東海林のり子の浦和ときめきメモリー。商店街で歌った少女時代、カレを待ち伏せした女子高生時代
代々、岩槻藩の藩士だった「青羽家」。その4人姉妹の末っ子、のり子。商店街の人気者だった少女時代から、憧れの人と歩いた別所沼の土手や、野球部のカレを待った北浦和駅。「映画音楽みたいな穏やかな浦和」から、現場の東海林さん、今年(2024年)で90歳のご登場です。
東海林のり子 Shoji Noriko
昭和9年(1934)、埼玉県旧浦和市生まれ。立教大学卒業後、ニッポン放送入社。フジテレビ『3時のあなた』の出演を機に事件レポーターとして活躍。YouTube『バディファミリーチャンネル』やX(旧Twitter)も大人気。
初詣は列を組んで調神社。歌う商店街のアイドル
浦和の思い出、あたしの誕生から行く? アハハハ〜。
もともとひいおじいさんが岩槻の藩士で、明治の廃藩置県で国からお金をもらって浦和で質屋さんを始めたの。当時、駅の西口から中山道への目抜き通りがあって、その角の大きな家で、あたしは4人姉妹の末っ子。「かわいいかわいい」って言われて育ったのよ。
お正月の初詣は調(つきのみや)神社。住み込みのねえや(お手伝いさん)や書生さんみんなと列を組んでお参りして、ダルマさんを買ったり、焼きそばを食べたり。雛祭りは、大きな七段飾りを2つ飾るから母と姉たちは大忙し。あたしは、ねえやにおぶわれて出かけるんだけど、いつも書生さんがついて来る。恋仲だったのね。ロマンチックな時代でしょ。今もそうだけど、あたしは、好奇心旺盛でひょうきんな女の子だった。中山道でお祭りがあると、手品の出し物の最前列にしゃがみこむ。おじさんに「もう帰れ!」なんて怒られるまで、ずうっと見てるわけ。
商店街も大好きで、金魚柄の着物を着て日傘をさして出かけるの。桶屋さんも金物屋さんも、みんなうちの店子さんだから、お店をのぞきながら歌を歌うのよ。「うまいねえ」って褒められて、歌手になるんだと思ってたもんね。
幼稚園はキリスト教で、意味も分からず「アーメン」なんてやって、帰りは近所の玉蔵院のブランコで遊んだり、家ではみかん箱の上で歌ったり。戦争は始まってたけど、のどかだった。
母は国防婦人会のタスキをかけて、たくさんおにぎりを作って、出征する若者たちを中山道から見送るの。あたしは、お兄さんたち、どこに行くんだろうと不思議だった。そのうち戦争が激しくなり、北浦和に引っ越したの。
ある時、近くの旧制浦和高校の校庭に落下傘が降りてきて、みんなで見に行ったら、B-29戦闘機から飛び降りるアメリカの兵隊さんよ! 初めて見る外国人の姿に本当にビックリした。
やがて戦争が終わり、進駐軍の兵隊さんからチューインガムをもらって、「おいしいねえ」なんて食べて。すごい時代の変わり目を過ごしたと思う。
思春期。別所沼で「ひまわり」をくれた人
小中学校は、附属(埼玉師範学校・現埼玉大学)だったんだけど、中学は男の子と女の子の仲がすごく悪かったの。背の高い女の子と男の子が渡り廊下で殴り合いになるのよ!?
ある日、暴れん坊の男の子が「青羽、サクラソウ見に行くか」って。あたし、サクラソウを見ながら、殴られちゃやだ! と思ったんだけど、みんなでバスに乗って、“たじまっぱら”ってとこでお花を見ながらおしゃべりしたのよ。男の子も変わるのよね。その頃のあたしは男の子には興味なかったんだけど。
中学校の隣に、女子師範学校のグラウンドがあったの。きれいなお姉さんがバレーボールをやってるのを、毎日柵の向こうからのぞいてたら、友達づてにお姉さんから手紙をもらったの。「べにばらちゃんへ。別所沼の土手で会いましょう」だって! 土手で会ったら、当時大人気だった少女雑誌、中原淳一の『ひまわり』をくれたのよ。うれしかった。
それが、あたしの思春期。
浦和一女時代は、駅前のパーラーの「山口屋」に入るだけでドキドキするまじめな女子高生だったんだけど、学校では、教壇で落語なんかやってみんなを盛り上げるのが大好きだった。でも男子校(浦和高校)で学園祭があると、教室からみんないなくなっちゃうのよ。あたしは、うぶだったから意味が分からなかった。
北浦和駅で待ち伏せ。大宮公園でハートブレイク
ある時、友達のお兄さんが浦和高校の野球部で、一緒に練習を見に行ったら、センターにカワイくんていう人がいたの。かっこいいなあと思って、カワイくんが帰り道に北浦和駅に来るのを、写真館の横で待つようになったの。だんだん会えるようになって、なんとお手紙交換が始まったのよ。
いつも真っ白な封筒に「青羽のり子様」って。その字がすごく上手でね。
そのうちデートというほどでもないんだけど、二人で会うようになった。
カワイくんは大宮に住んでいたから、会う約束がない日は、行けば会えるかも!? と思って浦和から自転車をこいで、行ってみたことがある。会えるわけないって思うでしょ?
