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【実在した巨人だけを集めた軍隊】プロイセン王の奇癖が生んだ“長身兵団”とは

草の実堂

画像:ホーエンフリーデベルクの戦いにおけるポツダム・ジャイアンツ(カール・レヒリング画) public domain

18世紀初頭、ヨーロッパの片隅にあったプロイセンという小国に、異様なまでの軍事主義者が君臨していました。

その人物は、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世

「軍人王」と呼ばれた彼は、徹底した軍備拡張と厳格な規律を重んじ、浪費と贅沢をことごとく排しました。
しかし、生涯を通じて深く愛したものは、戦術でも銃剣でもなく、背の高い兵士たちだったのです。

この執着はやがて、「ポツダム巨人軍」と呼ばれる異形の部隊を生み出し、国家プロイセンに奇妙な影を落とすことになりました。

今回は、王が偏愛したこの異様な軍隊が生まれた背景に迫ります。

軍人王の誕生と精神

画像:フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 彼自身の身長は160㎝程であった public domain

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、1688年にベルリンでプロイセン王家の嫡子として誕生しました。

幼いころから、父であるフリードリヒ1世の華美な宮廷生活や浪費に対して、冷ややかな視線を向けていたといわれています。王位継承者としての教育を受けるなかで、彼は次第に自らの理想を形づくっていきました。

1713年、父王の死去にともない、わずか25歳で王位に就くと、すぐさま国家財政の引き締めと軍制の改革に乗り出します。

新王となった彼は、宮廷の祝宴を廃止し、無駄な出費を徹底的に削減しました。
王宮からは音楽や舞踏が姿を消し、そのかわりに鳴り響いたのは、軍靴の足音と銃剣の金属音でした。

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世にとって、理想の国家とは、整然と隊列を組み、命令ひとつで統率される軍隊のような社会だったのです。

彼の治世下で、プロイセン軍は8万人を超える規模に拡大しました。
そのなかには、やがて特別な存在として知られることになる一部の兵士たちが含まれていました。

それこそが、ポツダム巨人軍(ドイツ語:Potsdamer Riesengarde、英語では“Potsdam Giants”とも)と呼ばれる部隊です。

異様な美意識

画像:ドイツ歴史博物館に所蔵されている巨人連隊兵士の肖像 public domain

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、厳格な規律を重んじる一方で、どこか歪んだ美意識の持ち主でもありました。

彼はなにより「背の高い男たち」に強く惹かれていたのです。
その理由については、兵士としての威容を重視した軍事的な判断だったとも、あるいは私的な偏愛に近い感情だったとも言われています。

ともかく、王は長身兵の徴募に強い執着を示し、やがてポツダムの地に「巨人部隊」を組織します。

この部隊に入隊するには、少なくとも188センチ前後の身長が理想とされていました。
当時としては並外れた高さであり、王は国内だけでなく、ヨーロッパ諸国の外交官や軍人にも「該当する人物がいれば報告せよ」と命じていました。

中には、外国で見かけた長身の男をそのまま連れ帰るよう命じた例もあり、実際に外交上の摩擦を引き起こしかけたこともあったようです。

兵士たちは高い報酬と引き換えに軍服を与えられ、閲兵式などでは見せ物のように扱われました。
身長をさらに強調するために、帽子はわざと高く設計され、威圧感を高める工夫が凝らされていました。

こうした中で、王は一部の兵士に対して、長身の女性との間に子どもをもうけさせるよう仕向けたとも伝えられています。

遺伝の知識すらなかった当時に、まるで育種家のような発想で兵士を「繁殖」させようとしたこの試みは、常軌を逸していたと言えるでしょう。

息子との軋轢

画像:王太子フリードリヒの眼前で斬首されたカッテ public domain

王が国家と軍に注いだ情熱は、家庭の中にも容赦なく及びました。

とりわけ息子のフリードリヒ2世に対しては、まるで兵士を鍛えるかのように接し、愛情よりも恐怖を与えました。

王子は音楽や文学を好み、なかでもヴォルテールの思想に深く傾倒していました。
フランス語に親しみ、ルイ14世のような華やかで文化的な宮廷を理想としていた彼にとって、甲冑をまとった父の質実剛健な軍国体制は、大変息苦しく感じられたことでしょう。

王は息子のその感性を「軟弱」と見なし、軍事訓練を強要しました。
些細なことで叱責や暴力を加えることもあり、父子の間にはしだいに深い溝が生まれていきます。

そして1730年、ついに決定的な事件が起こりました。

若き王子フリードリヒは、親友であり副官でもあったハンス・フォン・カッテとともに、国外への逃亡を計画したのです。
しかし計画は発覚し、王は激怒。カッテは軍法会議によって死刑を宣告されました。

フリードリヒ王子は、その処刑の場に立ち会うよう命じられ、目の前でカッテが斬首される瞬間を見せつけられたのです。
若き日の王子はその衝撃に耐えられず、気を失ったとも伝えられています。

この一件は、父と子の間に深く、決定的な亀裂を生じさせました。

王の死と継承、そして巨人兵の終焉

画像:1740年代、甲冑をまとったフリードリヒ2世 public domain

1740年、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は病に伏し、そのままこの世を去りました。

王位を継いだのは、長年にわたって父の威圧と愛情の狭間で揺れ続けてきた息子、フリードリヒ2世でした。

新たな王となったフリードリヒ2世は、父の軍事政策の多くを受け継ぎながらも、自らの理想を重ね合わせていきました。
軍備の増強は継続しつつも、音楽や哲学、そして法による統治を重視する啓蒙思想を導入し、プロイセンをより洗練された国家へと導いていきます。

その流れのなかで、「ポツダム巨人軍」も、次第に姿を消していくことになります。

フリードリヒ2世にとってこの部隊は、父の存在を象徴するものであり、同時に軍の非合理さの象徴でもあったからです。

やがてポツダム巨人軍は、他の部隊へ吸収されるかたちで解体されていきました。

画像 : ノルウェー出身の巨人兵士。「赤の親衛大隊」に所属していた。Public domain

父が集めた長身の兵士たちは、ある者は戦場で命を落とし、ある者はそのまま歴史の舞台から姿を消していきました。

ポツダム巨人軍を生み出したフリードリヒ・ヴィルヘルム1世の人生は、強烈な意志と異様な趣向に彩られたものでした。質素と軍事を至上とし、国民からは「倹約王」「軍人王」と称えられた一方で、心の奥底には、長身兵への病的な執着がありました。

そして、彼にとって最大の葛藤は、愛情と支配のはざまで揺れた息子との関係にありました。
父は軍人として国家を築こうとし、息子は哲学と文化を尊びながらも、現実主義の王として国を導こうとしたのです。

二人は激しく対立しながらも、それぞれの方法でプロイセンを次の時代へと押し出しました。

ポツダム巨人軍は、単なる奇癖としては片づけきれない存在です。
そこには、父と子の断絶、専制と啓蒙、秩序と自由という、18世紀プロイセンが内包していた深い矛盾が静かに映し出されているのです。

参考文献:
『Thomas Carlyle, History of Friedrich II of Prussia, Called Frederick the Great』
『思わず絶望する!? 知れば知るほど怖い西洋史の裏側』他
文 / 草の実堂編集部

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