トノバン再評価の幕は上がったばかり!音楽家・加藤和彦の偉大なる足跡を辿ってみよう
ここに来て再評価が進んでいる加藤和彦
平成なら小室哲哉、つんく♂、織田哲郎、YOSHIKI、令和では米津玄師、常田大希……。演者としても、作家としても、プロデューサーとしても活躍し、それぞれでヒット曲を持つ音楽家はそういないが、そのパイオニアが加藤和彦と言えるだろう。
英国のフォークシンガー、ドノヴァンを好んでいたことからも “トノバン” の愛称で慕われた加藤はファッションや食の世界にも精通。文化人としてもトレンドセッターであり続けたが、活動範囲があまりにも多岐にわたったことで、その姿が捉えにくかったのか、これまで功績の割に語られる場面が少なかった。そう指摘したのは、サディスティック・ミカ・バンド以来の交流があった高橋幸宏である。
“トノバンって、もう少し評価されても良いのじゃないかな”
高橋のこの言葉が起点となって、加藤の音楽人生を追ったドキュメンタリー映画『トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代』が没後15年にあたる2024年5月に公開された。それに合わせる形で2枚組CD『The Works of TONOBAN〜加藤和彦作品集』や書籍『あの素晴しい日々 加藤和彦、「加藤和彦」を語る』が発売されるなど、ここに来て再評価が進んでいる。
7月に東京・渋谷のBunkamuraオーチャードホールで開催された『加藤和彦トリビュートコンサート』には加藤を敬愛する7組のアーティストが出演。ライブレポート『テレビ初独占放送!【加藤和彦トリビュートコンサート】あの素晴しい夜をもう一度』に記した感動のステージが9月29日(日)22時から歌謡ポップスチャンネルで放送されるが、そのあと24時から同じ歌謡ポップスチャンネルで、彼の代表曲を集めた番組『Re:minder SONG FILE「加藤和彦セレクション」』が放送されることが決定した。本稿ではそのラインナップを中心に、加藤の軌跡を振り返りたい。
北山修らとザ・フォーク・クルセダーズを結成
1947年、京都市で生まれた加藤は父親の転勤に伴い、少年期は逗子、鎌倉、東京・日本橋で生活。1965年、龍谷大学に合格して京都に戻る。高校時代に米国のフォークソングと出合い、大学入学後に12弦ギターとバンジョーを購入。雑誌『MEN’S CLUB』の読者欄を通じてフォークを一緒にやる仲間を募集する。その呼びかけに応じた北山修らと結成したのが、ザ・フォーク・クルセダーズだった。
とはいえ彼らはプロを目指していたわけではなく、音楽はあくまで趣味の延長。実際、フォークルは関西のアンダーグラウンドシーンで活動したのち1967年10月に解散する。しかし運命のいたずらか、解散記念に自主制作したアルバム『ハレンチ』に収録された「帰って来たヨッパライ」(作詞:フォーク・パロディ・ギャング、作曲:加藤和彦)がラジオで評判となり、各レコード会社からメジャーデビューの話が持ち込まれる。
当初は乗り気でなかった加藤だが、当時の大学は学園紛争の真っ只中。授業がほとんどなかったこともあって、加藤と北山は新メンバー、はしだのりひこを迎え、新生フォークルとして1年限定の活動を行うことにする。
1967年12月25日に東芝EMI(現:ユニバーサル ミュージック)から発売された「帰って来たヨッパライ」は、1968年からランキングの公表を開始したオリコンのシングルチャートで登場3週目に1位を獲得。5週にわたって首位を独走し、オリコン史上初のミリオンセラーとなった。分業制の歌謡曲が主流で、レコード会社の力が圧倒的に強かった1960年代、昨日までアマチュアだった学生バンドの自作曲がメガヒットを記録したのは極めて異例のことであった。
1曲売れたら次も―― となるのは世の習い。映画『帰って来たヨッパライ』にも主演するなど、時代の寵児となったフォークルは、やはり『ハレンチ』に収録されていた北朝鮮発祥の曲「イムジン河」をセカンドシングルとして新たに録音する。しかし、政治的配慮からレコード会社がリリース直前に発売自粛を決定。その代わりに急遽制作されたのが「悲しくてやりきれない」(1968年 / 作詞:サトウハチロー、作曲:加藤和彦、編曲:ありたあきら)であった。加藤いわく、パシフィック音楽出版(現:フジパシフィックミュージック)の会長室に軟禁されて3時間ほどで作ったそうだが、同曲もチャート6位をマークするヒットとなった。
伝説のアルバムとなった「ぼくのそばにおいでよ」
