つんく♂も認めるアイドルに。大手鉄鋼メーカー辞め、日本武道館ライブを成功させた話。名古屋のご当地アイドル先駆け。
スタジオパーソルでは「はたらくを、もっと自分らしく。」をモットーに、さまざまなコンテンツをお届けしています。
今回取材したのは、名古屋発のエンターテイメントグループ・BOYS AND MEN(通称:ボイメン)のメンバー、田村侑久さん。新卒で大手企業に就職し、3年間勤務したのちに退職。そこから3年間、無給で白米だけでしのぐ極貧下積み生活が始まりました。苦しい中でも毎日朝晩のビラ配りを続け、やがては武道館や名古屋ドームなどの大舞台に立つまでになります。
今も地元・名古屋を拠点に活動を続ける田村さんに、「はたらいて、笑おう。」を実現するために積み重ねてきた努力と、困難に立ち向かうためのマインドについて取材しました。
歌もダンスも下手すぎるライブ。なのに涙が止まらなかった
──田村さんはどんな学生時代を送っていましたか?また、いつから芸能界に興味を持ったのでしょうか。
小学生のころは、「トカゲになりたい」と言うような変わった子でした(笑)。目立つことが好きで、芸能界へあこがれを抱き始めたのは高校生のころです。でも、高校3年生の進路相談の時に先生から「君のこの成績ならいい会社に行ける。芸能界は必ず売れるとはかぎらないんだから絶対やめたほうがいい」と言われてしまって。大手企業への推薦も決まっており両親も喜んでいたので、先生に言われるがまま、芸能界に行くことをあきらめました。
当時はまだSNSが流行する前で芸能界の世界を目にする機会も少なかったし、名古屋に住んでいる自分が芸能界で活躍できるとも思えなくて。周りにも馬鹿にされるんじゃないかと、それ以降、誰にも夢を語ることはなかったですね。
──高校を卒業して企業に就職をされたとのことですが、どんな仕事をしていたんでしょうか。
芸能以外にやりたいことも特になかったので、推薦を受けた大手鉄鋼メーカーに新卒で就職しました。鉄の製造に携わる仕事で、作業もシンプルで職場環境もすごく良かったんです。でも、ふと「この景色を50歳になっても見続けるのか?」と。毎日同じ仕事をして、休日はちょっとお酒を飲んで、また出勤して……。「やりたいことをせず、ただ時間だけが過ぎていく人生はやっぱり嫌だ」と強く思うようになりました。
だけど、芸能人になるには何をしたらいいかわからないし、周囲の目が気になって夢を口にはできないし。会社を辞めたところで今より良いところに行ける保証もないし……。この言葉にできない葛藤を抱えながらはたらく日々は地獄のようでした。
──そこから名古屋発のエンターテイメント集団「ボイメン」に出会ったのは、どんなきっかけが?
新卒で入社して3年が経ったころ、たまたまボイメンのメンバーのブログを見つけたんです。「芸能人になりたいと思っている割には、まだ生で見たことがないな」と、彼らのライブを観に行ってみることにしました。
正直、公演が始まってすぐは見に来たことを後悔していました(笑)。歌も演技も下手すぎて、「ぼくの大事な有給とチケット代が……」って。
でも、なぜか最後は涙があふれたんです。ボイメンのパフォーマンスは本当に下手だったけど、ただただ、全力だった。本気で夢を追いかける姿に心を打たれました。
彼らは汗だくになって、本気の目をして、芸能の世界に体当たりしていた。なのに、ぼくはここに座っているだけ。「夢をあきらめ、3年も動かずに一体何をしていたんだろう?」と強く思いました。「ダンスや歌のレッスンを経験していないから無理」「東京ではなく、名古屋にいるから無理」。そんなふうに自分で言い訳をつくって、逃げていただけだったんですよね。
公演を見終わったあと、「ぼくにはボイメンしかない!」と気持ちが一気に高まりました。当時、ボイメンのように地方で活躍する男性グループはほかにほとんどなかったんですよ。ボイメンはアイドルというより、全力で人に勇気を与えてくれるエンターテイメント集団。ぼくは人前に出ることが好きで芸能人になりたかったので、ジャンルは関係なかったんです。
そうして、ライブを見た翌日には上司へ退職することを伝えました。
──翌日に……!?行動力がすごいです。会社を退職することを上司に伝えた時点では、ボイメンに入れるかどうかも分からなかったんですよね?
