【殷を破滅に導いた暴君と悪女】紂王と妲己が繰り広げた「酒池肉林」の世界とは?
暴君として名高い紂王
紂王(ちゅうおう)は、中国史上最も悪名高い暴君として知られる人物である。
彼は殷王朝(紀元前16世紀頃 〜紀元前1046年)の最後の王であり、その統治は殷王朝の滅亡を招き、周王朝の成立へと繋がった。
「紂王」という呼び名は、後世の評価を反映したものであり、「紂」という字には混乱や暴君を象徴する否定的な意味が含まれている。彼の父は帝乙(ていいつ)で、殷王朝第29代の王であった。
紂王は幼少期から文武両道に優れ、非常に聡明だった。
詩文や議論に秀でていただけでなく、体力や戦闘能力にも優れていたという。
王族として高度な教育を受けて育った彼の若い頃の姿は、『史記』などの史料においては「有能な指導者」として描かれている。また、多くの戦争で勝利を収めたとされ、その強さと勇気から「殷王朝最強の君主」と評されることもあった。
紂王には非常に強いカリスマ性があり、人々を引きつける力があったとされる。
ここまでを見る限り、紂王は優れた資質を持つ非常に有能な王のように思える。
では、なぜ彼が「暴君」として語られるようになったのだろうか。
紂王の自己中心的すぎる性格
紂王が第30代王として即位した時代は、殷王朝の政治体制が一定の安定を保っており、治世の初期は順調に進んでいたとされる。
紂王は非常に高い能力を持っていたが、その反面、自信過剰であった。
他者の意見を聞き入れる姿勢に欠け、独断的だったとされる。
帝紂資辨捷疾,聞見甚敏;材力過人,手格猛獸;知足以距諫,言足以飾非;矜人臣以能,高天下以聲,以為皆出己之下
意訳 :
帝紂(ていちゅう)は弁舌が鋭く敏捷で、見聞に非常に優れていた。また、尋常ならざる身体能力を持ち、猛獣を素手で倒すことができた。彼は自らの知恵で諫言を退け、巧みな言葉で過ちを取り繕った。臣下に対しては自分の才能を誇示し、天下にその名声を響かせ、自分より優れた者はいないと考えた。引用 : 『史記』殷本紀
この自己過信が彼の治世における弱点となり、政治は次第に混乱し、殷王朝の基盤を崩壊させる原因となっていったのである。
酒池肉林
「酒池肉林」という言葉は有名だが、この言葉は紂王が酒で池を満たし、肉を吊るした林で宴を開いた逸話に由来している。
彼は大規模な人工の池を造り、この池に酒を満たした。
池は『酒池』と名付けられ、招かれた客人たちは好きなだけ酒を飲むことができた。
また、周囲には『肉林』と呼ばれる肉を吊るした木々が設置され、客人たちは自由にそれを取って食事も楽しんだ。
さらに宴会の余興として、裸の男女が酒池や肉林の間を走り回り、客人たちはこれを見て歓声を上げたという。
大聚樂戲於沙丘,以酒為池,縣肉為林,使男女裸相逐其閒,為長夜之飲。
意訳 :
紂王は沙丘という場所で大規模な宴会を開き、酒を池に満たし、肉を木に吊るして林を作った。そして、男女を裸にしてその間を戯れさせ、夜通しの宴会を楽しんだ。
引用 :『史記』巻三「殷本紀」より。
この「酒池肉林」の宴会には、単なる快楽追求以外の目的もあったと考えられている。
一説には、紂王がこの贅沢な場を用いて、自らの財力や権力を臣下や国民に誇示する意図があったとされる。
彼の行為は、贅沢の頂点を極めると同時に、支配者としての威厳を示す手段でもあったのだ。
紂王の「酒池肉林」は、後世の人々にとって「暴君の象徴」として教訓的な逸話として語り継がれている。
紂王が愛した悪女・妲己(だっき)
