【地域の謎】船橋市行田にある不思議な円形地域はなぜできた?
地図を見ると、船橋市の中央部に丸い大きな円形地域があります。なぜここに、こんな形のまま残っているのかを調べてみました。
※写真はいずれも船橋市提供
明治時代、行田新田に無線塔建設を決断
ここは現在県立行田公園や団地になっているエリア。
この一帯は江戸初期、「行徳」と「田尻」の人が入植して「行田」という地名になったのだとか。
明治になり、日露戦争で情報の速さや正確さが勝敗を決することを知り、日本海軍は無線送受信設備導入を決定(後に逓信省も合同運用)。
白羽の矢が立ったのが東京近郊で平坦な行田新田でした。
半径400mの中央に高さ200mの半自立型の主塔、これを支えるために周りに18本の60mの副塔を円形に等間隔に建てて、36本のアンテナ線を傘の形のように張り巡らせ、1916年に完成。
当初、副塔を管理する道路を外縁状に設置したため、円形道路に囲まれた珍しい景観になりました。
悲劇を経て開戦の暗号発信、そして戦後
23年9月の関東大震災では、行田の無線塔にまつわるデマにより朝鮮人などが虐殺される悲劇が起こっています。
技術革新が進んだ41年には182mの自立型大鉄塔6基に変わりパワーアップ。
同年、太平洋戦争の引き金となったハワイ真珠湾攻撃の無電「ニイタカヤマノボレ1208」がここから太平洋機動部隊に転送されたことは有名です。
行田の無線塔は関東大震災でも太平洋戦争でも倒壊しませんでした。
戦時中は市内6つの国民学校の共通校歌などに、北原白秋作の「天に聳(そび)える無線塔」の歌詞が見られます。
戦後は米軍の管理下に置かれましたが、66年日本政府に返還されました。
戦後経済成長期の真っただ中、国と県と市などで話し合いが行われ、国、千葉県、船橋市が区分けを実施。
歴史的遺産である行田の無線塔の保存運動はほとんど起きず、71年にあっという間に解体され、円形区域だけはそのまま残されました。
船橋市は中学校1校と小学校2校に、残りは国と県が団地、官舎、公園などの用地に活用し今に至ります。
往時をしのばせるものは行田公園内の記念碑だけですが、ある調査によると植え込みの土の下に、無線塔のコンクリートの基礎土台が残されているそうです。
関東大震災後100年の一昨年9月、船橋市などで悲劇の犠牲者に対する慰霊式が行われ、その1年後の慰霊式には千葉県知事、船橋市長ら5市長連名での弔電が送られました。
姿こそ失われた無線塔ですが、円形地域とともに、歴史の記憶の中で存在し続けています。
(取材・執筆/マット)
参考資料/滝口昭二著『行田無線史総集編』(2018年発行)、綿貫啓一著『行田の無線塔』(1994年発行)いずれも船橋西図書館所蔵