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【江戸の遊女の実態】60人に1人が春を売っていた? ~吉原・岡場所の違いとは

草の実堂

【江戸の遊女の実態】60人に1人が春を売っていた? ~吉原・岡場所の違いとは

NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の第1回放送では、横浜流星さんが演じる主人公・蔦屋重三郎(通称:蔦重)が、吉原の下級遊女たちの困窮を岡場所の影響だと考え、奉行所に対して取り締まりを訴える場面が描かれました。

しかし、訴えは拒絶され、思い余った蔦重は老中・田沼意次に直訴しますが、逆に諭されてしまいます。

江戸の街には、遊女たちが働く場所として吉原や岡場所がありました。

今回は、これら吉原や岡場所の実態について詳しく紹介していきます。

「吉原」と「岡場所」の違い

画像:新吉原の桜。歌川広重 wiki.c

吉原岡場所の大きな違いは、吉原は「幕府が公認した遊郭街」で、岡場所は「幕府非公認の私娼街」ということになります。

蔦屋重三郎こと蔦重が、1796(寛政8)年に刊行した『吉原細見』よると、当時の吉原には「大見世」と呼ばれる高級店が10軒、準高級店である「中見世」が29軒、大衆店の「小見世」が22軒。さらに、それよりも格下の「切見世」「河岸見世」が数件あったと記されています。

一方、岡場所は全盛期には江戸市内に70ヵ所ほどあったとされ、寺社の門前や広小路などいわゆる盛り場を中心に発展しました。

その代表的な場所を挙げると、赤坂・谷中・根津・深川・三田などがあり、江戸市中のいたるところに岡場所が形成されたのです。

また、全盛期というのは、吉原と異なり幕府非公認の私娼街である岡場所は、風紀の乱れや質素倹約などの理由でしばしば取り締まりを受けました。

特に、贅沢を嫌った松平定信の寛政の改革、水野忠邦の天保の改革では、大半の岡場所が取り潰しの憂き目にあったといいます。しかし、岡場所は改革の時期が終わると、しぶとく復活を遂げました。

吉原・岡場所にはどれくらいの女性がいたのか

画像:花魁 publishing domain

では、吉原・岡場所などには、何人くらいの遊女がいたのでしょうか。

幕府公認の吉原の遊女の数は、ほぼ確かな数字が出ますが、私娼街の岡場所の遊女の数は推測するしかありません。

吉原は火災など年によって遊女の増減があるものの、平均すると2,500人ほどと考えられます。そして岡場所は1カ所につき50人ほどとすると、70ヵ所で3,500人ほどと推測できます。

そうなると、吉原と岡場所を合わせて江戸市中には、6,000人ほどの遊女がいたということになるのです。

画像:深川の岡場所で働く軽子 wiki.c

しかし、春を売っていた女性の数はこれだけではありません。

「江戸四宿」といわれた宿場町である品川(東海道)・板橋(中山道)・内藤新宿(甲州街道)・千住(奥州街道)にも岡場所があり、しかも宿場にある各旅籠には「飯盛女」と呼ばれる女郎がおり、さらに江戸には「夜鷹」と呼ばれる最下級の娼婦たちもいました。

幕府は、岡場所や江戸四宿の飯盛女の存在は、一応は見て見ぬふりをしていました。しかし、岡場所や飯盛女の人気が高まり、その需要が増えると岡場所を取り締まったり、飯盛女の数を1軒の旅籠に付き2名までという規制を設けたのです。

吉原と岡場所を合わせて江戸市中には6,000人ほどの遊女・女郎がいたとしましたが、これに江戸四宿の飯盛女の上限950人を合わせると、江戸にはおおよそ7,000人の春をひさぐ女性がいたことになります。

画像:飯盛女と客 wiki.c

江戸の人口は約100万人で、男女比は男性60%に対し女性40%です。

したがって、40万人の女性のうち遊女などが占める割合は1.75%となり、おおよそ60人に1人の女性がそのような生業についていたということになります。

これに4,000人ほどいたとされる夜鷹を入れたら……その実態は調べるほど驚きの数字になってしまうのです。

しかし、これには理由がありました。

江戸に住む男性には独身が多く、建前として自由恋愛が許されていなかった江戸時代においては、そうした女性たちの需要が高かったのです。

江戸時代、女性と遊ぶのにかかった料金

画像:新吉原の仲の町 wiki.c

吉原・岡場所・飯盛女・夜鷹と紹介してきましたが、もちろんそれぞれの遊興費にも違いがありました。

吉原が高い料金がかかる一方、岡場所・飯盛女は比較的低料金でした。

また、吉原が何かとしきたりが厳しかったのに対し、岡場所は手軽に遊べたので、庶民や下級武士にはこちらの方が人気が高かったのです。

では、実際の料金体系を紹介しましょう。

吉原は高級店から大衆店まで多様な店があり、大衆店でも現代価格で4万円ほどかかり、高級店になるとその料金はまさに天井知らずでした。

高級店の遊女は「大夫」と呼ばれますが、その大夫と床入りするには最低3回は足を運び、宴席などを設ける必要がありました。そうした経費を全て含めると、500万円はかかったというから驚きです。

一方、岡場所は現在でいうちょいの間的な遊びでは、30分で約1,000円ほどで、ある程度の時間女性と遊んでも1万円半ばであったとされます。

また、宿場の旅籠にいた飯盛女は、幕末の品川宿での相場は、1万円弱から1万円半ばほどとされ、『東海道中膝栗毛』によると4,000円弱でも遊べると記されています。

画像:夜鷹 月岡芳年。publishing domain

対して夜鷹は、江戸時代の屋台の代表的な食べものである蕎麦一杯と同じ値段で、約350円という安さでした。
このことから「夜鷹蕎麦」という名が生まれたとされます。

吉原遊郭、岡場所、飯盛女、そして夜鷹といった存在は、現在の視点で見れば女性蔑視や差別の象徴とされる問題であることは否定できません。

そこで働いていた女性たちの多くは、貧困により自らの意思に反して苦界に身を落とさざるを得なかったのが実情です。

しかしながら、江戸時代の市民生活において、彼女たちは特定の役割を担っていたと言えます。その実態を知り、歴史的な背景を理解することは、現代を生きる私たちにとっても大切なことではないでしょうか。

※参考文献
『日本史深堀り講座』 青春出版社刊 2024.11
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

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