はい。でも、悩んで言い訳ばっかりして、一歩も踏み出せていない自分にもやもやしながらはたらいていたこの地獄の3年間に比べたら、たとえ1日おにぎり1個の生活になったっていい。それでも、ボイメンに挑戦するほうが自分はずっと幸せになれると思えたんです。
──では、まったく不安や葛藤などはなかったのでしょうか?
ほとんどなかったです。ただ、一つだけ引っかかっていたのは父の存在でした。とても厳しくて、お給料や安定した生活を大切にする人だったので「会社を辞めた」なんて絶対に言えなかった。だから、夢をつかむまでは父とは会わないことを心に決めました。
白米を恵んでもらう下積み時代。チラシ配りの達人から名古屋ドームへ
──会社を辞めてから、ボイメンに加入できた経緯を教えてください。
応募方法がよく分からなかったので、直接ライブ会場へ履歴書を持って行きました。オーディションにふさわしい写真もなかったので、封筒には成人式の集合写真を何枚も入れましたね(笑)。社長っぽい人を見つけて、「入りたいです!」と履歴書を渡して、そこから連絡が来るまで毎日事務所に電話しました。最初はまだ合否が出ていないからと電話を切られていましたが、「そんなに言うなら……」と最後はぼくの熱量に事務所も圧倒されて(笑)。2011年にボイメンへ加入することが決まったんです。
──夢をあきらめずにアタックし続けたことが、ボイメンへの加入につながったんですね。グループに加入してからはすぐにライブなどの活動が始まったのでしょうか?
いえ。最初はチラシ配りや、選抜メンバーが公演する会場の掃除から始まりました。下積み時代の3年間は無給で、バイトも禁止。自分で選んだ道なので、どうしても親には頼りたくなかった。貯金を切り崩しながら、なんとか食いつないでいましたね。
会社員時代の同期が住んでいた寮が白飯だけ無料だったので、タッパーに入れてもらい、その白米を9分割して食べていました。おかずがない日がほとんどで、贅沢してもたまに卵を買うくらい。そんな生活が続きました。
ただ、不思議とつらくはなかったんです。「メンバーの中でどうやったら勝てるか」だけを考えていました。下積みの3年間はライブにも出られず、自分よりかっこいい子や、歌やダンスがうまい子も多くて。そんな中で、自分だからできることは何か考えた末にたどり着いたのが「チラシ配りでファンの数を増やすこと」でした。
そこから、誰よりもチラシ配りを極めようと心に決めて、朝も夜もチラシを配りまくりました。「100人に配って無視されてもいい。一人でも手に取って、ファンになってもらえたら」と、強い信念を持って取り組んでいましたね。
見た目が怖い人には声のかけ方を変えてみたり、ちょっとした手品を用意して驚かせたり、ローラースケート履いて配ったりと、常に試行錯誤していました。旗を掲げて、自転車で走りながら配ったこともあります。
──あらゆる工夫をしながらチラシ配りを続けて、受け取り手の反応に変化はありましたか?
