【追悼:ガース・ハドソン】ザ・バンドの音楽を決定づけたオルガン奏者にして最後のメンバー
リ・リ・リリッスン・エイティーズ〜80年代を聴き返す〜Vol.61
Music For Our Lady Queen Of The Angels / Garth Hudson
1月21日に亡くなったガース・ハドソン
ザ・バンド(The Band)のガース・ハドソンが今年(2025年)1月21日に亡くなりました。バンド内で最年長でしたが、最後の生存者でした。87歳。いわゆるロックミュージシャンというもののイメージからはかなり遠い風貌で、実際音楽理論を正式に学び、ロックよりもクラシックのほうが似つかわしいような人でしたが、彼がいたことで、ザ・バンドの音楽性や存在感は、凡百のバンドやアーティストとはひと味もふた味も違うものになった、と考える人が多いようです。
“名は体を表す” と言いますが、ザ・バンドはほんとにバンドらしいバンドだったように思います。ロックンローラーのロニー・ホーキンス(Ronnie Hawkins)のバックバンドに、まだ17歳だったリヴォン・ヘルムが雇われ、その後辞めていくメンバーの代わりとして、ホーキンスが、ロビー・ロバートソン、リック・ダンコ、リチャード・マニュエルを次々に雇い、最後に、反対する両親を説得してまで誘い入れたのがガース・ハドソンでした。
ガースが欲しかったローリー(Lowrey)というメーカーのオルガンをプレゼントするのと、他のメンバーに音楽知識を教える代わりに、ギャラ以外に週10ドル払うという条件を提示したのです。他のメンバーは実力もさりながらそれなりにイケメンで、女の子がキャーキャー言うようなバンドにすることが、たぶん第一の関心事だったホーキンスが、そこまでしてガースを入れたかったのは意外です。ホーキンスがいなければ、ガースはおそらくロックバンドに入ることなど考えもしなかったでしょうから、彼の行動は、大げさに言うとロック史的に貴重でした。ともかく、こうして1961年のクリスマスに、後のザ・バンドのメンバーが揃いました。
突然舞い込んだボブ・ディランからの誘い
ホーキンスのバックバンド “Hawks” として夜毎演奏を繰り返すうちに、メンバー間には大きな信頼が生まれ、自分たちだけの音楽をやろうという強い意志が膨らんでいきました。1963年にホーキンスの元を離れ、いよいよ “Levon and the Hawks” というバンドとして活動を開始しますが、しばらくは食べ物にも困るような下積み生活。でもそんな苦難こそがバンドの結束を強くします。
1965年8月、突然舞い込んだボブ・ディランからの誘いが、運命を変えました。最初は “次のコンサートでロビーにギターを弾いてほしい” という要請だったのですが、ロビーが “リヴォンをドラムで使ってくれるなら” と条件を出し、2人で参加。気に入られ、その後のツアーへの参加も求められたので、今度は “バンドとしてやらせてほしい” と要望し、認められました。ディランにはアルバート・グロスマンというやり手のマネージャーがいましたが、やがて彼がバンドのマネージメントも担当します。
ところが、ツアーが始まってからたった2ヶ月で、リヴォンは脱退してしまいます。その頃のディランには “エレキ化” を拒否するファンが多く、バンドは常に嫌われたのと、人のバックを続けてもバンドの展望が見えないことに嫌気がさしたのです。
ふつうはここでバンドが終わってしまってもおかしくないのですが、1966年7月、ディランがバイク事故で活動できなくなると、グロスマンの配慮で、(リヴォン以外の)全員がウッドストックに移住、結婚したロビー以外の3人は大きなピンクの家(ビッグピンク)に住んで、やっと自分たちの音楽をつくり始めます。そして1967年末、2年間も離れていたリヴォンを呼び戻し、1968年、ようやくレコードデビューをすることになります。このバンドの絆の強さを感じるエピソードです。
文字通り “The Band” だね!と思うわけですが、でも、よく自らそんな究極の名前をつけたな、と不思議に思っていたら、リヴォンが書いた『ザ・バンド 軌跡』という本によると、デビューにあたっては “Crackers” という名前に決めていたそうです。意味は “南部の貧しい白人”。ところが、1968年にデビューアルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』が発売されると、名義が "The Band” になっていて驚いたと。なぜか勝手に変えられていて、リヴォンは “わざとらしく、威張っている感じ” がして嫌だったそうですが、ウッドストックの住民が彼らのことをそう呼んでいたらしい。私はマネージャーのグロスマンが、“Crackers” より "The Band” のほうがインパクトがあって売れると思ったから、レーベルにそう指示したんじゃないか、と推測しています。
バンドの力
ところで、この “バンド” というものの在り方を考えてみると、ロック系特有のものなのかもしれませんね。ロックが生まれる前、クラシックやジャズにおいても “バンド” という言葉は使いましたが、指揮者やバンマスという絶対的リーダーがいたり、ミュージシャンがセッション的に集まることはあっても、“一定のメンバーが互いに協力し合いながら独自の音楽をつくっていく” という形態のバンドはありませんでした。
いや、むしろ、バンドがそういう形態になることでロックという音楽が生まれてきた、と言ってもいいかもしれません。そういうバンドでは、ミュージシャンたちの個性が影響し合ったり、ぶつかったりすることで、“化学変化” が起こり、個々人の力量や発想を超えるものが生まれることがあります。
