「親に売られて吉原に」逃げようとした遊女に課せられた残酷な罰とは
燃え盛る炎から逃げ惑う人々、市中に響く半鐘の音という場面から始まったNHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』。
この火事は明和9年(1772)2月29日に起こった「明和の大火」で、死者は約1万4,700人、行方不明者は約4,060人とされている大規模なものでした。
明和の大火以前にも吉原が巻き込まれる火災は起きていて、明和5年(1768)に吉原が全焼してから慶応2年(1866)までのおよそ100年ほどの間に、18回は廓が全焼したという記録も残っているそうです。
そのなかでも、少なくとも10回は劣悪な吉原の待遇に耐えきれなくなった遊女による放火だったといわれています。
「廓勤めは苦界(くがい)10年」といわれる辛い生き地獄に耐えきれず、足抜け(脱走)を試みる遊女は少なくありませんでした。
そのため、遊女を逃さないための策や、掟破りの遊女への罰はそれは厳しいものだったのです。
幼女の頃に親に売られ吉原に
遊女のほとんどは貧しい家に生まれ、およそ5歳〜10歳くらいの頃、親に売られて吉原に連れて来られていました。
当時、建前上は「人身売買禁止」だったので、親が「娘がこれからもらう給料を前倒しで受け取り、吉原に奉公に出す」という体裁で証文を交わしたのです。
売られた幼女たちは「禿(かむろ)」と呼ばれる見習いから務めを始めました。
ちなみに禿と呼ばれるのは「下の毛がまだ生えていない子ども」だからそうです。
楼主はそんな禿たちを観察し、年齢・容姿・素質などをみて将来性のある子は「引き込み禿」として花魁にするための芸事を仕込んでいました。
そして引き込み禿は遊女見習いの「振袖新造」となり、17歳ごろになるとお披露目を行い「水揚げ」(初めて客と寝所にて接すること)を迎えることになっています。(時代や遊郭などによっても異なります)
引き込み禿になれなかった子は留袖を着た「留袖新造」となり、15歳から客を取るようになります。禿は出世するに伴い、格や揚代(料金)が」異なる遊女になっていきます。
およそ2,200人ほどの遊女が
ドラマで蔦屋重三郎が「蔦屋次郎兵衛店」を間借りし、本屋「書肆耕書堂」を営むようになった安永2年(1773)ごろは、およそ2,200人以上の遊女がいたようです。
日本橋にあった元吉原が、明暦の大火(1657)後に浅草に移転してできた新吉原は、1.5倍ほどに拡大、およそ東京ドーム2個分ほどの規模になりました。
吉原からの脱走を阻止するための手段
広い敷地の新吉原は、周囲を囲むように「お歯黒ドブ」(※)と呼ばれる溝が設けられていました。
※お歯黒ドブ:遊女たちが、使ったお歯黒の汁を捨てたところから名付けられた
日々体を売ることに耐えられなくなった、馴染みの客と恋に落ちた、置屋の待遇に我慢できなくなったなど、さまざまな理由で遊女たちが吉原から脱走することを阻止するため掘られたそうです。
妓楼にとって、遊女の足抜けは管理不足を問われる大事件。さらに、禿から一人前の遊女にするまでには長い年月とお金がかかっているので、なんとしても連れ戻そうと必死でした。
逃亡対策は「お歯黒ドブ」の設置だけではありません。
遊女は「一切、門から外には出られない」という掟があり、変装した遊女の脱走を防止するために通行口である吉原大門のそばに、四郎兵衞会所という見張り場を設けていました。
そして、吉原の仕出し料理で働く人・髪結い・常磐津の師匠ほか遊女以外の女性は、出入りの際「遊女ではない」証として引手茶屋が発行する「女切手」を所有し、出入りする際には四郎兵衞会所でチェックを受けていたのです。
遊女の足抜けを手伝うほうも必死でした。
高い壁を越える手助けをしたり、お歯黒ドブに渡し板をかけたり、あの手この手で知恵を働かせて逃亡に協力していたようです。
「足抜け遊女」を待ち受けるのはひどい折檻
足抜けした遊女は楼閣の男衆が必死で探し回るために、ほとんどの場合は3日以内に連れ戻され、仕置きという名前の凄惨な折檻を受けました。
「手足を縛って放置する」「裸にして木に縛りつける」「食事を与えない」などはまだ軽いほうだったそうです。