当初の予定通り、デビュー後1年でフォークルを解散した加藤はソロ活動に移行。1969年12月にアルバム『ぼくのそばにおいでよ』を発表する。もともと2枚組にする構想だったが、レコード会社の意向で1枚にさせられたことに対する抗議文をインナースリーブに掲載したことが話題となった伝説のアルバムである。既成概念に捉われず、常に新しいことに挑戦し続けた加藤らしい意思表明で、今なら自身のSNSに投稿するところだろう。それがレコードジャケットのインナーに印刷されたのは加藤の才能をレコード会社も認めていたからに違いない。
普遍的なメロディメーカー加藤和彦
その才能はアーティストとしてだけではなく、作家としても抜きん出ていた。同時期、女性フォークデュオのベッツイ&クリスに提供した「白い色は恋人の色」(1969年 / 作詞:北山修、作曲:加藤和彦、編曲:若月明人)がチャート2位の大ヒットを記録。その後も以下のヒットを重ねていく。
▶︎ ベッツイ&クリス「花のように」(1969年 / 最高9位 / 作詞:北山修、作曲:加藤和彦、編曲:青木望)
▶︎ アグネス・チャン「妖精の詩」(1973年 / 最高5位 / 作詞:松山猛、作曲:加藤和彦、編曲:馬飼野俊一)
▶︎ 竹内まりや「不思議なピーチパイ」(1980年 / 最高3位 / 作詞:安井かずみ、作曲:加藤和彦、編曲:加藤和彦、清水信之)
▶︎ 岡崎友紀「ドゥー・ユー・リメンバー・ミー」(1980年 / 最高18位 / 作詞:安井かずみ、作曲・編曲:加藤和彦)
▶︎ 伊藤つかさ「夕暮れ物語」(1981年 / 最高9位 / 作詞:安井かずみ、作曲:加藤和彦、編曲:清水信之)
▶︎ 岩崎良美「愛してモナムール」(1982年 / 最高25位 / 作詞:安井かずみ、作曲:加藤和彦、編曲:清水信之)
▶︎ 武田久美子「噂になってもいい」(1983年 / 最高14位 / 作詞:来生えつこ、作曲:加藤和彦、編曲:清水信之)
▶︎ 飯島真理「愛・おぼえていますか」(1984年 / 最高7位 / 作詞:安井かずみ、作曲:加藤和彦、編曲:清水信之)
▶︎ 石川秀美「あなたとハプニング」(1985年 / 最高8位 / 作詞:安井かずみ、作曲:加藤和彦、編曲:奥慶一)
▶︎ 西村知美「わたし・ドリーミング」(1986年 / 最高3位 / 作詞:安井かずみ、作曲:加藤和彦、編曲:武部聡志)
▶︎ 高岡早紀「悲しみよこんにちは」(1989年 / 最高15位 / 作詞:真名杏樹、作曲・編曲:加藤和彦)
▶︎ Wink「いつまでも好きでいたくて」(1994年 / 最高19位 / 作詞:秋元康、作曲:加藤和彦、編曲:門倉聡)
提供先が女性シンガーに偏重しているのは優雅で洒落た作風との相性がよかったからだろう。上記はほんの一部で、今で言うサウンドプロデューサー的な立場で編曲を担当した「結婚しようよ」(1972年 / よしだたくろう)や「春夏秋冬」(1972年 / 泉谷しげる)なども含めると関わった作品数は膨大。何度もカバーされて、今ではスタンダードソングとなっている曲が多いことから、加藤が普遍的な音楽センスの持ち主であったことが分かる。
あまたのアーティストがカバーするキラーチューン「タイムマシンにおねがい」
スタンダードソングとしては、フォークル解散後、盟友の北山修との連名で発表した「あの素晴しい愛をもう一度」(1971年 / 作詞:北山修、作曲:加藤和彦、編曲:葵まさひこ)や、サディスティック・ミカ・バンドの「タイムマシンにおねがい」(1974年 / 作詞:松山猛、作曲:加藤和彦、編曲:サディスティック・ミカ・バンド)も挙げられよう。前者は教科書にも掲載された合唱コンクールの定番曲、後者はあまたのアーティストがカバーするキラーチューンとなっている。
話を加藤のキャリアに戻そう。ソロ活動に転じた彼は英国滞在中にロンドンポップに刺激を受けて、1971年、当時妻だった福井ミカ、ドラマーのつのだ☆ひろ(当時の表記は “角田ひろ” )とサディスティック・ミカ・バンドを結成。翌1972年にシングル「サイクリング・ブギ」でデビューする。つのだ脱退後、小原礼(ベース)、高橋幸宏(ドラムス)、高中正義(ギター)を迎えたミカ・バンドはファーストアルバム『サディスティック・ミカ・バンド』(1973年)を発表。そのアルバムが英国で注目されたことから、セカンドアルバム『黒船』(1974年)はビートルズやピンク・フロイドを手がけた英国の音楽プロデューサー、クリス・トーマスがプロデュースを担当した。前述の「タイムマシンにおねがい」は『黒船』収録曲である。
