上野万太郎の「この人がいるからここに行く」 脱サラして福津市津屋崎で体験型ビール作り工場を開いた「ミチクサ醸造所」の江藤夫妻
「muto」で以前ご紹介したペン画アーティスト日高あゆみさんから先日連絡があった。
「津屋崎で素敵な若いご夫婦が脱サラして小さなビール醸造所を作られたんです。ご本人と話していたら是非万太郎さんに紹介したくなったので・・・」と。
「なになに、若い夫婦が脱サラして津屋崎でビール作りを始めたって?それは是非見てみたい」と「だったら私が連絡してみますよ!」
話はとんとん拍子で進んで2月の休日に工場見学に行ってきた。
工場は津屋崎海岸からすぐ近くにある数十年前に閉館された旅館「玉乃井」の中にあった。築100年以上になる建物は部分的に改築され、現在はいくつかの事業主に賃貸され再利用されているそうだ。
駐車場に着くと素敵な笑顔で「はじめまして~~」と迎えてくれのは江藤彰洋さんと瑶子(ようこ)さんの2人だった。
夫、彰洋さんについて
さて、今回の主人公をご紹介しよう。まずは夫、彰洋(あきひろ)さん。北九州市八幡西区生まれ。大学時代までを八幡で過ごし、卒業後は東京でシステムエンジニアとして仕事を始めたそうだ。その後自分の未熟さ故に取り返しのつかない過ちを犯してしまい、あらゆることを根本から考え直すようになったという。
そこからは意図して複業的な働き方をするようになり、食材の販売や福祉、Webサービスや人材系など、多岐に渡るベンチャー企業の中で泥臭く新規事業の立ち上げに携わった。どんな未来を描いて誰にどんな価値を届けるのか、今思えば、事業もビールも本質的には何も変わらないからとても有益な経験だったという。
「贖罪(しょくざい)というわけではありませんが、多少なりとも社会に貢献できていたと思います。ただ、自分が見ている半径1mの世界自体は何も変わっていかなかったことに葛藤がありました」と彰洋さん。
彰洋さんは目の前の仕事を精力的にこなしながらも、ここままじゃいかん、もっとするべきことがあるはずだとずっと思っていたそうだ。
妻、瑶子さんについて
妻の瑶子(ようこ)さんと彰洋さんは東京で知り合った。瑶子さんは大分県中津市出身。高校と大学時代を福岡市で過ごした。その後東京の会社に就職。保育関係の仕事に就いたが、一時期体調を壊して食の大切さを考えるようになったそうだ。
「それ以来、食と人の関わりに興味が湧いてきて、転職した後は飲食店で働いたり社員食堂でご飯を作ったりと食に関わる仕事をしていました。ずっと暮らしや仕事が入り混じった丁寧な生活がしたいと思っていたんです。『しあわせのパン』という大泉洋さんと原田知世さんの映画があるのですが、それを観てすごく共感して、その後の人生にすごく影響を受けました」と瑶子さん。
そんな二人が東京で出会い、生きること・働くことについて同じような人生観を持っていることに気づき結婚することに。
「美味しいご飯や料理、そして食卓が好きだったので、それに関わる仕事をいつか福岡に帰って夫婦で始められたら良いね、と話すようになっていました」という。
衝撃的に美味しいビールとの出会い
元々ビールが大好きだった彰洋さんだが、ある日、東京で一つのクラフトビールと出会った。
「野菜関係の仕事もしていたので、たくさんの野菜料理と触れる機会がありました。そんな時にビックリするくらい美味しくて感動したクラフトビールと出会ったんです」
- どんなビールだったのですか?
「甘くて華やかな香りが広がって、気付けば脳内が幸せな気分になるようで、一口飲んでみるとフルーティーで濃厚なんですよ。もうこれまで飲んだビールとは全然違うものでした。それ以来クラフトビールにハマっていろんなビールを飲みました。そして、いつかビールの仕事がしてみたいと考えるようになったんです。それからビールについて一生懸命勉強をしました。」
- ビール製造の研修はどこでされたのですか?
「色んな醸造所で学ばせて頂きましたが、主に島根県にある醸造所に研修に行きました。ビールの仕込みは毎日行うものではなく月に2~3回のところが大半なんです。しかしそこは日本では唯一無二の小ロット生産をしているところで、1日に2度も仕込むほど。回数を重ねて仕込む経験を積みたかったので、そこで主に学ばせていただきました」
彰洋さんは、ビール工場での研修の他に、ビアテイスターという知識とテイスティング能力を推し量る資格試験に合格したのもこの頃だったそうだ。
工場の物件探し
さて、ビールを作るには技術やノウハウもさることながら場所が無ければ始まらない。そしてその物件探しは大変時間がかかったそうだ。
-場所を決めるにあたってのイメージはあったのですか?
