「ありがとう」を言う側から言われる側へ~全盲のシンガー 佐藤ひらりさん
ファッションデザイナー:コシノジュンコが、それぞれのジャンルのトップランナーをゲストに迎え、人と人の繋がりや、出会いと共感を発見する番組。
佐藤ひらりさん
2001年、新潟県三条市生まれ。生まれながら全盲で、9歳の時に身体障がい者の音楽支援コンサート「ゴールドコンサート」で歌唱・演奏・観客賞を受賞。2014年にミニアルバム『なないろの夢』でデビューし、東京2020パラリンピック開会式では国歌を独唱しました。今年3月に武蔵野音楽大学を卒業し、現在本格的にプロとして活動中。。
出水:ひらりさん、素敵なお名前ですね(^^) ジュンコさんとひらりさんの出会いは?
JK:私キラー通りのGMでしょ? そこの会長さんがお連れになったの。もうハキハキしてびっくりして! すごくいっぱいお話ししたわね。
佐藤:話したいことがたくさんありすぎて(笑)
JK:この歳の差でも話が合うんですよ(笑)
出水:東京2020パラリンピックの開会式で「君が代」を独唱しましたが、当時は大学生ですよね? 今、当時のことをどう記憶していますか?
佐藤:国立競技場で国歌を歌うことは私の8年越しの夢だったので、東京で歌うって決まった時には会場で珍しいくらい緊張しながら(^^;)支えてくれた人に恩返しができるという気持ちで歌いました!
JK:私もTVで見ましたよ! でも無観客でしたよね。
佐藤:はい。無観客でしたが、「君が代」の前奏が始まる時、自衛隊の方が国旗を運ぶ掛け声と行進がまた緊張をかき立てるんですよ!
JK:ああ、そうですか! かえって状況が見えるわね。
佐藤:あと「君が代」ってすごく難しい歌で、日本の古くからの言葉をちゃんと伝える、っていうのも大変でしたね。「さざれ石」は一つの言葉だから、「さざれ/石の」と切っちゃいけない、とか。
出水:なるほど! そんなこと考えたこともなかった(笑) どういった経緯でひらりさんのところにお話がいったんですか?
佐藤:実を言うと、東京招致が決まった時から、震災の避難所で歌う時だろうと、学校コンサートだろうと、「パラリンピック、オリンピックで国歌を歌うのが夢です」ってずっと言い続けてきたんです。でも最終的にはオーディションで受かった。
出水:それは面接と歌と?
佐藤:はい。ただ私のことを事前に調べてくださってくれたみたいで、「ひらりさんって美空ひばりさんの歌を歌うんですよね」って言われて、「川の流れのように」を1フレーズ歌ったり(笑)2020年のオーディションだったので、翌年4月ぐらいに「キャストに決まりました」と連絡が入って、フィッティングとか衣装合わせがありまして・・・でもまだ国歌とは言われてなかったんです。
JK:あら、そうだったんですか!
佐藤:まさかダンスではないよね?と思いながらフィッティングに行ったら、何ができるかみたいなオーディションがもう1回あったんです。そこで「アメージンググレイス」を歌ったら、そこで「ああ、この人は国歌だな」って満場一致で決まったそうです。
JK:けっこう時間かかってますね!
出水:当時はコロナ禍の状況だったから、開催そのものも危ぶまれましたもんね。先ほど美空ひばりさんのお話が出てきましたが、小さいころの原点なんですか?
佐藤:私の目が見えないということを知った時から母はずっとCDとか音が出る楽器を身の回りにおいてくれたんですが、5歳の時に保育園の電子ピアノから自動演奏で流れてきた美空ひばりさんの「川の流れのように」を聴いて、私が目を上にあげてハッと聞き入るような顔になったのを先生が気づいてくれて。それから母がひばりさんのCDを買ってくれて、ひばりさんが大好きになりました。何を歌ってもひばりさんのようにビブラートかけて歌ってたくらい(^^)その後老人ホーム慰問の新聞広告に母が電話して、慰問に行って。そこから5歳で人前で歌うようになりました。
JK:5歳で! それは感動でしょう! こんなに小さい子が、それも目が見えなくて。
佐藤:老人ホームがなかったら私は歌ってないなと思うんですけど、それまでは私がいろんな人に「ありがとう」「ごめんなさい」って言う側だったのに、老人ホームでは「上手だったよ、また来てね」「ありがとう」って言ってもらえたことが嬉しくて・・・! 子どもながらに嬉しかったし、母も嬉しかったし、歌うことが恩返しになるんだって気づいたのがその時です。
JK:いやだもう・・・(T.T)本当に感動したからですよ!
