東大卒の銀行マンにして、謎のシンガーが表舞台に出る契機になった「シクラメンのかほり」は、小椋佳の14枚目のシングル「めまい」のB面だった
歌手と俳優の二刀流で活躍するタレントは多いが、シンガーソングライターとエリート銀行マンという特異な二刀流で名曲を残した唯一無二の存在が小椋佳だ。
第一勧業銀行(現・みずほ銀行)の主要部門で成果をあげながら、表舞台に出ないアーティストとして活動していたのだが、1975年(昭和50)に布施明に提供した「シクラメンのかほり」が大ヒットし第17回日本レコード大賞を受賞すると、小椋佳の名前が注目されていった。
中村雅俊に提供した「俺たちの旅」(75)、「時」(76)、「俺たちの祭」(77)、美空ひばりの「愛燦燦」(86)、梅沢富美男の「夢芝居」(82)、研ナオコ「泣かせて」(83)など、延べ300人以上の歌手に曲を提供すれば、高倉健と吉永小百合の共演した映画『動乱』の主題歌「流れるなら」(79)、資生堂のCMソング「揺れるまなざし」(76)、その他にも社歌や校歌など世に送り出した楽曲は枚挙にいとまがない。もって生まれた才能と言ってしまえばそれまでだが、優しく柔らかく包み込まれるような低音で、繊細な心の動きを歌にする小椋佳の驚異的な活動に改めて感服させられている。
小椋佳としてのキャリアのスタートは、劇作家、詩人歌人である寺山修司との出会いに遡る。寺山がDJを務める番組でリスナーの出演を募ったところ、法学部の学生でありながら芸術に興味をもっていた小椋は、ギターを持って駆けつけ、その後寺山サロンに出入りするようになった。寺山は、羽仁進監督と自身が共同でシナリオを執筆した映画『初恋・地獄篇』(68)を再構成し、天井桟敷の第一弾のアルバム作りに銀行員になった小椋を誘った。そこで「ラブレター」「僕は恋してる」「逢いたい」の3曲を、小椋は歌手として初めてレコーディングすることになった。このアルバムにはカルメン・マキ、石井くに子、GSのクレイジー・ボーイズなども参加しており、音楽ばかりではなくナレーションや朗読も入っている。ジャケット写真の撮影は篠山紀信だ。
これを聴いたのがポリドールレコードの新人プロデューサー多賀英典だった。多賀は安全地帯、井上陽水、松たか子などを手がけた名プロデューサーで、のちにキティ・レコードやキティ・フィルムなどキティ・グループを創業している。多賀は小椋の声のイメージから、15、6歳の美少年を想像していたが、25歳の銀行員ですでに所帯持ち、容姿端麗とは言いがたい小椋をみて、新人歌手として売り出すことはすぐさま諦めた。しかし、小椋の自作の曲を聴いてみると、多賀は興奮するほど感動を覚え、小椋の楽曲にふさわしい歌手を探すことになった。ところが発掘はなかなか進まず、小椋自らが歌うアルバム『青春~砂漠の少年~』が1971年1月15日リリースされた。デビューと言っても新人歌手のような華やかさは全くなかったが、アルバムの中の「しおさいの詩」が映画監督・森谷司郎に気に入られ、71年東宝の正月映画『初めての旅』に採用されたのである。
リリースされた当時、本人は銀行からの出向で、シカゴの大学院にいた。アルバムが世に出たことを心配した小椋の先輩が、銀行の人事部にお伺いを立てると、「どうせたいしたことはないだろうから、放っておこう」と不問に付されたという。銀行側も小椋のことにかまっていられない時期だった。小椋の勤務先、日本勧業銀行と第一銀行が合併するという重大事が進んでいた時だった。
LPはじわじわと売れ出し、2枚目のLP『雨』のリリースも決まったが、小椋の情報は「東大卒の謎のシンガー」とされ、外部にシャットアウトされていた。そして『青春~砂漠の少年~』と2枚目の『雨』を再構築した3枚目のアルバム『彷徨』がLPのロングセラー・チャートに登場。黒盤LPの総生産枚数が歴代第2位となる。因みに第Ⅰ位は井上陽水の『氷の世界』である。名プロデューサーの手腕もあるが、徐々に小椋の音楽は世の中に浸透していった。
