人気DJ・秀島史香が語る、人とつながっている安心感をもらえるラジオの魅力。
ややハスキーで心地よい“キレイな声”で聴く人を魅了する、人気DJ・秀島史香。DJやナレーション、読み聞かせといった声を使ったキャリアの原点はやはりラジオだった。声のエキスパートを育んだ自身のラジオライフについて、いつもの調子で話し始めた。
孤独な少女を救ったアメリカのラジオ
オシャレで都会的、どこか未来感すら感じたFMラジオ。その引力に、オレたちは自然と引き寄せられ憧れ続けた。“オシャレな”FM局の代表格、J-WAVEが放送を開始したのが1988年。そう考えるとFMカルチャーは昭和50年男たちの思春期、青春期をまさに直撃していたことになる。秀島史香はそのムーブメントのど真ん中で人気を誇ったDJのひとりだ。彼女はどのようにラジオと出会い、話し手として育っていったのだろうか。明るく軽やかなイメージがある秀島だけに、ラジオとの出会いもさぞ、華やかなものかと思いきや、意外にも“寂しさ”が出発点だったという。小学生時代を思い出しながら、秀島はこう話し始めた。
「小学校6年生の時に父の仕事でアメリカに引っ越しまして、そこで初めて一人部屋をもらったんです。英語もわからないし、一人で部屋にいるとやっぱりちょっと寂しかったですね。そんな寂しさからラジオをつけるようになり、人の声ってホッとするな、という気持ちが生まれました」
日本にいた頃はテレビの音楽番組や2歳年下の弟のマンガやゲームカルチャーに夢中で、ほぼラジオとは縁がなかったという秀島。アメリカでラジオを耳にすることで少しずつ英語を身につけ、ラジオは暮らしに欠かせないものになっていく。
「アメリカでは自分から意識しないと友達ができない。そうするとやはり言葉のノリやあいさつのタイミング、自然な声の出し方が大事なんですよ。なので、たとえば『グッドモーニング!』ってどう言っているのだろうと考えながらラジオを聴いていました。『billboard TOP40』は当時からあって、よく聴いた番組。その時代を生きる人々が何を愛しているかというのはまさに時代の鏡。私にとっては学校のみんなが好きなものを自分の耳で知ることができる場所、それがラジオだったんです」
80年代のアメリカといえば、華やかなロック全盛の時代だ。幼き日の秀島もその熱狂に引き込まれていった。
「ガンズ・アンド・ローゼズにボン・ジョヴィ、そしてもちろんマイケル・ジャクソン。あの時代の音楽ってとてもカッコよく、いかにもアメリカという感じがいいですよね。みんなで歌える曲も多かったですし。クラスで誰かが、ふと歌い始めると、みんながそれに合わせ盛り上がるんですよ。私も一緒に歌ってみると『わかってるじゃん、フミカ』みたいな感じになって仲間に入れるようになったんです。小さな取っかかりなんですが、当時の私にとってすごく大切な出来事でしたね」
ラジオに救われた少女はその後、成長し、大学入学時に日本に帰国する。
「将来は外交官になりたいという大きすぎる夢をもって政治学科に入ったんですけれど、周りには志の高い人がたくさんいて、『本当に自分にできるかな?』という現実の壁にぶつかっていました。ラジオは帰国後も聴いていましたが、その時は仕事にするなんて思っていませんでした」
当時、秀島はアルバイトで通訳の事務所に入り、放送の現場にも出入りしていた。そんななか通訳事務所の先輩がすすめてくれたのがDJという仕事だった。
「先輩には『英語がしゃべれるんだったら有利だし、オーディション、公募もあるみたいだから調べてみたら?』と言われました。職業としてのラジオDJなんて全く夢にも思ってなかったんですよ。キラキラまぶしくて、そもそも仕事として本当に存在しているのかと思っていましたし。そんななかで、学生のラジオDJコンテストがあることを知り応募しました」
このコンテストで賞を獲ったことがきっかけになり、現在も所属するプロダクションのFM BIRDと出会うことに。ついにDJ・秀島史香が誕生する。
「FM BIRDに入って最初の仕事は大阪のラジオ局FM802のDJでした。『FUNKY JAM’S 802』というド深夜の番組をレギュラーとして週に1回やらせていただきました。大学3年生の時ですね。本当、よく採っていただいたなって思います」
女子大生DJとしてデビューした秀島だが、最初は苦労が絶えなかったと話す。
「大阪はカルチャーがあまりにも違いすぎました。オシャレでカッコいい、心地よいFMの放送にずっと憧れていた人間だったので、大阪の気風や文化に圧倒さたんですね。やっぱり、大阪は話がおもしろくてナンボという文化。オチがないってよく怒られたものですよ(笑)。一応、自分がおもしろいと思ったことを話すんですけど、うまく着地できない。もう『ギャー!』って感じですよね。当然のことなんですが、おもしろい話じゃないと人は耳を傾けてくれない。そんなラジオの基本中の基本に気づかされましたね」
思っていたような華やかなDJデビューではなかったが、秀島はこの大阪の地で、話し手としての礎を築いていく。
「大阪ではいろいろなことを教わりました。ぽっとスタジオに入って好きなことをペラペラ話すだけじゃ、やっぱり誰も喜んでくれないとか。大阪が最初の職場だったのは本当によかったと思っています」
そしてついに、秀島がJ-WAVEでマイクの前に座る時がやってくる。大学4年次にJ-WAVEのレギュラーが決まったのだ。
「4年次の時に週1回の番組を担当して、大学を卒業すると週5のレギュラーをいただきました。意気揚々と社会人デビューをするわけですが、新人から上手くできるわけはありません。レギュラーを毎日やるのは大変でしたね。今日終わったと思ったらまた明日はやってきて、さぁ何を話そうみたいなことがほぼ毎日あるという…。J-WAVEでも相当鍛えられました。毎日話すためにいろいろなところに出かけてアンテナを張るようになりましたし、小さなことに目を向けるようにもなりました」
