武田信玄の後継者・勝頼は愚かだった? 長篠の戦いから450年、改めて紹介致そう
2025年5月21日は長篠の戦い、450周年の日である!大きな節目の年として、長篠の戦いに所縁(ゆかり)のある地域では大きな催しが行われておる!我が戦国がたりでも折角ならば長篠の戦いを語ろうぞと前回は長篠城主・奥平信昌殿を紹介致した!今回はその後編。前回は織田軍側の人物を紹介致したでな、此度は武田軍の武士を紹介致そうではないか!いざ出陣!
武田勝頼、波乱の前半生
此度紹介致すのは武田軍の総大将・武田勝頼殿である。
戦国時代でも屈指の知名度を誇る甲斐の虎・武田信玄殿の四男で、跡を継いだ人物であることは知っておるものも多かろう。
そして、武田家を滅ぼした愚君としても知られておる人物じゃ。
近年はようやっと再評価が進み始めてはおるけれども、未だ暗愚な人物として描かれがちではあるからのう。改めどんな人物だったのか、そのあたりの話を致そうではないか。
勝頼殿の母・諏訪御料人は現世で何やら人気沸騰中の諏訪家に出自を持つ。
父は諏訪頼重殿と言われておる(今人気の、南北朝時代に活躍した諏訪頼重殿とは無論別人である)。
じゃが、この頼重殿は信玄殿によって攻められ自刃しておるのじゃ。
そもそも諏訪家と武田家は同盟関係にあったにもかかわらず一方的に攻撃し、信玄殿を信頼しておった頼重殿は、武田家による侵攻の報を受けても誤報を疑ったため、碌な抵抗もできなかったという話も残っておる。
信玄殿は滅ぼした元同盟相手の娘を娶(めと)るという、現代ではもちろん、戦国の世ですら顰蹙(ひんしゅく)を買う行いをしておる。
しかも諏訪御料人はかくれなき美人と称されるほどに美しかったようで、それがまた信玄殿に物申したくなるところではあるけれども、娶った一番の理由はその容姿ではなく、諏訪の民への求心力を得るためであろう。
甲斐国から信濃へ勢力を伸ばす武田家にとって、円滑な信濃国の統治は急務であって、諏訪御料人との間に生まれた子であれば諏訪の者たちも従うであろうと考えたのじゃろうな。
事実、勝頼殿は諏訪家の後継として育てられ、諏訪の者たちを束ねる存在として重要であったのじゃ。
諏訪家を束ねる一門衆としてさまざまな分野で才を発揮しておった勝頼殿であるが、転機が訪れる。
それが義信事件である。
義信事件とは信玄殿の嫡男、義信殿が信玄殿との不和から廃嫡され、後に自刃した事件である。
信玄殿が今川家との同盟を破棄して駿河への侵攻を目指したことに対し、今川義元殿の娘を正室に迎えておった義信殿が反発したのがきっかけである。
この事件によって諏訪を領する一門衆であった勝頼殿は一気に武田家の後継へと立場を変える。
勝頼殿にとっても大きなことであったが、周りの武田家家臣団からしても、これまでは競って功を立てる相手であった勝頼殿が急に新たな主君に擁立されたとあっては感じるところはあったであろう。
事実、勝頼殿は家臣団をまとめるのに苦心していくこととなる。
混沌たる隣国関係
西上作戦の最中に信玄殿が急逝し、勝頼殿は武田家当主となる。
この時の信玄殿の遺言には、
「自らの死を三年間隠匿し戦を控えること」
「勝頼は信勝(勝頼の嫡男)が育ち次第家督を譲ること」
など勝頼殿への信頼のなさが垣間見える文言がいくつもあった。
勝頼殿からすれば当主になったにも関わらず自らの政を行えない歯痒さがあったであろう。
じゃが、一番の問題は武田家を取り巻く情勢であった。
武田家が大きく勢力を伸ばせた要因に、甲相駿三国同盟がある。
甲斐の虎・武田信玄
相模の獅子・北条氏康
街道一の弓取・今川義元
三つの名家による同盟はそれぞれの背後をそれぞれが守り、
北条は東へ、武田は北へ、今川は西へと勢力を拡大することが叶ったのじゃ。
じゃが、先にも申した通り桶狭間の戦いで今川義元殿が討死すると、
信玄殿は今川家を見限って駿河侵攻を始める。
武田家は海を領しておらんかったで水運や海路を求めてのことであったが、これに憤ったのが北条家である!
武田家は東を北条、北を上杉、西を今川家に囲まれ、言わば武田包囲網が完成してしまうのじゃ。
切羽詰まった信玄殿は織田家と手を結んだ。
俗に言う甲織同盟である!
この時、勝頼殿は信長様の養女・龍勝院様を正室に迎え、二人の間には武田家最期の当主・信勝殿が生まれておる。
新進気鋭の織田家と同盟を組み安泰かと思うたのじゃが、信玄殿は今川家が滅びたことで、今度は徳川家が持つ遠江を求め動き出したのじゃ。
これが所謂、三方ヶ原の戦いや西上作戦と言われしものじゃな。
無論、これに信長様は激怒し「侍の義理を知らぬ前代未聞の行いで、二度と武田と同盟を結ぶことはない」と申されておった。
勝頼殿が跡を継いだのはこの時である。
ただ周りが敵だらけなのではなく、一度手を結んだ後に裏切っておる故に武田家に恨みを持つ者に囲まれ、しかも自らの判断で政を行うことも制限され家臣たちも一筋縄には行かぬ状況に勝頼殿は苦心したであろう。
そんな中、勝頼殿が取った行動は積極的に版図を広げ、家臣たちからの信頼を得ることであった!