さらに紂王には、特別に愛した妾の妲己(だっき)がいた。
彼女は美貌で紂王を魅了し堕落させ、殷王朝滅亡の原因を作った悪女として知られる。
その性格は残虐で邪悪だったとされ、特に民衆を苦しめることに喜びを見出した。
妲己は囚人に過酷な刑罰を課し、その苦しみや悲鳴を心地良い音楽のように楽しんだという。
妲己の提案によって作られた刑罰には、「炮烙(ほうらく)」という恐ろしいものがあった。
炭火の上に油を塗った銅柱を渡し、その上を罪人に歩かせ、足を滑らさせて火中に落ちるのを楽しむのである。その苦しむ姿を見て妲己は大笑いしていたとされる。
紂王は、この美しく残忍な妲己に深く心を奪われており、政治や軍事よりも彼女を優先した。
次第に紂王は理性を失い、国家運営を顧みなくなった。
こうして国は乱れ、民は疲弊し、結果として殷王朝の滅亡へとつながったのである。
紂王がもたらした殷王朝の崩壊
紂王の統治は、暴政や贅沢三昧だけでなく、内部の腐敗と外部の圧力によって崩壊していった。
紂王が行った重税政策や厳しい刑罰は、国内の民衆を苦しめ、各地の不満を高めた。その結果、周囲の諸侯は次第に離反し、殷の支配は弱体化していった。
加えて、紂王は軍事的な失策も重ねた。
紀元前11世紀頃に起こった「牧野の戦い(ぼくやのたたかい)」では、周の武王率いる連合軍に対抗すべく兵を集めたものの、士気は低く、多くの兵が戦場で裏切ったと言われている。これは紂王の暴君としての行いが、兵士や民の忠誠を失わせた結果であった。
牧野の戦いで大敗を喫した紂王は、殷の都・朝歌(ちょうか)に逃げ帰ると、追い詰められた末に鹿台で自ら命を絶ったと伝えられる。
この時、彼は自らが身に纏っていた豪華な玉衣に火を放ち、その壮絶な最期は、彼の栄華と贅沢な生涯を象徴するものだった。
こうして、約600年の歴史を誇った殷王朝は終焉を迎え、新たに周王朝の時代へと幕が開けたのである。
紂王は、本当に暴君だったのか?
紂王(帝辛)の評価は、後世の歴史書や物語の影響を大きく受けている。
その悪評は、殷を滅ぼした周王朝が、自身の正当性を確立するために強調した可能性もあるという。
実際、『論語』において孔子の弟子・子貢は「殷の紂王の悪行は、世間で言われているほどではなかっただろう」と述べており、彼の悪名に対して疑問を呈している。
「酒池肉林」や「炮烙」のような伝説的な逸話も、後世に脚色されたものが多いとされる。
例えば「酒池肉林」は、実際には神を降ろすための儀式であった可能性も指摘されている。
また「炮烙」は、単なる焼肉用の設備だったという説もあり、『韓非子』や『史記』に記述される中で解釈が変容し、残酷な刑罰として伝わったとも考えられている。
さらに、紂王と同様に暴君とされる「夏の桀王」との逸話の類似性からも、後世における物語の脚色が推測される。
両者とも「美女に溺れ、贅沢を極めた末に滅亡した」という、同じ筋書きなのだ。
殷墟から発見された甲骨文の記録には、紂王や妲己に関する直接的な記述が見られず、これもまた実像に対する多くの疑問を生じさせている。
紂王の治世をどのように捉えるべきかは、単なる暴君の物語として片付けるのではなく、歴史的背景や政治的意図を踏まえた上で、慎重に検討する必要があるだろう。
紂王の物語は、後世の権力者への警鐘として語り継がれてきた。しかし、その教訓的な一面の背後には、時代を超えた複雑な歴史の影響が潜んでいることを忘れてはならない。
参考 : 『史記』『論語』他
文 / 草の実堂編集部