デビュー40周年【セイントフォー】昭和アイドル史に鮮烈な印象を残した本格派4人組!
アクロバティックなパフォーマンスで鮮烈な印象を残したセイントフォー
百花繚乱だった80年代のアイドルシーン。当時はソロアイドルがメインの時代ながら、グループアイドルも決して少なくなかった。その中のひとつが1984年にデビューしたセイントフォーだ。僅か2年2ヶ月の活動期間ながら、他に類を見ないアクロバティックなパフォーマンスで昭和のアイドル史に鮮烈な印象を残した。解散から30年経った2018年には4人のオリジナルメンバーのうち3人が集まって本格再始動し、コンプリート復刻の実現と共に、新曲を含むセルフカバーアルバム『時の旅人』も同時に発表して話題となった。そしてこの11月5日にデビューから40周年を迎える。
セイントフォーは、1982年にプロダクションが募集した『あなたもスターに!』で3万人の応募者から選ばれた4人組で、当初は岩間沙織、鈴木幸恵と他2人のチームだった。しかし他の2人が辞退したことで、新たに浜田範子(現:濱田のり子)、板谷祐三子が加わってメンバーが固まる。それから約2年にわたる準備期間を経て、リバスターレコードからデビュー曲「不思議Tokyoシンデレラ」がリリースされたのは1984年11月5日のことだった。
その12日後、11月17日には初主演映画『ザ・オーディション』が封切られ、映画とレコード、双方での大プロモーション作戦が敢行された。映画は4人の少女を芸能界にデビューさせることに情熱を傾けた元ロックバンドのリーダーの物語で、共演は世良公則。現実に彼女たちがデビューに至るまでが絶妙にリンクし、実際のレッスンの様子なども導入されていた。
新しいアイドル像を目指すプロジェクトが展開
最大の特徴は歌いながらバク転やバク宙を披露するという、前代未聞のアクロバティックなパフォーマンス。それまでそんなアイドルは皆無であったことから大いに話題をさらった。音楽面では、沢田研二の一連のヒットをはじめ、多くの作品を世に送り出していた作曲家・加瀬邦彦が楽曲提供及びプロデュースを手がけるという万全の態勢で、従来のグループアイドルとは一味違う、新しいアイドル像を目指すプロジェクトが展開された。売り出しのための破格なプロモーション費も話題を呼んだ。同時期の少女隊もまた同様で、当時は景気のよい時代であったと痛感させられる。
80年代の活動期間中には、4枚のシングルと、3枚のオリジナルアルバムがリリースされた。1984年11月発売のファーストアルバム『THE AUDITION』、1985年5月のセカンドアルバム『太陽を抱きしめろ』にはプロデューサーである加瀬がシングル作品をはじめ複数の楽曲を提供している。
ファーストアルバム収録の「断崖」は当初デビューシングルに予定されていた曲だったという。最初は “四人組” というグループ名に決まりかけていたという意外なエピソードもある。その名前でTシャツまで作られていたそう。ほかにも “ルナリアンズ” などいくつか候補があった中からセイントフォーが採用されたのだそうだ。映画の撮影と同時進行だったため、昼間は撮影、夜中にレコーディングという強行スケジュールが組まれる中で、どんどんプロジェクトが大きくなっていったのだった。
歌もパフォーマンスも真の本格派だったセイントフォー
1985年9月発売のサードアルバム『We're SAINT FOUR〜セイントフォーIII〜』には、古田喜昭が手がけたサードシングル「ハイッ!先生」などが収められ、アイドルらしい可愛さが全面に押し出された新たな趣向のアルバムだった。そしてアルバムと同時に出された4枚目のシングル「ハートジャックWAR」が結果的にラストシングルとなった。1986年3月には最年少だった板谷が学業優先のため脱退し、入れ替わりにいわお潤(現:岩男潤子)が参加するも、デビューから2年2ヶ月が経った1987年1月をもってグループは解散に至った。
新メンバーでのさらなる活躍が期待されていただけに早すぎた解散は惜しまれるところだが、その情熱の残り火が時を経てからの再結成に繋がったのかもしれない。2013年には加瀬が経営していたライブハウス「ケネディハウス銀座」での一夜限りの復活ライブが開催され、濱田、岩間、鈴木が解散以来26年ぶりにステージに立ち、そこからまた5年を経た2018年3月に3人での本格再始動を表明。CD発売とライブの開催が発表されたのである。
アイドル群雄割拠の中で、東京音楽祭に出場、メガロポリス音楽祭でのエメラルド賞や、日本テレビ音楽祭での新人奨励賞など数々の賞を受賞した実績もある。歌もパフォーマンスも真の本格派だったからこそ、今も語り継がれるアイドルグループ。なにより再び現役で在り続けている彼女たちを当時以上に熱く応援したい。