「しおさいの詩」がデビューシングルとしてカットされ、「六月の雨」「春の雨はやさしいはずなのに」と71年に3曲、翌年も4曲といったペースでリリースされ、14枚目のシングル「めまい」(作詞・作曲小椋佳、編曲 星勝)が1975年11月21日にリリースされた。B面が「シクラメンのかほり」である。筆者自身初めて買った小椋佳のドーナツ盤だ。ジャケットのイラストと涙のデザインが印象的で、「めまい」というタイトルが神秘的だった。大人びた世界に足を踏み入れた感じで、この曲のもつ意味を理解しようとした。
鏡に口紅で文字を書く。それも「さよなら」と一言。きっと口紅の色は真っ赤なのだろう。部屋の外には青い海が広がっている。色彩豊かな美しい場面が心に残った。
「めまい」は、フジテレビ系列の水曜ドラマシリーズ「娘たちの四季 愛は素直に」の主題歌になっている。このドラマは、75年10月1日~翌年3月31日まで全26話の放送で、同時期には山口百恵と三浦友和の「赤い疑惑」がTBS系列で金曜日、中村雅俊が主演で70年代の吉祥寺を舞台にした青春ドラマ「俺たちの旅」が日曜日に放送されていた。こちらの主題歌も中村雅俊が歌う小椋佳による「俺たちの旅」だった。「俺たちの旅」は「俺たちの旅 十年目の再会」(85)、「俺たちの旅 二十年目の選択」(95)と10年ごとに主人公たちのその後がスペシャル版ドラマになった。ドラマのなかで主人公カースケこと中村雅俊と金沢碧演じる山下洋子がお互いに好きなのにすれ違ってしまう。もどかしさを感じながらも二人を応援していたのだが、「二十年目の選択」では、二人の別れのシーンに「めまい」が挿入された。別れを口にしながらも明るく取り繕い向き合う二人に、小椋の歌う「めまい」が物悲しく響く。洋子はつまらない嘘でカースケと結ばれるチャンスを逃してしまうのだが、そんな不器用な洋子の役柄と演じる金沢碧は好きな女優さんの一人になった。
「めまい」やB面の「シクラメンのかほり」を創った当時、小椋は多忙な銀行員を続けながら、年に50曲ほど創り、その中から翌年に新作のLPを制作する習慣になっていた。そんな最中、布施明から新曲の依頼があり「淋しい時」と「シクラメンのかほり」を渡し、小椋自身は業務のため日本を後に渡米。やがて「布施明の曲ヒット中」の連絡が入ったときは、てっきり「淋しい時」だと思ったという。「シクラメンのかほり」が日本レコード大賞を受賞するという小椋にとっては不測の事態が起こると、マスコミも騒ぎ出し、さすがに銀行でも小椋の音楽活動が問題になった。しかし時の頭取・宮崎邦次が「神田君(小椋佳の本名)はみんなと一緒になって最後まで残業して一生懸命仕事をしている。なんの問題があるか」と一喝し事なきを得たという。
翌年NHKホールで初のリサイタルを一回限りという条件で開催。同じころ資生堂の当時宣伝部長だった福原義春(のちに資生堂の社長、会長)からCMソングを依頼され、「揺れるまなざし」が秋のキャンペーンソングとなった。
47歳で低迷していた浜松支店長になり、浜松支店60年目にして初の業績表彰の受賞という輝かしい成績を残し本店に戻ったが、ついに49歳で二足の草鞋にピリオドを打つ。50歳で東京大学法学部3年生に再入学。どの科目も面白く毎朝一番で登校し、夕方からは図書館通いをする生活は、1年間で単位オーバーとなった。そして翌年の文学部入学に備えるが、50歳からはコンサート活動も始め、年間100本ほどのライブも行っている。凄まじいエネルギーだ。
2014年1月古希を迎えた小椋は、きりのいい年に「けり」をつけようと、「生前葬コンサート」を開催。それまでに創った約2000曲の中から、4日間連続の重複しない100曲がNHKホールで披露された。そのときの白装束の衣装にも驚かされた。その後「小椋佳ファイナル・コンサート・ツアー『余生、もういいかい最後にもう1回特別追加公演』」を開催し、コンサート活動からも引退すると宣言したが、現在81歳。今年も「The Last Concert at Orchard Hall ~さすがに傘寿 もういいかい~」を3月に開催した。今後も鳥取、宮城、愛知、岐阜、茨城、千葉、大阪でコンサートが予定されている。
両親の影響で歌うことが小学生の頃から大好きで、「歌創りは日記をつけると同じこと」と小椋は語る。「もういいかい」と聞かれたら、「まあだだよ」と応えて、これからも小椋佳の音楽を楽しみたい。
文=黒澤百々子 イラスト=山﨑杉夫
参考:日本経済新聞「私の履歴書」 朝日新聞出版「小椋佳 生前葬コンサート」