ところが、いたのよ。大宮公園の池で女の子とボートに乗ってるカワイくんが! 悔しくてねえ。こんなに涙が出るかと思うほど泣きながら帰った。大宮の子と浦和の子ってタイプが違うの。大宮は繁華街もあるし、女の子もおませさん。でも彼には何も言わなかった。プライドがあるもの(笑)。
あの頃、学校の教室の窓から見える桜の葉っぱが光って見えたのよ。なんでこんなに葉っぱの緑がきれいなのかなって。心に愛情みたいなのが生まれていたからだと思う。キスしたこともないのにね。今も思い出すイメージがある。どこか分からないんだけど、あたしがブランコに乗っていて、カワイくんが横に立ってる記憶。
時は流れて、あたしがニッポン放送に入った後、長嶋茂雄さんが表彰されるパーティーで、偶然、カワイくんと再会したのよ。「あら、カワイくん!」と声をかけて、お茶を飲んだのが最後。私がお嫁に行く時、母が、引き出しからカワイくんからのラブレターをいっぱい出してきて「これどうする?」「捨てといて〜」って。アハハ。でももし生きてたら、ちょっと会ってみたい。
事件現場取材は3000件。良い街を作るのは「人」
結婚して出産し、リポーターになったのは40代。性格が暗かったら事件取材はできない。あたしは、根っからポジティブなのと、目の前で殺人事件があっても受け止めようという精神があった。女刑事になれたかな、なんて(笑)。
だんだん分かってくるのよね。「何丁目で事件がありました。団地です」って言われて行くと、「あの部屋だ」って。ベランダに枯れないはずのアロエが幹だけになってるとか、ほこりをかぶった洗濯物がぶらさがってるとか。
勘が働くようになると、現場が面白くなって、20年間で3000件。
今も講演会で各地に行くと、壇上に立った瞬間、その街が平和かどうか分かる。人ってそういうエネルギー出す。皆に、「この街は事件がないでしょ」って聞くと、「まったくない」って言う。
住人の方が、すっごい幸せな顔なのよ。それは浦和も、今住んでいる日吉もそう。区画整理も大事。でもね、街はやっぱり人が作るんだと思う。
日吉が60年代のロックだとすると、浦和は映画音楽の世界。昔から本屋さんや古本屋さんが多くて平和で穏やか。あたしには、マントヴァーニ・オーケストラの音楽が聴こえてくるの。
毎日がキュンキュン。バックハグで「健康です」
1年半前に『徹子の部屋』で「BL(ボーイズラブ)小説を読んでる」と言ったらバズったのよ! 凪良ゆうさんの『流浪の月』を読んで感動して、彼女のBL小説も読むようになったの。作家の深い優しさが流れ出ていて本当に素晴らしいのよ。パパ(ご主人)の仏壇横に、かわいい男の子が表紙の本がたくさん積んである。
最近は「クィア」(さまざまな性志向、性自認を包括する言葉)の人たちのドラマを観たり、バンドのライブに行ったり。イケメンを見つけたらバックハグしてもらって写真撮ったり。毎日キュンキュンしてるわねえ。
健康診断、全然行かないけど、アップルウォッチが今日も「健康です」って。あたし、死なない気がする。
【東海林さん思い出の浦和は、今……】
さくら草通り
県花はサクラソウ。浦和駅西口の通りの名にも。
東海林さんの思い出「たじまっぱら」こと田島ヶ原サクラソウ自生地は桜区田島に。
別所沼公園
メタセコイアの木立が美しい公園。「当時は沼と土手だけだった」そう。沼の周辺は、多くの浦和画家が暮らした場所としても知られる。
「山口屋」のあった場所
「うぶな女子高生だったからドキドキしながら入った」浦和駅西口の老舗の洋菓子レストラン「山口屋」。今はパチンコ店に。
浦和第一女子高等学校
名門「浦和一女」。バレー部やボート部、長唄など多様な部活動に参加した思い出も。東海林さんのお母さまも「一女」出身。
調神社
「つきのみやさま」と親しまれる中山道沿いの神社。「今も青羽家の法事には調神社の宮司さんが来てくださるのよ」。
取材・文=さくらいよしえ 撮影=鈴木愛子
『散歩の達人』2024年5月号より