#4 『斜陽』の秘密――高橋源一郎さんが読む、太宰治『斜陽』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
作家・高橋源一郎さんによる太宰治『斜陽』読み解き #4
隠され続けたのは、私たちの「声」なんだ──。
「一億玉砕」から「民主主義」へ――。言葉は変われどその本質は変わらなかった戦後の日本。そんな中、それを言われると世間が困るような「声」を持つ人たちがいました。酒におぼれる小説家・上原、既婚者・上原を愛するかず子、麻薬とアルコール中毒で苦しむ弟・直治。1947年に発表され爆発的ブームを巻き起こした『斜陽』に描かれる、生きるのが下手な彼らの「声」に、太宰治が込めた思いとは何だったのでしょうか。
『NHK「100分de名著」ブックス 太宰治 斜陽』では、『斜陽』の登場人物が追い求めた「自分の言葉で」「真に人間らしく」生きるとはどういうことなのか、そして太宰が「どうしても書きたかったこと」に、高橋源一郎さんが迫ります。
今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第4回/全5回)
『斜陽』の秘密──マザー、マザー、マザー
というわけで、『斜陽』を、まずざっと読んでみることにしよう。というか、読む前に、『斜陽』という小説がどんなものなのか、おさらいしてみよう。まず、あらすじ、だ。
戦争が終わった昭和二十年。没落貴族となったうえ、当主であった父を失ったかず子とその母は、生活が苦しくなったため、東京の家を売って伊豆の小さな山荘で暮らすことになる。その一方、南方の戦地から行方不明だった弟の直治が戻ってくる。直治は重いアヘン中毒になっていた。直治は、家の金を持ち出し、そのまま東京に住む、既婚者で無頼派の作家・上原のもとへ行き、彼を師と崇めながら荒廃した生活をおくるのである。 やがて、母は結核にたおれる。ひとりになったかず子は、ある決心をする。なにもかも一からやり直すのだ。思えば、貴族の末裔だったかず子は、なにもできない女だった。周囲に勧められるままに結婚し、死産し、家に戻された。そして、気がつけば三十を前にして、いままで働いたことさえないのである。財産もない。家族もない。生きてゆく能力すらない。そのとき、かず子の脳裏に、一度しか会ったことのない上原の姿が思い浮かんだんだ。まるで、それが義務であるかのように、世間の常識とは反対の行動をとりつづける上原に、かず子は心惹かれていた。そして、かず子は、「あなたの子どもを産みたい」という手紙を送るのである。けれど、返事は来なかった。そして、ついに、母が亡くなる日がやって来る。かず子は決心する。行こう、あの人のもとへ。
かず子は、東京の上原のもとに向かう。運命のように結ばれたふたりだったが、その翌朝、直治は自殺していたのである。
かず子と上原は共に暮らすことにはならなかった。上原は去り、新しい生命を宿したまま、かず子はほんとうにひとりになる。けれども、かず子には希望があった。シングルマザーとして生きてゆくこと。ひとりで、子どもを産み、育ててゆくこと。そのことの中に、未来がある、とかず子は信じた。そして、決別の手紙を上原に書くのである。
こうやって書いてみると、どう考えても、かず子と上原の、許されない愛が中心の小説であるような気がしてくる(もちろん、それも、間ちがってはいないのだけど)。しかし、いま読んでみると、どうもそれだけではないように感じる。というか、この『斜陽』という小説は、実は、ものすごく複雑なんじゃないか。そう思えるんだ。
一九四七年に出版、たちまちベストセラーになり、「斜陽族」という流行語さえ生んだのだから、わかりにくいはずはない。そして、たいていのベストセラーは何年かたつと忘れ去られる。それは、その時代にあまりに密着していて、時代が変わると、理解しにくいからだ。けれども、そんなベストセラーの中には、時代という厳しい審判を経てもなお、生き続け、ほとんど永遠の生命を得たようにさえ見える、ごく少数の作品がある。そんな作品に共通していることがある。それは、どれも、「いつも新しい」ことだ。決して古くなることがない、ということだ。
たとえば、サリンジャーの不滅の名作『ライ麦畑でつかまえて』の主人公、ホールデン・コールフィールドは、傷つきやすい少年だが、ただ単に傷つきやすい少年なのではなく、いま読むと、「おたく」とか「中二病」とされる、現代的なナイーヴさを持つ少年たちの先駆であるように見える。それは、サリンジャーが、現代を予言したのではなく、彼が書いたホールデン少年の中に、もうすでに「すべて」が書きこまれていて、当時には気づかれなかったことが、いまクローズアップされて見えてきている、ということなんだ。
時代に先んじて、これからやって来るものを、書いてしまうこと。ほんとうに優れた作品には、そんな「予知機能」のようなものがあるような気がする。それでは、『斜陽』の「予言」とは、何だったんだろうか。
『斜陽』は、こんな風に始まっている。
朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、
「あ」
と幽かすかな叫び声をお挙げになった。
「髪の毛?」
スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。
「いいえ」
お母さまは、何事も無かったように、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送り、そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇のあいだに滑り込ませた。ヒラリ、という形容は、お母さまの場合、決して誇張では無い。婦人雑誌などに出ているお食事のいただき方などとは、てんでまるで、違っていらっしゃる。弟の直治がいつか、お酒を飲みながら、姉の私に向ってこう言った事がある。