出水:9歳の時に「ゴールドコンサート」で史上最年少で歌唱・演奏賞、観客賞を受賞していますよね。その頃から歌の世界で、とおぼろげながら思ってたんですか?
佐藤:観客賞はお客さんの投票で決まる賞なんです。だから審査員の方からも、お客さんからも良かったと言ってもらえて嬉しかったですね。でもあの時は何もわかってなくて、あのコンサートがコンテストだってことも分かってなかったので、ジャンプしながら「行ってきま~す!」受賞して「やったぁ~!」みたいな、そんなノリでした。楽しいし、ありがとうって言ってもらえるし、それ以外に道はないなっていう理解でしたね。
出水:初めて曲を作ったのはいつごろ、どんな曲ですか?
佐藤:曲まで行かないような、思ったことを歌にするようなのは5歳のころからやってたと思うんですが、初めて1番、2番と歌詞がある曲を作ったのは小学校3年生から4年生になるころ、東日本大震災がきっかけです。TVやラジオでは想像もつかないような状況がずーっと放送されていたじゃないですか。こんな状況でも私にできることはないかなと母と相談して・・・まだ歌の作り方も、構成の仕方もわからなくて、作文を書くように歌詞を書くところから始まったんですよね。「途中の暗闇でも・・・」と始まって、「過去・現在・未来、みんな歩いてゆけるよ」、そのあと探しあぐねていたら、「こころの目を開いたら/明るいみらいが待っているから」という歌詞が浮かんできました。
出水:当時9~10歳でその感性! その曲「みらい」は自費製作して、売り上げは震災遺児のみなさんに寄付していますが、ひらりさんご自身の案ですか?
佐藤:私は「何かしたい」だけだったんですが、「この曲いい歌なのに、CDないの?」って言ってくださった方がいて、「CDを作るんだったら寄付できたらいいよね」って母が言ってくれて。そこからいろんなところで歌い、手売りして、1000円のCDから3か月で100万円貯まって・・・手渡しで寄付しに行く前の日に、みんなからいただいた100万円がどのぐらいの厚みか、どのぐらいの重みがあるのか、母が触らせてくれたのを鮮明に覚えています。遺児の人たち思いをたくさん聞かせてもらった上で、渡してきました。
JK:能登半島も歌ってね。
佐藤:はい、能登半島の地震でも歌いました。9月に保育園に電子ピアノを寄贈して、小中学校でも歌いました。
出水:被災した皆さんと触れ合う機会もあったと思いますが、どんな感想をもらいましたか?
佐藤:最初はこの「みらい」を引っ提げて、東北全県、被災した場所に行かせてもらったんですね。「自分だけ生きていいのか」と思っていた人も、「もうちょっとがんばって生きてみようと思った」「明るい未来が見えました」という言葉をもらいました。
JK:ひらりさんの歌を聴いて、希望が湧いたんですね。
出水:本格的に音楽を学ぼうと思ったのはいつごろですか?
佐藤:点字で音楽が勉強できる学校に行きたいと思って、高校の時に初めて東京に来て、筑波大学付属の盲学校の音楽コースに進学して、点字の楽譜も、音楽理論の授業もがんばってました。その時は声楽コースに進んだんですけど、私はクラシックよりも曲作りを学ぶべきだ、と気づいて。民族音楽とかもやりたかったけど、武蔵野音楽大学の作曲コースに進みました。本当に楽しかったです!
JK:先生はどういう風に教えてますか? 障がいを持つ方もいらっしゃるの?
佐藤:作曲コースは私だけですけど、ピアノとか歌とか演奏コースにはいらっしゃいます。作曲コースは私だけで、電子音で打ち込みみたいに曲を作る授業もあって、私にはパソコンのソフトは難しいので、ちょっとカリキュラムを変えてiPadでもできるように教えてもらったり。そういうことのおかげで歌も作りやすく、デモテープも送りやすくなっています。
出水:同じような志を持つ同級生と会えたことも嬉しかったんじゃないですか?
佐藤:私たちの学年は恵まれず、最初コロナでオンラインから始まったので、1年生のつながりが全然なくて(^^;) コロナのせいで学校に行けなかったので、私は教室移動をずっと覚えられなくて。なのに毎回私を教室に連れて行ってくれた方もいたので、どこまで厚くて優しいんだ!という方に出会えたのも嬉しかったですね。
(TBSラジオ『コシノジュンコ MASACA』より抜粋)