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野瀬泰申の「青森しあわせ紀行 その6④」

まるごと青森

野瀬泰申の「青森しあわせ紀行 その6④」

「ごど」と「やませ」

2024年2月18日(日)承前

日が暮れてから「おばんざいとお酒 いごこち」という店のカウンターに腰を下ろした。ここは「やさい研究家」の矢部聖子(しょうこ)さんが始めた店だ。なぜ矢部さんを訪ねたかと言うと、矢部さんが「ごど」という郷土料理の歴史や作り方を調べ、実際に自分でこしらえているからだ。

「まず大豆を煎ります。一升ますの底でごろごろ潰し、箕(み)を使って外皮を飛ばします。一晩水に浸して、次の日に煮るんです。それから藁に包んでコタツの中や囲炉裏のそばに置き、完全な納豆になる前に米麴と塩を加えます。この後はやり方が2通りあって、一つは寒い所で12週間寝かせる。もう一つはコタツに入れる。外の寒い所で保存すると1年以上もちますよ。チーズみたいになって」

十和田市郊外に伝わる食べ物だが、実際に作っている最後の一人と思われる女性が「もうやめる」と言ったのを聞いて「途絶えてしまう。私が残そう」と思い立ったのが3年前。それから矢部さんは温泉に行っては、そこに来ている高齢の女性に「ごどを作ったことがありますか?」と尋ね、「ある」と答えた人には詳しい作り方を聞いてきた。「温泉に来ているおばあちゃんは話し好きが多いし急いでいないので、じっくり話を聞くにはもってこいなんです」

作り方は人によって微妙に違うのだが、問題は「ごど」の正体がわからないことだ。「納豆の変化形でしょうか。それとも納豆をなれ寿司のようにしたかったのか。まだ解明途中です」と矢部さんは言う。

横手市など秋田県南部の豪雪地帯で納豆を作る場合、寒さのせいで発酵が進まず糸を十分に引かないことがある。そんな半完成品の納豆に砂糖をかけて混ぜると、盛大に糸を引くようになる。あの辺りでは、いまでも市販の納豆に自動的に砂糖をふる高齢者は少なくない。

そこからの連想。最初は普通の納豆を作ろうとした。しかし寒さでうまく糸を引かない。「それでは」と米麹を加えて追加発酵を促したのだが、納豆菌と麹の違いのせいか発酵はするもののちょっと違うものができた。残念な半面、いいところもあった。それは納豆より長期保存ができることだ。というわけで納豆の途中から枝分かれして、初めから「ごど」を作るようになった。以上はあくまでも雑談レベルの想像に過ぎない。「ごど」の起源や語源は今のところ不明。

「ごどの思い出を聞くと、コタツの中の臭い物、あれは食べ物ではない、おいしくなかった、という人がいる一方で『ごっちょ(ごちそう)だった』と言う人もいるんです」

矢部さんが作った「ごど」を食べてみた。はっきりとした大豆の味を麹のほのかな甘さが追いかけてくる。それから発酵が生み出した酸味が現れた。南部せんべいにのせて口に運ぶと日本酒の友になる。しかし、納豆ではない。何かに似ているだろうかと考えてみたが、思い当たるものがない。やはりこれは「ごど」という独自の食べ物と言うしかない。

矢部さんの「ごど再興」の動きが影響を与えたのか、最近になって「ごど」をこしらえて道の駅に出品する人も出てきた。まだ謎だらけだが、矢部さんの「ごど探求」はこれからも続く。

青森県の南部地方の特産にニンニク、ゴボウ、長芋がある。どれも地中で育つ「土物野菜」と言われるものだ。背景にあるのがオホーツクから流れてくる冷気の「やませ」。夏場にやませのせいで気温が下がっても土中の作物は生き残れる。そんなわけで土物に力を入れた結果、特産野菜に育った。北海道のジャガイモやタマネギも同じ理由だ。

米ができないから小麦を栽培した結果、米せんべいが主流の東日本にあって旧南部藩地域は例外的な小麦粉せんべい地帯になった。

やませは「ごど」と馬を結びつける。納豆の材料である大豆は寒さに強く保存がきく。一年を通じて貴重なたんぱく源になったことだろう。もし十和田市を含む三本木台地が古くから米や葉物野菜を産する肥沃な土地だったならば、栄養の一端を大豆に頼る必要はなく「ごど」のような保存性を追求した食べ物は生まれなかったのではないか。

その裏返しで農業に向かない荒涼とした台地だったからこそ、馬を肥育する広大な牧場を開くことができ、南部は一大馬産地になり得た。「やませ」の功罪と言うべきか。

そうだ、思い出した。東北町の小川原湖畔に立つ道の駅の建物の中に、ガラス張りの書棚のようなものがあって、トロフィーやヘルメット、勝負服などが陳列されていた。川崎競馬所属の騎手で通算7153勝を挙げて「鉄人」と呼ばれた佐々木竹見さんの出身地が、東北町なのだそうだ。川崎競馬では毎年「佐々木竹見カップジョッキーズグランプリ」というレースがあり、佐々木さんの偉業を称えている。南部地方を歩いているとどうも馬から逃げられない。

南部には有名な馬肉料理の店がいくつかあり、私はその中の1軒を訪ね、そこでジンギスカン鍋の変形のような「義経鍋」で馬肉を焼き、野菜を煮た。この鍋は名前のせいで「その昔、義経主従が」とか「弁慶が兜で」とか、歴史ロマンとともに語られることが多い。しかし私はずっと以前に義経鍋のことを調べたことがある。

鍋を考案したのは岩手県北上市の「南部義経堂」という会社で、1958(昭和33)年に義経鍋の特許取得、80年に「牛若鍋」と「弁慶鍋」を開発している。「義経主従」とは無関係なのだ。ロマンがなくて申し訳ない。

今夜の宿は十和田市内のホテルポニー温泉だ。夕食のおススメには各種馬肉料理が並ぶ。どこまでも馬が追いかけてくる。

(了)

野瀬泰申(のせ・やすのぶ)
<略歴>
1951年、福岡県生まれ。食文化研究家。元日本経済新聞特任編集委員。著書に「天ぷらにソースをかけますか?」(ちくま文庫)、「食品サンプルの誕生」(同)、「文学ご馳走帖」(幻冬舎新書)など。

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