たとえばジョン・レノンとポール・マッカートニーはそれぞれが天才的なソングライターですが、ソロではやはり、ザ・ビートルズを超える作品はつくれていないと感じます。ビートルズの中にいたことが、彼らの創造力をさらに拡大していたんだと思います。また、チャーリー・ワッツのドラム自体は別に好きじゃなかったし、上手いとも思いませんでしたが、ザ・ローリング・ストーンズのサウンドには彼のドラムとキース・リチャーズのギターが欠かせないと思いますし、多くの人もそう感じているでしょう。いくら上手くても、スティーヴ・ジョーダンにはその代わりはできないでしょう。
ザ・バンドもまさにそういうバンドでした。リヴォンは前述の著書で “僕は、ザ・バンドには僕達5人を合わせたよりもっと大きなものがあると信じていた。今もその考えは変わらない” と述べています。
バンドの脆さ
ただ、メンバー同士が信頼感で結びついている間はいいのですが、それが長続きしないのが、人間のやっかいなところです。ザ・バンドもデビューからわずか10年後の1978年には解散してしまいます。その原因は、ライブ活動特にツアーが嫌になり、レコード制作に専念しようと主張したロビー・ロバートソンと、それに大反対だったリヴォン・ヘルムの衝突にあり、さらにその底辺にはドラッグの常用による精神の荒廃があった… とザックリ理解していたのですが、真相はもっと複雑で、センシティブなものだったようです。
実は彼らがバンドらしかったのは、セカンドアルバムの『ザ・バンド』(1969年)までだった、とリヴォンは言います。
『ザ・バンド』がかなり売れたおかげで、著作権印税が入ってきたのですが、それがそんなに大きな金額になることを、彼らは知らなかったのです。で、曲を多く書いているのはロビーですから、ロビーの印税がダントツに多い。でも、メロディや歌詞はロビーだとしても、それを音楽作品に仕上げているのはメンバー全員の創意工夫じゃないか、とリヴォンは思うわけです。これは著作権というものの考え方だから、たとえば誰かがメインでつくっていてもバンド全員のクレジットにしているケースなどもありますね。そのような方法をとればよかったのかもしれませんが、ザ・バンドではそうなっていなかった。リヴォンもロビーのソングライターとしての役割はもちろん認めるのですが、バンドの共同作業の結果の大半が彼のものとクレジットされ、現実の収入の格差につながるのは許せませんでした。
その責任はマネージャーだったアルバート・グロスマンにある、とリヴォンは考えます。マネージメント側がミュージシャンをコントロールするために、“分断して征服する” のだと。メンバー全員を平等にしておくと、全員が結託して要求してくるから、ビジネス的にいちばん必要な人物を特別扱いして、メンバーを分断する。文句あるヤツは辞めるか、渋々従うしかない、というわけです。
それでも、レコーディングやライブではわだかまりを置いて、音楽に没頭するのですが、ロビーがライブをやめたいと言い出し、『ラスト・ワルツ』という “さよならコンサート” の準備をマネージメントと勝手に進めていたことで、少なくともリヴォンはもうやる気を失くしてしまったのです。
リヴォンは自分よりガースのことを常に気にしていました。“ザ・バンドの音楽が特別なものになっているのはガースのおかげで、ガースこそがザ・バンドをザ・バンドたらしめているのに、それに見合った待遇を受けていない” と。 “たとえば、6枚目のアルバムの『ノーザン ライツ – サザン クロス(南十字星)』(1975年)は、当時としては最先端の24トラックレコーダーを使っているので、ガースが、みんなが帰ったあとも、1人でいろんな面白い斬新な音を入れて、それでとてもいい作品になったのに、作曲クレジットはすべてロビーだけだ” と。
ガース・ハドソンの個性とザ・バンド
ガース・ハドソンは実にユニークなセンスの持ち主だったと思います。ザ・バンド解散の2年後にリリースされた彼のソロアルバム『ミュージック・フォー・アワー・レディ・クイーン・オブ・ジ・エンジェルズ』(1980年)を聴くと、よく解ります。ある博物館のイベントのBGMとして提供されたので、なんらかの制約があったのかもしれませんが、おもにオルガンとシンセサイザーだけで、淡々と展開していきます。たいていのこういうタイプの音楽って退屈なんですが、これは不思議にスルッと聴けます。でもとにかく、ふつうのロックやポップスとはかなりの距離があります。ザ・バンドの音楽に奥行きと深さを与えているのは、この距離だと思います。
愛用のオルガンが、いちばん人気がある “ハモンド” じゃなくて、知る人ぞ知る “ローリー” だったということもガースらしさです。ハモンドはそれが入っただけでサウンドがリッチに聴こえるようなゴージャスな音をしていますが、ローリーははっきり言って地味で、モゴモゴしているように感じます。だからたとえば、デビューアルバムに収録されている「チェスト・フィーバー」のような、オルガンソロがある曲は別ですが、たいていガースのオルガンは目立ちません。表には出しゃばらず、隠し味のように音を編み込んである。“パッと聴き” はアーシーでヒューマンなロックだけど、よく聴くといろんな音のしかけに気づいていくような、そんな音づくりがガースは好きだったんじゃないかと思います。それで、あえて地味な音のオルガンを選んだのかもしれません。
“ガースこそがザ・バンドをザ・バンドたらしめている” というリヴォンの発言はこういうことなんだなと思いますが、もちろん、リヴォンのファンキーなビート感覚やロビーのフックのあるメロディがなければ、やはりザ・バンドではありません。5人の個性的なミュージシャンが、互いに引力を及ぼすことで、実力以上の力が湧き出して、魔法の音楽が生まれました。
巷では、バンド解散の理由としてよく言われるのが、“メンバー間の音楽の方向性の違い” というヤツですが、それは多分本音じゃありません。むしろ、方向性は違うほうがいいのです。ただしお互いを認める信頼関係があればですが。信頼の喪失が、いちばんの元凶だと思います。ガース・ハドソンを偲んで、ザ・バンドを聴きながら、そんなことを考えていました。