「暮らしの延長で仕事を作り、仕事の延長に暮らしを作る。そんなことを考えていたので、住んでいる町の近隣内で開業することは決めていました。そして、ものづくりをする以上は自分たちの心が動く場所で開業したいという思いがありました。物件探しから確定まで、結果的に3年近くかかりましたね」
-縁があった「旧玉乃井旅館」との出会いとは?
「東京から大阪を経てふたりで福津市に引っ越して来たばかりの頃、玉乃井さんで開催された『惑う』という映画の上映会に参加してすっかりここが気に入ってしまったんです」と彰洋さん。
さらに瑶子さんも「津屋崎海岸から数10mで2階や玄関先から海が見えるロケーション、さらには1901年創業の老舗旅館だった玉乃井さんの築100年になる建物の雰囲気や、歴史的なストーリーを感じることが出来て、『私たちが大切にしたいことが詰まっている』と心が動いた物件でした」
- 「玉乃井」は賃貸されていたんですか?」
「いえ、それが保存会の方々が管理されており時々関係者で利用されているだけで、賃貸はされてなかったんです。保存会メンバーの中に知人がいて、私たちが物件探しをしていることを知っていてくれたこともあり、賃貸での提供を検討され始めたタイミングでお声がけいただきました。その結果、約40年前に閉館された旅館の中でビール醸造所を開設することができました。まさか本当に玉乃井でビールが作れるなんて!今では私たちの他にデザイン事務所や本屋さんが活動されています」
クラウドファンディングへの挑戦
- 2022年4月からクラウドファンディングによる資金調達に挑戦されていますね。
「金融機関からの借入を中心に3,300万円ほど用意をしてスタートしました。しかしコロナ禍によりいろんなことが延び延びになって開業スケジュールが変更になりました。それに加えて円安による為替損の波が一気に押し寄せてきました。工場設備の機械が輸入品なので結構影響があり資金計画が苦しくなって開業そのものが危うくなったのです。そんな時に妻が『クラファンに挑戦してみない?』と提案してくれました」。
-結果的に大成功だったようですね。
「100万円の目標でスタートしたのですが、1ヶ月半で380万円近くの支援がありビックリしたと同時に責任も感じましたね。予定していたPR企画やイベントも中止になり、お金も時間もみるみる無くなっていくのでさすがに凹んでいましたが、皆さんの応援もあって何とか無事に開業まではこぎつけることができました」。
ビール工場の設備の輸入について
- 資金が揃ったと言えど外国から製造機械を輸入するのも大変だったそうですね。
「ビール製造を開始する上で機材の選定はとても大切なんです。実際は購入前に実物を見て確認したかったのですが、それも叶わず。くわえて機材が届いた後も、本来は海外からエンジニアの方が組み立ての指示に来てくださるはずだったのですが、リモートで遠隔指示になったりして。機材が届いて1ヶ月後にはビールを作り始められるはずが、7ヶ月もの時間がかかりました。その間、もちろん様々な面で出費がかさむので…大変でしたね」。
場所探し、資金調達、機械の手配など色々な問題や苦労を乗り越え、2022年10月、「ミチクサ醸造所」のビールは無事に発売開始を迎えることになった。
「ミチクサ醸造所」のビールはFOCと命名
ミチクサ醸造所が作るビールは『FOC』(フォク)と命名された。味の違う3種類のFOCを製造販売中だ。クラフトビールと言えば個性的で尖った特徴が一般的だが、FOCは包み込むような丸い優しさが特徴だそうだ。
- ちなみに「ミチクサ醸造所」のビールは、クラフトビールですか?
