僕が考えたんだよ』『そうなんですか!』なんてやりとりをしたこともありますけどね(笑)。でも、我々の舞台というのは、三人遣いになったことも含め、名前も残っていない色々な先輩が試行錯誤したものが今日に受け継がれてきている。それを令和の時代に自分がまた遣わせていただいて、それが後輩たちに伝わっていく楽しさがあります」
≫12月には『金壺親父恋達引』の主役、金仲屋金左衛門を遣う
来たる12月には、作家・井上ひさしが書いた『金壺親父恋達引』の主役、金仲屋金左衛門を遣う。モリエールの戯曲『守銭奴』を原作に、井上が放送番組用に義太夫節で1972年に書き下ろした作品だ。今年は井上の生誕90年にあたる。まずはラジオで放送され、その後、文楽技芸員によってスタジオ収録されテレビ放映。その後、人形劇団プークでも上演を重ねているが、生の文楽としては2016年に国立文楽劇場で初めて上演された。当時、金左衛門を勘十郎が遣い、簑二郎さんはお梶婆を勤めている。
「さっき、『工夫』と偉そうに言いましたが、前回、勘十郎兄が目一杯工夫しているんですよ(笑)。兄弟子に『今度やらせていただきます』と挨拶したら、『またいろんなことしたらいいやん』と言われたけれど、何ができるか……。これから考えていきたいですね」
三枚目が好きだという簑二郎さん。金左衛門は典型的な三枚目ではないが少しコミカルな要素もあり、その一方で、胴欲さという意味では9月の文楽鑑賞教室に遣った『夏祭浪花鑑』の義平次に通じるところもある。
「吝嗇家の親父が、お金が大好きで、そのために子どもたちとすったもんだがあって、最終的には結局、しようと思っていた結婚はできなかったけど、やっぱりお金は大好きということで幕が閉まる。ある意味、孤独で可哀想だけれど、本人はそれに気づいていないわけだからいいのかもしれない。その辺にお客様がどういうニュアンスを感じていただけるか、でしょうか」
前述の義平次、11月文楽公演『靭猿』猿曳、そして今回と、70歳にして初役が続く。「有難いですね。初役は、まっさらの状態から自分なりの役作りをしていく楽しみがあります」としつつ、文楽の今後を見据えてこう語った。
「勿論、良い役を遣いたい、今までやっていない役をやりたいという意識はありますけども、やっぱり、去らなければいけない時はやがて来るわけですから、それを踏まえてやっていくことも、自分に与えられた仕事のような気がします。後輩たちもみんなキャリアを積んで頑張っているので、自分達が脇に回って、若い人たちの舞台を盛り上げていく時期も来つつあるのかなと。今年9月の『夏祭浪花鑑』にしても、義平次が脇ということではないですが、弟弟子の簑紫郎が団七を遣って私が義平次を遣って、その舞台がちょっとでも良くなればと考えながらやっていました。これからの10年、自分の実年齢と文楽の未来を考えた時、こういうことも自分の仕事かなと思っています」
≫「技芸員への3つの質問」
「技芸員への3つの質問」
【その1】入門したての頃の忘れられないエピソード
お酒が好きなので明け方まで飲んでいて、気がついたら師匠が楽屋入りされる時刻に目が覚め、慌てて楽屋に入ったら、たまたまその日は師匠が浅草に用事でいらしていたので遅れたのが発覚せず、兄弟子の勘十郎に「日頃の行いが良かったおかげやな」と言われたことはあります。勘十郎兄とは若い頃からしょっちゅう一緒に飲んで、それこそ左の遣い方などをその時に教えていただきました。よく二人で言っていたのは「今頃、仲間も色々なところで飲んでるやろうけど、舞台の話をしてるのは我々だけやろうな」。勘十郎兄は子ども向けの新作などを多く作っていますが、飲んでいる時に出たアイデアが形になったこともありますね。
【その2】初代国立劇場の思い出と、二代目の劇場に期待・妄想すること
研修は東京で始まったので、2階に上がれば養成課の職員がいたり、講義を受けていた部屋があったりと、思い出深いですね。国立劇場は、浄瑠璃の寸法に合った劇場で、大好きでした。
僕私は、同じ国立なのだから、二代目国立劇場と文楽劇場の間口は一緒にしてほしいんです。床の浄瑠璃の寸法は同じだけれど、人形だと、例えば『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の寺入りの千代と小太郎が舞台に出てくる時、東京に比べて大阪の方が広い分、少し早く出ないといけない。甲子園にあったラッキーゾーンのように、文楽劇場もちょっと狭めて使うことができないかな、なんて思うんですけどね。
【その3】オフの過ごし方
オフは孫と遊んでいます。あと、韓国ドラマが好きで。ドロドロさ加減だとか、実は……みたいな展開が、完全に文楽の世界ですよね。それから、散歩。コロナ禍で公演が中止になって、初めは昼間からお酒を飲んでいたのですが、このままではダメだ、散歩を仕事にしよう、と思い、朝2〜3時間、夕方2〜3時間、歩いていました。住吉大社が家の近所なのですが、太鼓橋があって池があって、下に鯉がたくさんいるんです。毎日見ていたら見分けがつくようになり、名前をつけて。最初に名前をつけたのがコイちゃんと言って、『夏祭浪花鑑』の団七じゃないけど眉間に赤い斑点があったのですが、ある時、いなくなっちゃったんですよ。でも、今でも10匹はわかります。頭が赤い“レッドヘッド三兄弟”というのもいて、『菅原伝授手習鑑』にちなんで、一番大きいのを梅王、次を松王、ちょっと小さいのを桜丸、なんて呼んでいます。
取材・文=高橋彩子(演劇・舞踊ライター)