極悪女王には未登場!ミミ萩原は女子プロレスの元祖ビジュアルクイーンで空前絶後の87連敗
“女子プロレス&音楽” のセットが出来上がった1970年代
1970年代、私が鼻たれ小僧の小学生時代、近所の中華料理店に女子プロレスのポスターが貼ってあった。その中心には、当時の看板選手、ジャンボ宮本の姿。ジャイアント馬場の16文キックやアントニオ猪木のコブラツイストに酔いしれることが多かった私にとって、女子プロレスの存在は未知のものであったが、その名前だけはしっかりと記憶した。
70年代中盤になると、マッハ文朱が登場。長身、ルックスの良さ、抜群の運動神経であっという間にスター選手となり、子どもが観るバラエティ番組などにも出演。これで、女子プロブームに火が点いた。マッハは日本テレビのオーディション番組『スター誕生!』に出場し、決戦大会にも出場したぐらいだから、歌も上手い(同じ決戦大会には山口百恵もいたらしい)。試合後に、リング上で自慢の歌声を披露したことから “女子プロレス&音楽” のセットが出来上がった。
マッハが芸能界に転出すると、ジャッキー佐藤とマキ上田によるビューティ・ペアの登場となる。彼女たちのデビュー曲は「かけめぐる青春」。女子中高生を中心に人気が爆発し、黄色い声援と紙テープが飛び交う、およそリングとは思えない雰囲気になってきた。
ジャガー横田もクラッシュギャルズも歌っていた女子プロレス最盛期
80年代になると、“ジャガー横田 vs デビル雅美” という黄金カードで盛り上がり、極めつけはクラッシュギャルズ。ダンプ松本やブル中野といったヒールとの抗争で、女子プロレスが最盛期を迎える。この頃は、ジャガーもクラッシュギャルズも歌っている。
さて、ここまではいわゆる “エース” の系譜。これとは別に、現在の女子プロには、ビジュアルクイーン路線が成立している。そのスタートがミミ萩原だ。
セクシー路線を確立させたミミ萩原
この人、“ミミ” という芸名で、すでにアイドル歌手として活動していた。70年代には、日吉ミミという歌手も活動していて、“芸能界はミミ流行り” だと鼻たれ小僧が思い込んでいたぐらいだから、かなり有名。ドラマやバラエティなどにも出演していたので、プロレス転向は大いに話題となった。
当時、全日本女子プロレス中継の実況をしていた志生野温夫氏によると、1978年のプロレスデビューから87連敗という、おそろしい記録を打ち立てている。しかし、これが判官びいきの心に届き、彼女のレスラーとしての人気も徐々に上昇。80年代になると、タイトルを奪取するなど実力もつき、看板選手のひとりとなる。そして、露出度が高いハイレグで登場するなど、セクシー路線を成立させたのも彼女。こうなると、お決まりのレコードデビューとなる(まあ、アイドル時代もシングルを出しているが)。
ミミ萩原名義で「スタンド・アップ」(1981年)、「ブロードウェイ・ドリーム」(1982年)、「セクシー IN THE NIGHT」(1982年)、「セクシーパンサー」(1983年)などをリリースする一方、セクシー系写真集を出すなど、その人気は男性ファンにも広がっていった。残念ながら1984年に引退したが、その後、ビジュアルクイーン路線はナンシー久美、キューティ鈴木、井上貴子などに引き継がれていくことになる。
*2017年1月6日に掲載された記事をアップデート