徐々にボイメンや、ぼくのファンになってくださる方が増えていき、街中で「ボイメン知っているよ!」と声をかけらることも増えました。ぼく自身も最初はゼロからのスタートでしたが、チラシ配りで多くの方と直接接してきたことが実を結び、加入して3年後の2014年に行った「メンバー人気ランキング」ではありがたいことに1位を取るまでになったんです。
下積み生活も3年を超えてきたあたりから、グループ活動にも希望が見えてきました。ボイメンに加入した当初、ぼくは裏方の仕事しかしていませんでしたが、加入して3年を超えてから徐々に表舞台に立つ機会も増え、グループの一員として本格的に活動するようになりました。その後、グループ全体で数多くのイベントに出演し続けた結果、当時ではまだ珍しかった「ご当地男性アイドルグループ」としてボイメンがメディアに取り上げられる機会も。そうした努力が積み重なった結果、2015年には名古屋にある日本ガイシホール、2017年には日本武道館、2019年にはなんと名古屋ドームで公演を開催することができたんです。
ガイシホールで公演をするタイミングで、ついに父にもボイメンの活動のことを伝えました。給料も父に安心してもらえるくらいにはなっていたし、公演では父が大好きな中日ドラゴンズの応援歌も歌う予定だったので、今しかないと思ったんです。伝えた直後は驚いていましたが、「自分の決めた道を進みなさい」と、背中を押してくれました。今では一緒にお酒を飲むほど仲良しなんですよ。
夢は声に出して、自分で信じ抜く。小さな一歩も、積み重ねれば未来が変わる
──厳しいお父さまも認めるほどの活躍を遂げる一方で、名古屋ドーム公演以降、総勢10名いたメンバーのうち5名 が脱退しています。葛藤を感じた瞬間もあったのではないでしょうか。
ボイメンをはじめた当初は「このメンバーで一生一緒にやっていくんだ」と信じていたので、仲間が一人、また一人といなくなりメンバーが減っていく現実は、やっぱり心がえぐられましたね。これからどうなるんだろうと不安になる瞬間もありました。
それでもぼくがここまでやってこられたのは、周りの方への「感謝」があったからです。事務所の方の期待にうまく応えられない時期もあり、「向いてないのかも」と辞めたくなることも正直何度もありました。ですが、その度にファンの方や支えてくれているスタッフ、仲間たちへの感謝の気持ちが自分を奮い立たせてくれたんです。ぼくの人生を変えてくれたボイメンへの感謝の気持ちも、何よりもの原動力でしたね。
──ボイメンとして「はたらく」中で、大切にしていることはなんですか?
全力でいることです。ボイメンは自分たちが全力で汗をかいて、がむしゃらに頑張ることを大切にしているグループです。その姿を通じて、誰かの背中を少しでも押してこられたから、今日まで愛されてきたのだと思っています。実際にぼくも、最初にボイメンを見た時にその全力さに心を動かされた一人なので、次は自分も全力であり続けたいんです。
もう一つ大切にしているのは、ボイメンを"地元の兄ちゃんたち"のような、いつでも帰れる"家"のような存在にしていくこと。ぼくとしては、ファンを辞めた方も、グループを卒業したメンバーも、帰りたくなった時にいつでも戻ってこられる場所にしたいと思っています。
「15年も続いている地方のグループは、ボイメンくらいじゃないか」と音楽プロデューサーであるつんく♂さんからもお言葉をいただいたことがあります。1日続けるごとに、その歴史は更新されていく。メンバーと地道にコツコツ活動を続けて、ボイメンの名前をこれからも守っていきたいです。
──最後に、 スタジオパーソルの読者である「はたらく」モヤモヤを抱える若者へ、「はたらく」をもっと自分らしく、楽しくするために、何かアドバイスをいただけますか?
もし今、やりたいことがあるけど一歩踏み出せないなら、ぜひ周りに宣言して、自分で自分が歩みたい道を信じてみてほしいです。
ぼくも、「芸能界で活躍したい」という心の声に正直になって、前職の人や今の事務所の社長に想いを伝えました。そして、いつか父親に胸を張って伝えたいと思っていたからこそ、覚悟が決まったんです。そうして今の自分にできる最大限の努力を積み重ねるうちに、応援してくれる大切な人たちにも出会えました。
本気で挑戦した先にたとえ失敗したとしても、きっとその時のあなたの周りには手を差し伸べてくれる人がいるはずです。どんなに小さな一歩でも、たゆまぬ努力があれば世界は変わっていくと思います。
(「スタジオパーソル」編集部/文:朝川真帆 編集:いしかわゆき、おのまり 写真:朝川真帆 )