「そもそもクラフトビールという定義ってハッキリしていないんです。だから僕たちは敢えてクラフトビールとは言わないようになりました。クラフトビールという言葉を使わないことはリスクでもありますが、僕らが作るビールは、『ミチクサビールFOC(フォク)です』それで良いと思っています」
― それでは3つのFOCをご紹介してもらいましょう。
「1つ目は、ホワイトです。白桃や青りんごのようなフレッシュな香りに誘われて口にすると感じる優しい甘さ。すぐに少しの酸味がくることで、すっきりとした飲み口に。 下支えするのは、ニュージーランド産の希少品種ホップで、白ワイン「ソーヴィニヨン・ブラン」を思わせる香りにより上品な仕上がりに。 のどごしが軽いため、すぐに次の一杯に手が伸びてしまうビールです。野菜、揚げ物、魚料理、など素材の味を生かしたい日本料理におすすめ」。
「2つ目は、ブロンド。黄桃のような完熟した香りが立ち上がり、口に含むと少し甘さを感じます。すぐに苦味がおいかけてくるので、甘さと苦味が共存しながら、ちょうど良い苦味の余韻に。オーツ麦などを加えることで口当たりはマイルドに飲みやすく仕上げました。 香りや舌触り、色の濃淡などを季節ごとに変えていますので、四季をお楽しみいただけるビールです。サラダ、カルパッチョ、パスタ。 魚料理を中心に揚げ物などにもおすすめです」
「3つ目は、アンバーです。4種類の麦芽を使い配合を工夫することで、焙煎による香ばしさと麦のほのかな甘みを感じながらもボディ感が重すぎず、苦味と深いうまみを感じることができる大人な飲み口。 チョコレートとオレンジが重なりあうと、それぞれの良さが引き出されるようにローストした香ばしい麦芽に柑橘系のホップを使用することで口に含むたびに新しい発見のある飲み飽きないビールです。パン、パスタなど、肉料理を中心にスパイシーな料理におすすめです」。
説明を聞いているとどれもFOCの味だけでなく、それに合う料理やFOCのまわりで楽しむ人の笑顔が浮かんでくるようだ。
FOCが買える店、飲める店
現在、「ミチクサ醸造所」のビール、『FOC』は通信販売で直接買うことは可能だが、店頭販売されているお店は限られている。そこにも江藤夫妻のこだわりがる。
「そもそも少量生産なのでスーパーや大型酒販店にどんどん卸せるようなものでもないんです。しかし、それ以上に僕たちがこのFOCに込めた想いや味を理解してくれて共感してくださるお店の方々に取り扱って頂きたいと考えています。もちろん、FOCを仕入れて置いてくださるレストランさんも同じです。だから一軒一軒お話しさせてもらって卸先を決めるようにしています」。
そんなお店は下記の通りだ。(2025年3月現在)
酒販店は、
・ノミヤマ酒販(福岡県古賀市)
・朝日屋酒店(福岡県八女市)
・BBB&(福岡市)
・ネオラマート(福岡県福津市)
・髙橋酒店(千葉県香取市)
など。
またレストランでは、
・文化商店
・HAPPY HILL
・bekki
・山バスク
・炭とワインと日本酒 イルフェソワフ
・Pizzeria da Gaetano 大名店
・赤坂メトロ
・FIGO shirogane
・Germoglio
・ビストロ サイダ
・カーネル食堂
・あまねや
・バーガートウカ/喫茶陶花
・Cota
・Ottantotto
などで提供されている。他にも福岡県内を中心に九州や関東でも飲めるレストランがある。
卸し先のセレクトと営業方法について
- FOCの販売先の酒店や飲食店を見ると、こだわりの強い個性的なお店が多いみたいですが、どんな方法で営業されているのですか?
「今は、子供が小さく、なかなか時間が取れず出かける余裕がなくてほとんど外食には行けていませんが、卸し開始時は私たちが普段からよく行っていた大好きなお店の方に試飲してもらうことから始めてお取り扱いがスタートしました。
その後は人からご紹介いただいたり、グルメマガジンやSNSの情報、お店のホームページを見たりしています。セレクト…というとおこがましい話ですが、私たちとしても末永くお付き合いをしていきたいので、例えば店内の装飾、使用している器やカトラリー、さりげなく使われている言葉や語彙、メニューの構成、SNSやインターネット上での距離感や雰囲気などからお店の方の人となりをできるだけ深く想像して『会ってみたい!話してみたい!』と思ったお店が見つかった時には直筆のお手紙を送らせて頂いたりしています。リサーチというよりは、それくらい調べることがせめてもの誠意かなと思っている感じでしょうか。もしお店の方から手紙の返事が届いたら、サンプルのビールを持ってご挨拶に伺います。試飲して頂くことはもちろん、1〜2時間ほどお互いのことを話して双方納得した場合に限ってお取り扱い頂いています。仕入れ希望のお問い合わせが入った場合も全く同じ過程を経て双方で合意できるかどうかで判断していますね。」
営業専門のスタッフはいないので、製造の合間を縫って地道に販路拡大に努めているそうだ。しかし、出荷できる量には限りがあるので無理に広げるということはせず、現在の取引先との関係性を深めていきたいと考えているとのこと。ここにも人と人の関係性を大事にしたいという二人のこだわりがしっかり表れていると感じた。
手作りビール体験
そして、何よりも江藤夫妻が大切にしているのは「体験」だ。
「私たちは美味しいビールを届けたい気持ちと同じくらい、みなさんにも“自分でビールを作る”体験をしてほしいという想いがあります。 手間と暇をかけても工房に充満する麦芽の香り、湯気立つ鍋をかき混ぜる熱気、窓から吹いてくる海風を感じながら作ったビールは、何事にも変え難い美味しさや喜びがあることを体験・体感していただきたいのです」。
体験するのは、ビール製造の工程で、麦芽の計量と破砕、麦汁作り、比重の管理、麦汁の昇温、ホップの投入と煮沸、熱交換、酵母の投入、そして最後に清掃。あとはビールの完成を1.5ヶ月間待つ、という流れだ。
「私たちの手作りビール体験は、座学+仕込み工程の一部を体験できるというものではなく、敢えてあまり多くの情報を与えない代わりに皆さんに色々と考えてもらったり直感を働かせてもらったりしながら、準備から後片付けまで、仕込み日の全てのことを実施して頂きます。かといって、ビール作りに真面目すぎるのではなく、没入と解放の繰り返しの中から自然と生まれる雑談や余談なんかもとても大事にしています。皆さんにはビールの作り方という知識や情報ではなく、ビールを作るってどういう感じなのかという体感や心の躍動、そして何より思い出を持って帰って頂きたいと思っています」。
手塩にかけたビールって考えただけでも美味しいに決まっている。仕込みをして出来上がるまでの時間もずっと楽しめる。考えただけでもたまらない。 旅行ついでのアクティビティとして、結婚式の引き出物や乾杯に、成人祝いのサプライズ、記念日や日頃お世話になっている方々へのプレゼントなどにオリジナルビールを作る方が増えているそうだ。
「ミチクサ」とは
-「ミチクサ」とは何なんでしょう?