行燈を収納する物置「行燈部屋」が拷問部屋として使われ、先の割れた竹の棒で気絶するまで叩くなど、凄惨な折檻を与えていました。
吉原では、遊女は楼閣の「所有物」。
基本的に、仕置きは必要なもので従わなければ暴力で支配するべき……というまったく人権を無視した考え方だったのです。
呼吸が止まるまでくすぐる「くすぐり責め」
遊女への折檻のなかには、顔や肌に折檻の跡が残らないようにするために「くすぐり責め」というものがありました。
足抜けした遊女を裸にして手足を縛り、置屋のものたちが筆や羽などでよってたかってくすぐり続けるというもの。
長時間くすぐられて笑い続けた遊女は、呼吸困難になり気絶することもあったそうです。気絶すると水をかけ意識を取り戻させてまたくすぐり続ける……という狂気じみた折檻で、やられるほうにしてみては想像を絶する辛さだったでしょう。
煙で攻め続ける「いぶし責め」
そして、拘束した遊女の前で焚き火を燃やしその煙で息苦しくさせる「いぶし責め」という折檻もありました。
焚き火は枯れ草や木などだけではなく、唐辛子やニラなど刺激が強い材料を混ぜ込んでいたそうです。
目・花・喉に刺激性の強い煙が入り込み粘膜が刺激され、呼吸困難になりさぞかし苦しかったでしょう。
厳しい折檻で死んだ遊女が幽霊に
『街談文々集要』(文化7年/1810/巷の話題を書き記したもの)という資料によると、「吉原中万字屋や抱えの妓を葬る」という記事があります。
文化七年、中万字屋妓を葬る。十月末の事なり。
「この妓が病気にて引込居たりしを、遣り手仮初なりとて、折檻を加へしに、ある日小鍋に食を入て煮て喰んとせしを見咎め、其鍋を首にかけさせ、柱に縛り付て置しかば終に死しけり。其幽霊首に小鍋をかけて廊下に出るよし沙汰あり。」
中万字屋は実在した店のことで、名妓・玉菊で有名でした。
原文を意訳すると、
「文化七年の十月に中万字屋の遊女を葬った。病に冒されたその遊女のことを仮病だと思った遣り手婆が折檻をする。
食べ物を与えてもらえなくなったため、その遊女は客が食べ残したものを集めて小鍋で煮て食べようとしたが見つかってしまう。遊女は、その小鍋を首にかけさせられて柱に縛り付けられて放置され死んでしまった。その後、中万字屋の廊下には小鍋を首にかけた遊女の幽霊がでるようになった。」
という内容です。
こんな酷い扱いを受けたら、置屋を恨んで幽霊になり現れても当然でしょう。
その後、文化7年(1810)に中万字屋ではその遊女の法要をしたとのことです。
折檻の凄まじさに少女4人が投身自殺をする悲劇
遊女に対する酷い折檻が行われていたのは、江戸の吉原だけではありません。
1826年(文久9年)には、大坂安治川新堀の遊女屋の少女4人が、姉女郎の折檻される姿を見て、その凄まじさに衝撃を受けたのか将来を悲観したのか、投身自殺するという痛ましい事件も起こっています。
そのほかにも、劣悪な環境の中で満足に食事も与えてもらえず、無理に客をとらされ続け、労咳(ろうがい/結核)に冒されるもの、梅毒にかかりそのまま進行していくもの、妊娠し荒っぽい堕胎術で子を堕ろし体を壊すもの……若くして人生を終えた女性は少なくありませんでした。
そんな地獄の生活に耐えかねて、1894年には遊女16人が置屋に放火した後に自首するという事件も起こっています。
最後に
遊びに訪れる側、遊女を買う側にとっては非日常的な楽園のようにみえる吉原も、売る側にとっては辛く苦しい場所でした。
身請けされ大門を出ていく女性、年期明けで自由の身になり好きな男と晴れて世帯を女性などもいましたが、過酷な日常で体や気持ちを蝕まれたまま生き続けることができなくなった女性も少なくはなかったのです。
花魁コスプレなどが面白おかしく話題になる現代。
吉原の華やかなイメージの裏に隠された凄惨な歴史は、現代を生きる私たちが知っておくべき事実の一つでしょう。
参考:
『三大遊郭 江戸吉原・京都島原・大阪新町』堀江宏樹
『江戸の色町 遊女と吉原の歴史』安藤優一郎
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部