東京駅で売られる、最安でちっぽけな駅弁の話
今からもう30年近くも前の、証券会社1年生だった頃のことだ。
父にガンが見つかり、見舞いのために月に1~2回、帰郷していたことがある。
とはいえ故郷は滋賀県で、私は都内の支店勤務。
初任給178,000円、しかもお付き合いで様々な保険に強制加入させられるような時代だったので、手取りはわずか8万円あまりしかない。
そこから往復の交通費を月に1~2回出すのは、余りにもキツい。
そんな思いで東京駅から新幹線に乗る時、いつも眩しく見つめていたのが、駅弁売り場だった。
美味そうな牛肉、カニ、唐揚げ、おかず盛りだくさんの幕の内…。
まだ23歳の私はもちろん、ボリューミーなゴハンが大好物である。
そのためそれら弁当を手に取ると、微かな期待とともに値札を確かめる。
“1800円”
“1980円”
(そらそうだよな…)
ため息をついて、お弁当を棚に戻した。
1食1000円オーバーの弁当など、貧乏リーマンには貴族の晩飯でしかない。
できれば500円以内に納めたいと思って探してみたが、余りにも世間知らずだった。
あの豪華絢爛な駅弁売り場に、そんな物が置いてあるわけがないのに。
(仕方がない。お茶だけ買って空腹をごまかすか…)
そんな時にふと、ある商品が目に入った。
“深川めし弁当 800円”
(え?! 1000円以下の弁当があるん!)
1食800円でも十分貴族メシだったが、とにかく勤務後、疲れている時にはコメを食べたい。
サンドイッチを選んだらもう少し安く済むかもしれないが、夜ご飯と言えばコメという性分だった私は、飛びついた。
そして新幹線に乗ると、さっそくお弁当のフタを開ける。
そこには、御飯の上にただ煮アサリを敷き詰めただけの、シンプルな飯があった。
添え物の漬物が僅かにあるだけで、他には何も無い。
唐揚げも牛肉もなく、ボリューミーとはとても言えない、若い体には物足りない飯だ。
(いつかあの、豪華牛肉弁当を買えるようなビジネスマンになってやる!)
車窓からの真っ暗な風景を眺めながら、そんなことを思いアサリとコメを噛み締めた。
「まだ生きとったんか!」
その後、少しずつ稼げるようになると新幹線メシは弁当とお茶から、つまみとビールに変わっていく。
20代後半ではキオスクのゆで卵、30代では味付けうずら玉子とスルメ、40代以降は八重洲北口のデパ地下で惣菜を買い込み、ビールとハイボールで京都まで戻るのがルーティンになっていった。
そんな過日の夕方、所用で東京駅に向かい乗り換えに向かっていると、こんなサイネージを目にする。
(写真:筆者撮影)
うおおおおおおおおおおおおおお、まだ生きとったんかワレ!!
駅弁を買うという習慣をすっかり失っていたので、全く気が付かなかった。
深川めし弁当が今も、東京駅で売られていたとは…。
しかも超インフレの令和の昨今にもかかわらず、それがプライドであると言うかのように、税込みで1000円以下である。
2時間後には飲み会だが、そんな事知ったことか。
この懐かしの弁当を、久しぶりに食べたい、いますぐにでも食べたい。
そんな衝動に突き動かされ売店に飛び込むが、どこにも見当たらない。
店内を念入りに3周したが、どこにも無かった。
「すみません、深川めし弁当をどうしても食べたいのですが、どこにあるのでしょう?」
「あ、多分売り切れですね。夕方から夜にかけては、欠品になるお弁当もあるんです。申し訳ございません」
「…そうなのですね。何時くらいまででしたら、確実に手に入りますか?」
「お昼前までなら、大体のお弁当は残っています」
やむを得ずホテルに向かいチェックインを済ますと、翌朝の午前中に決まっていたアポイントを後日に変更してもらう電話をかけて、飲み会の会場に向かった。
そして帰りの新幹線の時間も変更し、朝7時に起きると東京駅を目指し、駅弁店に直行する。
そこに積まれていたのは、懐かしの深川めし弁当。
昔のままにお茶といっしょに買い込んで新幹線に乗り込むと、さっそくフタを開けた。
(写真:筆者撮影)
フキにカマボコに卵焼き…お前ら昔はおらんかったやろ!
とはいえ、あの“物足りない”ビジュアルは昔のままで、ただただ、煮アサリをご飯に敷き詰めただけだ。
あまりにも懐かしい弁当に箸を入れ、ひとくち口に運ぶ。
(あれ…?おかしいな。めちゃめちゃうめえ…)
甘味噌で炊き上げた煮アサリ、煮くたばってるのに香りを失っていない生姜…。
ただそれだけのメシをガツガツと口に放り込んで、お茶で流し込む。
昨日の酒がまだ残っているのに、まったく箸が止まらない。
遠い記憶の香りが、鼻の奥をくすぐる。
牛肉や唐揚げを食べたい、物足りないと悔しい思いをしていた記憶が、鮮明に蘇る。
(なんでだろう…悔しい想い出メシのはずなのに、すごく懐かしい)
気がつけばあっという間に完食し、車両は静岡を走っていた。
快晴に輝くキレイな富士山が、微かに滲んでいるような気がした。
「足るを知る」
一つ思うことがある。
令和の現代社会では、「好きなものを腹一杯食えるのは、実は贅沢なこと」という感覚を学ぶのは、もはや難しいことなのかもしれない。
昭和の子供たちは皆、いつも腹をすかせていた。
ステーキや寿司など特別な日のごちそうであり、すき焼きの肉は兄弟で奪い合って食べた。
自然、お茶碗にゴハンひと粒でも残すなどということはなく、残そうものなら親からメチャメチャ怒られる文化があった。
しかしいつしか、寿司は100円になり、牛肉は魚よりも安くなり、スーパーにはごちそう食材が安価に山積みされるようになった。
街には食べ放題のすき焼きやステーキ店まで現れ、子育て家庭でも無理なく、子供を外食に連れていき、お腹いっぱいにしてあげることができる時代になった。
それが幸せなことであるのは、もちろん間違いない。
しかしそのことが皮肉にも、「好きなものを腹一杯食えるのは、実は贅沢なこと」という感性を学びづらくしているのではないのか。
“ごちそう食材”が安く大量に溢れているのだから、それを大事だと思う感性も、生産者さんに対する感謝の想いすらも、失われつつあるのではないのか。
「知足者富(足るを知る者は富む)」とは、中国古代の思想家・老子の残した言葉だ。
「足るを知る」ということわざの語源になった教えで、「満足を知れば心豊かに生きられる」という意味である。
好きなものを腹いっぱい食べられることが普通であり、贅沢でもなんでもないと感じてしまえば、もはや「足るを知る」ことは難しい。
その結果、大量の食材を廃棄し、社会の持続可能性を心配しているというのは、もはや滑稽でしか無い。
仕事がうまくいった時、家族の記念日、年に1度の家族旅行…。
そんな時にはもちろん、美味そうな牛肉、カニ、唐揚げ、おかず盛りだくさんの幕の内弁当で華やかに旅行を楽しめばいい。
しかし普段の出張や移動では、深川めし弁当でもじゅうぶん美味しく、そして贅沢なのではないのか。
「コメを食べたい」と願う若き日の私を安価に満たしてくれた、深川めし弁当。
「足るを知る」を思い出させてくれた、最高の朝ご飯だった。
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【プロフィール】
桃野泰徳
大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。
主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など
結局、今も豪華牛肉弁当や唐揚げ弁当は一度も買ったことがありません。
だってビールのおつまみにならないんですもん…。
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