当時のJ-WAVEといえば放送開始から約10年が過ぎ、放送局としてのブランド力を高めていた頃だ。ラジオDJとして名を馳せていたレジェンドたちにも、お世話になったと秀島は振り返る。
「クリス・ペプラーさんやジョン・カビラさん、ロバート・ハリスさん。女性DJの大先輩というか、雲の上の人だったキャロル久ひさすえ末さん、ルーシー・ケントさん。そしてクリス智子さん、南美みぶ 布さん… リスナーとしても好きな方ばかりでしたが、先輩としてもすごくよくしてくださってお酒の飲み方も社会人としての在り方も教えていただきました。『今日こういう失敗しちゃったんですよ』と言うと、『大丈夫大、大丈夫』とやさしく返してくれたりね。今も先輩方との交流は続いていて、ご飯を食べることもあるんですけれど、皆さんとお会いする時間は今でも夢のような感じですね。まだJ-WAVEが西麻布にあった頃なんですよね。あの界隈のお店もよく教わりました」
ターニングポイントとなる『GROOVE LINE』
FMの歴史を築いたレジェンドたちに激励を受けながら、秀島は自身の代表番組と言える『GROOVE LINE』に出演することになる。90年代中盤からパーソナリティとして個性を発揮していたピストン西沢の相棒としての大抜擢だった。
「それまでピストン西沢さんとはほぼ交流がなかったので、何を話したらいいんだろうというところから、まずスタートしました。ピストンさんはすごく自由奔放なスタイル。『足手まといにならないかな、大丈夫かな?』と常に思っていましたね。新人にとっては本来、進行表どおりに進めたり、ルールを守っていく方が楽なのですが、『GROOVE LINE』はパーソナリティありきの番組で、まさにピストンさんのワールド。最初は戸惑いましたよ。放送でもメールアドレスを読むだけみたいな状態で、何も仕事できてないなぁと、すごく落ち込んだこともありました」
3時間半の公開生放送で、しかも目の前にはピストン西沢。さらに“超”がつく大物ゲストが毎回登場…まだまだ駆け出しのDJだった秀島は思い悩むことも多かったと言う。しかし、そんな秀島を助けたのは相棒、ピストン西沢の言葉だった。
「ピストンさんは『もっと自由でいいんだよ、秀島』と言ってくださって、本当にいろいろなことを教えてくださいました。『もっと肩の力抜いて思ったことをバンバン言えばいいんだよ、そのままでいいんだよ、それがラジオだよ』と。私もおそるおそるですが、ラジオってこういうものなんだとわかるようになり、少しずつ素を出せるようになっていったんです」
『GROOVE LINE』で話すことで、秀島は次第にDJとしての殻を破り、人気パーソナリティとして成長していく。このことを秀島は“解放”という意外な言葉を使って説明してくれた。
「『GROOVE LINE』は大きなターニングポイントだったと思いますね。それまで勝手に自分を縛っていたものからの、まさに“解放”でした。自分のなかで勝手に型や理想みたいなものを考えてしまっていたんですね。どんなお仕事でもきっと理想はあると思うんですが。でも、それって本当にお客様に、リスナーに喜んでもらえているかな?そんなことを考えられるようになれたんです。あの番組のエピソードは尽きませんが、ラジオでリスナーみんなとどうやって遊ぶか。それがピストンさんの〝イズム〞だったと感じます。リスナーと同じ時間を過ごす、楽しむ、それってラジオの原点だと今も思いますし、そういうことを吸収できた、とてもありがたい10年間でした」
こうしてラジオの話し手としても人間としても大きく成長した秀島は、以降もDJ、ナレーターとして活躍を続けてきた。今は地元でもあるFm yokohamaの『SHONAN by the Sea』でその美声を響かせている。
「地元を歩いていると、『もしかして秀島さんですか?』なんて声をかけていただくこともあるんです。声でわかりましたと言ってくださる方もいてうれしいですね。今の番組は日曜の朝ですし、気持ちが上向く時間でありたい。今日も悪くない一日になるという心地よさをもっていただきたい。そんな小さな変化があればいいなと思って話をしています」
最後に秀島は今、ラジオDJとして大切に感じていることをこのように語ってくれた。
「共感することが大事だと思っています。日々、いろんなことが起きる。しんどいこともありますよね。そういうメッセージに、こちら本位だけでリアクションをしないようにと思っています。ラジオは私だけのものではない。聴いてくださっているリスナーみんなのもの。誰かとつながっているという安心感をまず感じていただきたいんですよね。なので、最近は〝言わないこと〞の大切さも感じています。聴いている人への余白を残す。言わないことを大切にすると、一人ひとりのためのラジオになる気がしているんです。若い時は、話せば話すだけわかってもらえるだろうなんて思っていたけれど、年をとったからかこんなことを考えてしまっているんですよ(笑)」
冒頭で述べたように昭和50年男にとってFMラジオは憧れの世界だったし、それは今も変わらない。でも、秀島の話を聴いていると煌びやかなだけではないFMラジオの、また別の一面が浮かび上がってくる。FMは人と人とをつなぐ場であり、心と心を結ぶ大きな糸なのだ。今、一人ぼっちの部屋でラジオのスイッチをつけた小学6年生の少女の姿を想像する。きっとその寂しげな少女にも秀島史香の透明な声と、やさしい想いが届いているはずだ。