自分の街、がなくなった ─萩原 朔美
—老体からは逃げられない。でも笑い飛ばすことは出来る—
萩原 朔美さんは1946年生まれ、11月14日で紛れもなく77歳を迎えた。喜寿、なのである。本誌「スマホ散歩」でお馴染みだが、歴としたアーチストであり、映像作家であり、演出家であり、学校の先生もやり、前橋文学館の館長であり、時として俳優にもなるエッセイストなのである。多能にして多才のサクミさんの喜寿からの日常をご報告いただく、連載エッセイ。同輩たちよ、ぼーッとしちゃいられません!
連載 第13回 キジュからの現場報告
10代の終わりは、新宿が自分の街だと思っていた。ビザールというジャズ喫茶でボーイのアルバイトをした。大きなスピーカーでモダンジャズを聴かせる店だ。バイトの先輩には北野武がいた。「ビートたけしのみんなゴミだった」という本(飛鳥新社)で、新宿のジャズ喫茶には永山則夫や中上健次がいて、
「萩原朔美もいたし、若松孝ニプロんところの助監督もいた。」
と書いている。ゴミの1人だったのだ。(笑)キーヨ、ジャズビレッジ、ビレッジゲート、木馬、DIG。ジャズ喫茶に行く事が若者の行動スタイルとして先端的でカッコよかった。
渋谷は、演劇実験室・天井桟敷が、並木橋にあったから、20歳代の私が毎日通い詰めた場所だ。劇団の向かいにアマンドがあって、寺山さんはそこで競馬新聞の原稿を書き、バイク便の人がよくとりにきていた。
退団後、パルコから月刊ビックリハウスを出版した。事務所は、当初パルコ店内にあった。編集作業が終わってから毎晩のように渋谷を徘徊した。時には原宿まで歩いて、カルデサックで飲んだ。店によく村上春樹がいて雑談した。行きつけの店を増やす事が楽しくて仕方がなかった。間違いなく、渋谷は自分の街だと思っていた。渋谷の匂いが好きだった。
ふと気がついた。いつの間にか、新宿も渋谷も他人の街になってしまっていた。なんの親しみも感じられない。アンドロイドが行き交う合成樹脂の街。
歳を重ねるという事は、街が自分から遠くへ去ってしまう事なのだ。
よし、これからまた自分の街を作ろう、と思う。多分、自分の街は静かな地方にあるのではないか。そう感じている。
第12回 渡り鳥のように、4箇所をぐるぐる
第11回 77年余、最大の激痛に耐えながら
第10回 心はかじかまない
第 9 回 夜中の頻尿脱出
第8回 芝居はボケ防止になるという話
第7回 喜寿の幕開けは耳鳴りだった
第 6 回 認知症になるはずがない
第 5 回 喜寿の新人役者の修行とは
第4回 気がつけば置いてけぼり
第3回 片目の創造力
第2回 私という現象から脱出する
第1回 今日を退屈したら、未来を退屈すること
はぎわら さくみ
エッセイスト、映像作家、演出家、多摩美術大学名誉教授。1946年東京生まれ。祖父は詩人・萩原朔太郎、母は作家・萩原葉子。67年から70年まで、寺山修司主宰の演劇実験室・天井桟敷に在籍。76年「月刊ビックリハウス」創刊、編集長になる。主な著書に『思い出のなかの寺山修司』、『死んだら何を書いてもいいわ 母・萩原葉子との百八十六日』など多数。現在、萩原朔太郎記念・水と緑と詩のまち 前橋文学館の館長、金沢美術工芸大学客員教授、前橋市文化活動戦略顧問を務める。 2022年に、版画、写真、アーティストブックなどほぼ全ての作品が世田谷美術館に収蔵された。