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小雪が舞うなかでペガソを見た日:伊東和彦の写真帳_私的クルマ書き残し:#22

PARCFERME

今日の話題はスペインの至宝と評されるペガソだ。ペガソを初めて見たのは、1977年1月に開催されたTACSニューイヤーミーティングの会場だった。雑誌でしか見た記憶がない程度の私にとっては、小雪が舞うなかでの幻想的な出会いは印象的であり、いつか触れてみたい、運転したいクルマのひとつとなった。それから20年後の1996年、私は取材する立場となって、念願叶って短時間ながら湘南の海岸線で運転することができた。想いは通ずるものである。今回は、いつにも増して長文だがお付き合いいただきたい。

今、思い返してみても、1977年のニューイヤーミーティングは、日本のヒストリック展示イベントでの大きな転換期、重要な道標であったと思う。この1日を境として日本のヒストリックカーを取り巻く環境が変わりはじめ、展示会や走行会など、普段は目にすることが難しいクルマを目にする機会が増えていった。そう感じたのは私だけではないだろう。会場となった東京プリンスホテルの駐車場には132台が集まったと報じられた。

1970年代も後半になると、それまで制限されていた個人によるクルマ輸入が緩和され、国内に持ち込まれるヒストリックカーが増えはじめていた。そうはいっても、雑誌などメディアに登場することは希であり、ファンの目に触れる機会は少なかった。
そうしたヒストリックカーがガレージから外出する機会のひとつが、TACSやSCCJが催す各種のヒストリックカーイベントになった。イベントが盛んになることで、クルマに活躍の場、仲間づくりの場、レストア完成日の目標ができたといえるだろう。

1977年1月23日は早朝から小雪が舞う底冷えする日だった。悪天候のなか、どれだけのクルマが集まるのだろうかと、私たちは地下鉄の駅から会場に向かうまで不安だった。だが、ホテル前の道路には入場を待つヒストリックカーだけでなく、観覧者が乗り付けたであろうクルマが並び、そのラインナップも実に見応えあるものに思えた。

会場内に入ると、自動車専門誌の誌面に登場することさえ希なクルマが、こんなにも多く目の前に集まったものだと驚かされた。初めて実物を見たマセラティ5000やブガッティ・ブレシア、ランチア・フラミニアに目を奪われ、たくさんの356ポルシェ、ジャガーEタイプ、さまざまな年代のロールス・ロイスや米国車、フジ・キャビン……、名前さえ知らぬモデルなどなど、何でもあると思った。

続々と展示車が入場していき、どれから見ていけばいいのか、目躍り、焦点が定まらないような状態であり、私の落ち着きのなさは一種のパニックに陥ったようだった。

これはペガソと同じオーナーが展示したマセラティ5000GT。この時期にマセラティなど日本では希少種であり、ごく少数が造られた5000GTにはただただ驚かされた。
「ポルシェ356はリアエンジンだから、雪はなかなか溶けないんだなあ」、そう思いながらシャッターを押した1枚。
フジ・キャビンを見たのは、幼いとき以来だったが、シトロエンDSに牽かれてやってきたのは印象的だった。
これは白黒写真だが実物はやけに生っぽい黄色だった。旧ソ連のモスコビッチだ。

個人的なクライマックスは、小雪が氷雨に変わりかけころ、鮮やかな水色のクーペが入ってきたときだった。優美な外観にも関わらず、近くを通過した時、ギアのノイズだろうか、いかにも複雑な機械製品が動いていることを想像させる“音”を発していたことが、かすかに記憶に残っている。

私自身は、即座にその水色のクーペの名を言い当てることはできなかったが、この連載に何度も登場するI君が「ああ、ペガソだ。台数が少ないペガソが日本にあったとはビックリだなあ。(アメリカの)ボストンでも見なかったなあ」、そう呟いたことを覚えている。

人だかりがなくなったころ、やっと近寄ることができた。ネガフィルムも紙焼きも経年変化で退色しており、あの綺麗な水色がお見せできないのが残念だ。

ペガソが会場内にパークすると瞬く間に人集りができ、当然ながら私たちもその輪のなかに引き込まれ、I君からペガソの概要についてのレクチャーを受けた。彼の解説に周囲の方々も聞き耳を立てているようだった。