「爵位があるから、貴族だというわけにはいかないんだぜ。爵位が無くても、天爵というものを持っている立派な貴族のひともあるし、おれたちのように爵位だけは持っていても、貴族どころか、賤民にちかいのもいる。(中略)おれたちの一族でも、ほんものの貴族は、まあ、ママくらいのものだろう。あれは、ほんものだよ。かなわねえところがある」
そう、つまり、『斜陽』は、主人公「かず子」の母親を描くところから始まっている。さらに、「母親」が、いかにふつうの「お行儀」とは異なったことをしているか、そして、それにもかかわらず、どうして、上品に見えてしまうのか、という情景が続き、やがて、文学史に残る、次の名シーンに繫がってゆく。
いつか、西片町のおうちの奥庭で、秋のはじめの月のいい夜であったが、私はお母さまと二人でお池の端のあずまやで、お月見をして、狐の嫁入りと鼠の嫁入りとは、お嫁のお支度がどうちがうか、など笑いながら話合っているうちに、お母さまは、つとお立ちになって、あずまやの傍の萩のしげみの奥へおはいりになり、それから、萩の白い花のあいだから、もっとあざやかに白いお顔をお出しになって、少し笑って、
「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん」
とおっしゃった。
「お花を折っていらっしゃる」
と申し上げたら、小さい声を挙げてお笑いになり、
「おしっこよ」
とおっしゃった。
ちっともしゃがんでいらっしゃらないのには驚いたが、けれども、私などにはとても真似られない、しんから可愛らしい感じがあった。
けさのスウプの事から、ずいぶん脱線しちゃったけれど、こないだ或ある本で読んで、ルイ王朝の頃の貴婦人たちは、宮殿のお庭や、それから廊下の隅などで、平気でおしっこをしていたという事を知り、その無心さが、本当に可愛らしく、私のお母さまなども、そのようなほんものの貴婦人の最後のひとりなのではなかろうかと考えた。
かず子の母親は、「ほんものの貴婦人の最後のひとり」なのだった。
ところで、『斜陽』の主な登場人物は、かず子、かず子の母親、弟の直治、小説家の上原、以上の四人、ということになる。女性がふたり、男性がふたり。太宰は、女性のふたりには優しく、というか、高い評価を与え、男性のふたりには冷たく、というより、低い評価を与えている。もっと、ぶっちゃけていうと、女性ふたりの考えや行動は愛情を持って描き、男性ふたりの考えや行動は、けちょんけちょんにけなし、徹底してその愚かしさを強調している。『斜陽』という小説は、女性というものの素晴らしさを、男性の愚かしさと比較することによって成り立っているのである。その理由については、またあとで書くことにして、まずは、女性ふたり組の件だ。
かず子は、母親に心酔している。最高のひとだと考えている。憧れている。そして、同時に、自分は絶対、母親のようにはなれない、とも考えている。
大好きだけれども、自分には無理。そんな母と娘の関係。そう、この『斜陽』を読んでいくと、半分近くが、母親とかず子、母と娘について書かれているのである。実は、ぼくも、今回、読み返すまで、なんとなく母親についてたくさん書いているなあ、というぐらいの感想しかなかったのだが、じっくり読んで、驚いたんだ。
萩尾望都の『イグアナの娘』で有名になった「母娘問題」。『イグアナの娘』は、母親から「イグアナに見える」と嫌われる娘の物語だったが、実は、母と娘の相剋・葛藤を描いた作品は急増している。水村美苗の『母の遺産──新聞小説』、赤坂真理の『東京プリズン』、山本文緒の『落花流水』、少し前では中沢けいの『海を感じる時』、あるいは、佐野洋子のエッセイ『シズコさん』。どれもこれも、母と娘の間で繰り広げられる、決して単純ではない感情と思いのやりとりを描いて、男性であるぼくは、粛然とさせられたのだ。
近代文学は、生まれてからずっと、男性中心の世界を描いてきた。そして、そこで描かれる主人公の男性にとって、女性は、成長過程に必須の恋愛の対象であるにすぎない。森鷗外の『舞姫』では、主人公の青年官僚に捨てられてヒロインの女の子は死んでしまう(らしい)が、それが典型だ。ごく一部の小説をのぞくと、女性の登場人物たちがほんとうはどんな人間なのかは書かれてはいないのである(たぶん、書いている作家本人にもわからなかったんだろう)。その代わり、彼ら、近代文学の登場人物たち(多くの場合は青年)の敵役として、彼らの父親が舞台に現れた。家父長制度が支配していたこの国で、いちばんエラいのは父親で、その父親に反抗して、男の子たちは成長してゆく。それが、この国の小説のスタンダードだった。
ところが、である。
著者
高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)
広島県生まれ。作家。1981年「さようなら、ギャングたち」で第4回群像新人長篇小説賞を受賞しデビュー。1988年『優雅で感傷的な日本野球』で第1回三島由紀夫賞、2002年『日本文学盛衰史』で第13回伊藤整文学賞、2012年『さよならクリストファー・ロビン』で第48回谷崎潤一郎賞を受賞。他の著書に『一億三千万人のための『論語』教室』『「ことば」に殺される前に』(河出新書)、『これは、アレだな』(毎日新聞出版)、『「読む」って、どんなこと?』(NHK出版)など多数。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。
■『NHK「100分de名著」ブックス 太宰治 斜陽 名もなき「声」の物語』(高橋源一郎著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
*本書における『斜陽』の引用は、新潮文庫版(平成二十七年二月二十日百三十刷)によっています。『散華』は『太宰治全集6』(ちくま文庫)に、それ以外の太宰作品は新潮文庫版によっています。
*本書は、「NHK100分de名著」において、二〇一五年九月に放送された「太宰治『斜陽』」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「太宰治の十五年戦争」「おわりに」を収載したものです。