ロキシーミュージックの英国ツアーのオープニングアクトを務めたミカ・バンドはBBCの音楽番組に出演するなど、海外で高い評価を受けるが、1975年に解散。再びソロとなった加藤は自身のアーティスト活動や楽曲提供と並行して、プロデュース業にも本格的に進出。泉谷しげる、坂口良子、岡林信康、宮本典子、梓みちよ、中山ラビ、大空はるみ、吉田拓郎、西田ひかるなど、ジャンルの異なるアーティストのアルバムを多数プロデュースした。
公私にわたるパートナー、安井かずみとの “ヨ-ロッパ三部作”
自身の活動ではR&B、サンバ、ボサノバ、レゲエ、カリプソ、スカ、シャンソン、タンゴ、ルンバなど、海外の音楽のエッセンスを採り入れた先進的な楽曲を次々と創作。ソロ活動再開後の第1弾シングル「シンガプーラ」(1976年 / 作曲・編曲:加藤和彦)の作詞を手がけた安井かずみと1977年に再婚すると、公私にわたるパートナーとして、多くのコンビ作品を発表する。その金字塔が “ヨ-ロッパ三部作” と呼ばれる以下のアルバムであった。
▶︎『パパ・ヘミングウェイ』(1979年 / 最高67位)小原礼、高橋幸宏、坂本龍一、大村憲司らが参加
▶︎『うたかたのオペラ』(1980年 / 最高10位)細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一、矢野顕子、大村憲司、岡田徹、松武秀樹、清水信之らが参加
▶︎『ベル・エキセントリック』(1981年 / 最高48位)細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一、矢野顕子、大村憲司、松武秀樹、清水信之らが参加
1980年代の加藤は村上龍原作の映画『だいじょうぶマイ・フレンド』(1983年)や、薬師丸ひろ子主演の角川映画『探偵物語』(1983年)の音楽監督を務めるなど、劇伴の世界でも才能を発揮。前者の主題歌「だいじょうぶマイ・フレンド」(作詞:安井かずみ、作曲:加藤和彦、編曲:清水信之)は映画キャストの広田玲央名(現在は“広田レオナ”)、乃生佳之、渡辺裕之との4者競作となったことも話題を呼んだ。
1989年上演のYOKOHAMAスーパーオペラ『海光』の音楽を手がけたことで、三代目 市川猿之助(二代目 市川猿翁)からの信頼を得た加藤は1990年代以降、スーパー歌舞伎の音楽も担当。2人とも反骨精神に溢れた革命児という共通点があったことから意気投合したようで、歌舞伎とオーケストラを融合した加藤の舞台音楽は大いに評判となった。
桐島かれん、木村カエラを迎えてアルバムを発表したサディスティック・ミカ・バンド
“同じことは二度やらない” 主義の彼はフォークルやミカ・バンドを再結成したときも過去とは違うアプローチの活動を展開。ミカ・バンドは加藤、小原、高橋、高中を主軸としつつ、1989年の再結成時には桐島かれんを、2006年の再々結成時には木村カエラをボーカルに迎え、アルバムも発表した。トリビュートコンサートで上演された「Big-Bang Bang!(愛的相対性理論)」(作詞:松山猛、作曲:加藤和彦)は第3期ミカ・バンドのアルバム『NARKISSOS』収録曲で、加藤によると1日で書き上げたという。
2009年10月に加藤が旅立ってから15年。一連のプロジェクトのきっかけを作った高橋幸宏も2023年に不帰の人となってしまったが、その想いはあまたのミュージシャンに受け継がれ、先日の盛大なトリビュートコンサートに繋がった。トノバン再評価の幕は上がったばかり。その偉大な足跡の一端を『Re:minder SONG FILE「加藤和彦セレクション」』で触れていただければ幸いである。
Information
歌謡ポップスチャンネル「加藤和彦 トリビュートコンサート」
2024年7月15日にBunkamuraオーチャードホールで開催されたコンサートをテレビ初独占放送!
加藤和彦 トリビュートコンサート
▶ 放送日時
・2024年09月29日(日) 22:00〜深夜0:00
・2024年10月19日(土) 深夜1:00〜3:00
▶ 出演
・小原礼、奥田民生、田島貴男、高野寛、坂本美雨、ハンバート ハンバート、GLIM SPANKY
▶ バンドメンバー
・高田漣、白根賢一、伊賀航、ハタヤテツヤ
Re:minder SONG FILE「加藤和彦セレクション」
▶ 放送日時
・2024年09月29日(日) 深夜0:00〜1:00
・2024年10月19日(土) 深夜3:00〜4:00
▶ 選曲
・濱口英樹