I君はフェラーリについての知識が豊かだったが、その彼がペガソを知ったのは、設計者のウルフレード・リカルトがアルファ・ロメオ勤務時代、レースマネジャーだったエンツォ・フェラーリがリカルトを忌み嫌っていたとの記述で、興味を持って調べてみたのが切っ掛けだったという。

現車を前にして、このような話を聞けばなおさら興味も高まるというものだ。瞬時にペガソと言い当て、さらに概要を簡単に説明できる友人が直ぐ脇にいたことが幸せに思えた。

実際、その何ヶ月後に発売された某自動車専門誌がこのペガソについての詳しい記事を掲載していたが、あの場でI君が話してくれたこと、イベントの翌週に私に書いてくれたメモの内容がほぼ書かれていたことに、ひどく驚かされた。

私がペガソに興味があると知った友人が、コレクションしていたカタログをカラーコピーしてくれた。目利きのためのクルマとある。

ペガソについては別項に記したが、リカルトが故郷のスペインに戻り、コストを度外視したかのようなメカニズムを満載して製作したグラントゥリスモである。よく、クルマのことを「宝石のように美しい」とか「時計のように精密」と記す場合があるが、この時に見たペガソのエンジンは、経験が無きに等しい私でも、正に「宝石のようであり、精密機械」のように写り、一瞬で魅了されてしまった。

私はこれ以降も数々の逸品・名品に接し、時にはステアリングを握ることを許されてきたが、この1977年に「ペガソZ-102」を目にした時ほどの衝撃を受けた記憶はない。

ペガソ計画は戦後のスペインを繁栄に導くための一大事業であったはずだが、結果からいえば計画は志半ばに終わり、生産台数はごく少ない。1977年1月にそのうちでもとびきり状態のいい1台が、その価値を熟知した愛好家の手によってスペインから東京にやってきたのである。

出会いから20年後。オーナーのお誘いを受けてペガソの取材が叶ったとき、執筆担当は20年前にドライブした経験のある上司に任せたのは当然だが、自分にもステアリングを握る機会があるだろうとの高揚感に浸りながら、大学ノートに書き付けたメモを持参してオーナーのガレージに向かった。もちろんそのメモはI君がかつて協力してくれたものだった。

まずは、オーナーのガレージで20年ぶりに対面したペガソをじっくりと観察することからはじめた。開口部をすべて開け、下回りを覗き込みながらオーナーから話を伺うと、エンジンはもちろんサスペンションもすべてに合理化や簡略化などの手法はみられず、気が遠くなるような多段階の工数をかけていること見て取れたというレストアラーの証言と、克明に記された作業明細書から理解できた。

スペインの所有者の元で長く庇護され、入手時の走行距離は1万kmにも達していなかったクルマだそうだ。日本に来てからもときおりドライブに連れ出すことはあったが、なかなか本調子が出ずにいたことから、アメリカの著名工場に送って各部の調整を受けて帰ってきたばかりとのことだった。

撮影も終わり、最後に短時間ながらステアリングを握ることができた。思い返してもその時の印象はほとんど記憶に残っていない。唯一記憶にあるのは、今まで経験したどのクルマより中身(機構)が緻密で、各操作系がダイレクトで運転者の所作に厳しいと思えたこと、そしてノンシンクロ変速機のギアチェンジの際には、ギア類のクリアランスはごく少ない印象を私は得たようで、その日の私の取材メモにはそれだけが書かれていた。

アメリカで分解したところ、まったく新品の状態が保たれていることが確認され、V型8気筒DOHCエンジンも同様で、内部の状態は新品と見紛うばかりだったと聞いた。また、エンジンはもちろんサスペンションもすべてに合理化や簡略化などの手法はみられず、気が遠くなるような多段階の工数をかけていること見て取れたという。

チューニングは完璧なはずだから、あとは慣らし走行を重ねるだけと聞いた。北から南まで日本列島の高速道路を、本当に高速で何度か往復する必要がありそうですね、そう私は戯言を口にした記憶がある。