攻勢にでた勝頼殿は織田領の東美濃と徳川領の遠江の城を次々に攻略し、信玄殿が攻略に失敗した高天神城(たかてんじんじょう)を手に入れるなど勢いはすさまじく、耐えきれなくなった徳川家が織田家の家臣扱いとなったのはこの頃である。
信長様も勝頼殿を「表裏を心得た恐ろしき敵」と称するほどに、勝頼殿は優れた将であったのじゃ。
然りながら、そんな中起こったのが長篠の戦いである。
皆が知る通り武田家は大敗し、武田家有利に傾いておった情勢は一気に反転することとなったのじゃ。
結果から申せば二倍近い兵力を持つ織田家相手に野戦で挑んだ勝頼殿の判断は誤りであった。
織田家の兵力を見誤ったことが一番の要因の、勝利を焦った故の失敗と言えるであろう。
じゃがこの戦は敗因の一つに、主力部隊を任せておった穴山信君殿の戦線離脱が挙げられる。
穴山家は武田家一門衆の筆頭格であり、義信事件の後に後継候補とも囁かれた人物で勝頼殿に協力的ではなかった家臣の1人であった。
信君殿は戦況を不利と見るや戦線を離脱し勝手に撤退を始め、武田家は主力を失ったことで歴史的敗退を喫することとなったとも考えられよう。
長篠の戦いにて数多の将兵を失い、大打撃を受けた武田家であるが、その後すぐに力を失ったわけではない。
上杉家や北条家との関係修復に努めつつ、東北方面に軍を進め勢力を拡大。
実は武田家が最大版図を築いたのは長篠の戦いに敗戦した後である。
じゃが、上杉家の後継争い「御館の乱」によって北条家と手切となり、上杉家も力を失い始めたことで再び局面が悪化。
対照的に信長様は畿内や播州を平定し盤石な体制を築かれた頃、既に武田家は織田家の敵ではなかったのじゃ。
東からは北条、西からは織田軍と挟撃を受けながらもなんとか耐え忍んでおった勝頼殿であったが、勝頼殿の強さを示す象徴でもあった高天神城が徳川殿に落とされるとそこからは堰を切ったように家臣団の離反や裏切りが続き、高天神落城から一年と少しで武田家は滅びることとなったのじゃ。
勝頼殿の最後は誠寂しいものであった。
甲斐や信濃から兵を引き上げ再起を図るため小山田信茂の岩殿城(群馬県)へと進むも、裏切った信茂殿に城から矢や鉄砲を打ち掛けられて山中へ撤退。
そこを織田軍に囲まれて万事休す。
最期の地として武田家にゆかり深い天目山を目指すもそれも叶わず、田野と呼ばれし地で一族とともに自害して果てたのであった。
武田軍は敗走の最中その殆どが逃亡しており、最後まで付き添ったのは姫や子供と数少ない忠臣のみ。
以前の戦国がたりにて土屋昌恒殿の話を致したわな!
此度はもう一人最後まで勝頼殿に付き従った武士を紹介し致そうではないか!
忠臣たちの中に小宮山友晴殿という者がおる。
友晴殿は武勇に秀で、先の長篠の戦いの折に敵前逃亡した一門衆を毅然として非難するなど手本のような武士であった。
じゃがそれ故に疎まれ、讒言によって蟄居処分となってしまうのじゃ。
蟄居生活を送る友晴殿であったが、武田征伐が始まると「御盾」となるべく勝頼殿の元へ向かい、大奮戦の後に見事な討死を遂げたという。
家臣や一門衆が蜘蛛の子を散らすように武田家を去る中で、蟄居中の身でありながら大勢の決した戦へ飛び込んだのじゃ。
儂、前田利家は桶狭間の戦いの折に出仕停止の身でありながら独断で出陣したことがあるで、友晴殿の心意気には感ずるところがある。
無論、桶狭間の戦いは信長様の見事な采配によって兵力差を覆し大勝利となったが、友晴殿と儂は裏と表であると言えるのではないかな。
終いに
此度の戦国がたりは如何であったか!
勝頼殿のこれまでの愚かな二代目、七光の印象が変わったならばうれしく思う!
信玄殿の幻影に悩まされ、外交関係のツケを払いながらその戦の才で徳川殿を苦しめ全盛の信長様にも怯(ひる)まず渡り合った様は見事である。
信玄殿と比べても決して劣らぬ武士であったことは間違いない。
然りながら、長篠の戦いや御館の乱、高天神城の戦いといった重要な局面に限って敗北や失策が重なったのもまた事実、どこを切り取るかで印象が大きく変わる人物であるわな。
皆には勝頼殿はどう映ったかのう?
悲運やしがらみを乗り越え戦うその姿は、現世の者には人気が高いのではないかと儂は思うておる。
知れば知るほどに心動かされる御仁だで、此度興味を持ったものはさらに調べてみるがよかろう。
無論、勝頼殿でなくても良い!
普段あまり語られぬ武士について興味が出たならばうれしく思うぞ!
これからも時折、我が戦国がたりでも人物紹介の巻を記して参るで楽しみにしておれ!
此度はずいぶん長くなったがこの辺りといたそうかのう。
また会おうさらばじゃ!!
文・写真=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)
前田利家
名古屋おもてなし武将隊
名古屋おもてなし武将隊が一雄。
名古屋の良き所と戦国文化を世界に広めるため日々活動中。
2023年の大河ドラマ『どうする家康』をきっかけに、戦国時代の小話や、戦国ゆかりの史跡を紹介している。