「ビールを作る工場ではありますが、強いて言えば『生きる活動隊』でしょうか。生活とは『生きる活動』と書いて生活と読むわけですよね。ここでいう生きるとは、熱を帯びた力強さやあたたかい何かが通っているイメージです。人の体の中に血が通っているのと同じで、私たちの暮らしの根源にはそういう熱を帯びた何かがきっと必要で。忙しい日々の中で忘れてしまいがちだけど、そんな当たり前のことを大切にしていこうとしているチームなんだと思います。ビールを作ってはいますが、利益を上げるためだけの活動にはしたくない。ビールが媒介となり食卓が楽しくなる。それと同じようにビールが媒介として醸造所と販売店がつながっていく。さらに販売店やレストランを通じて私たち『ミチクサ』もお客さんとつながっていく。単に製造と消費を繰り返すというよりは、そんな有機的な関わりを一つ一つ紡いでいけるようになれたらいいなと思っていますし、だからこそ僕らの子供だと思ってFOCというビールをずっとずっと育てていきたいのです」
― 手作りビール体験も同じ想いですか?
「はい、同じ想いです。ビールが飲みたいだけならビールを買いに行けば良いし、オリジナルという肩書きが欲しいだけなら作り手に相談の上でラベルだけ貼り替えさせてもらえばいい。そうじゃなくて、手間暇かけてご自身の手でビールを作ることで、そのビールに自らの心が通うことを体感してもらえたら嬉しいなと思っています」
「自社ブランドのオリジナルビールを作るというOEMも対応しているのですが、それもご本人にここで作ってもらうことを前提としています。お代を受け取って僕らが皆さんの代わりに作った方がもちろんお互いに効率はいいしお客さんも増えるだろうけど、そのやり方では何か大切なことを置き去りにしてしまいそうで。『ミチクサ』はそんなことに目を向けて生活や暮らしを営む活動隊でありたいですね。大変ですけど。そんなことを考えながら毎日ビールを作っています」と口を揃えて熱く語る江藤夫妻だ。
取材を通してのっけから感じたことだが、二人のビールへの想いだけでなく食事や生活やさらには人生に対する想いがとってもピュアだと感じた。こんな熱くてピュアな二人が津屋崎海岸を臨む築100年の建物である「玉乃井」で作るビール。考えただけでも飲んでみたくなる。
僕は、日頃99%車移動の生活をしているのでここ10年くらいはお酒を飲むことが年に数回くらいしかなかったのだが、今年になって意識して飲酒する場を増やしている。そのタイミングで今回の取材だったのだが、取材後に3種のFOCを入手して飲んでみた。そして、「あ〜〜、なるほどね、こういうことか」と納得した。ホワイト、ブロンド、アンバーがそれぞれ説明通りの味がして名前に込めたお二人の気持ちが伝わった気がした。
―将来的にはどんな夢がありますか?
「ビールを作ることだけが目的ではなく、ビールを媒体としてそこにはあくまでも人がいて、場所があって、会話があって笑顔があって、、、、、。そんな空間を作ることが夢ですね。まだ漠然としたイメージなのですが、それをこれから見つけていくことが夢かもしれません」と目を合わせて微笑む二人の表情が印象的だった。
そんな二人が生み出すミチクサビールFOC。良かったら一度ご賞味あれ。
店名 : ミチクサ醸造所
住所 : 福岡県福津市津屋崎4-1-13