90° V型8気筒の3.2ℓDOHCエンジン。カムシャフトはヘリカルギア駆動のため、駆動の伝達は確かだがギアノイズが避けられない。キャブレターは4基のウェバー36DCF3型だが、この時はエアクリーナーが外してあったので、なおさらメカニカルな印象を受けた。スカットルに張られたプレートには、BUILD IN SPAIN UNDER INI - RICART PATENTSとあった。

スペインの至宝と言われるわけ

1951年10月のパリ・サロンで初めてのペガソ、Z-102が一般公開された。ペガソを生み出したのはスペイン国営商業車製作会社、ENASA(Empresa Nacional de Autocamiones S.A.)で、主にトラック生産を手掛ける企業だった。その前身は、1910年から44年まで、フランスとスペインで高級車生産をおこなってきたイスパノスイザのスペイン工場であった。

同社はイスパノスイザから生産設備とスタッフを引き継いだことで、生産と技術水準は高く、精密部品も社内生産が可能だった。ペガソ計画については、「見習工に技術を習得させ、技術レベルを伝承」が初期の動機であったとされている。さらに、スペインが戦後復興のために必要な外貨を得る手段でもあった。

ウィルフレード・リカルト(Wifredo Pelayo Ricart Medina 、1897〜1974年)が開発に着手したのは1949年のことだ。前述したように、リカルトは1936年からアルファ・ロメオで設計部門を担い、レーシングチームの運営はそれ以前からエンツォ・フェラーリに委ねられていた。

リカルトは、レースでの勝利は会社の営業成績向上の手段のひとつと考えていたこともあり、レースとともに生きてきたエンツォ・フェラーリにとって、リカルトは新参の異分子に他ならなかった。だが、エンツォの意に反して、アルファ・ロメオ首脳陣はリカルトを支持し、フェラーリはアルファ・ロメオを去って独立の道を選んだ。

リカルトがアルファロメオ時代の1940年に手掛けながら、戦争によってレースで能力を発揮できなかったGPカー、過給器付き1.5ℓフラット12、ミドエンジンのティーポ512。これは1978年にアルファロメオから送られてきたクリスマスカードのイラスト。

アルファ・ロメオ時代のリカルトは航空機エンジン開発もおこなうが、大戦前という時期も禍して大きな業績を残すさぬまま、終戦後に故郷のスペインに戻り、ENASAに参加してペガソ計画を牽引した。それは技術者としての理想を追い求めた結果といえ、当時のグランプリカーに匹敵する、ロードカー離れした構造となった。

エンジンはギア駆動のDOHC総軽合金製のV型8気筒とし、2.8ℓと3.2ℓの2種の排気量が設定され、さらにレース用の最強モデルでは2基のスーパーチャージャーを備えた仕様もあった。ギアボックスは5段のノンシンクロメッシュ、リア・サスペンションはド・ディオン式でトランスアクスル方式としている。

こうしてリカルトが採用したメカニズムを見ると、フェラーリを仮想のライバルとしつつ、それ以上のメカニズムを盛り込むことで、新興勢力の訴求点としたとも考えられる。ボディ製作は外部に委ねられたが、TACSニューイヤーミーティングに現れたZ-102は、ミラノのトゥーリングが架装した軽量ボディであり、Z-102の半数がトゥリング製であったという。スペインで完成したシャシーをトラックでイタリアのミラノまで運んでボディを架装し、スペインに戻して完成させるという、国境を越えた長い組立てラインとなった。このため販売価格の約半分が架装コストに費やされたという。

ペガソはレースで活躍することはなく、この手の高性能車には不可欠な裏付けが成されなかったことから販売は伸び悩み、またENASAの思惑に反して生産台数の大半はスペイン国内に売られたことで外貨獲得の手段にはなれなかった。

加えてスペインの経済状態が上向き始めると、ENASAは需要が大きいトラックやバスへの集中を決定したためにペガソ計画は終了した。ペガソZ-102は86台が生産され、うち70台程度が現存しているといい、まだ眠っている車両もあるとも言われる。

そして20年後、念願が叶ってペガソの取材をおこなった。プロの仕事を邪魔しない範囲で、撮影データや位置を教えてもらいつつ、自分でもポジフィルムで何枚か撮影してみた。画像の品質はだいぶ違うが。

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