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プランター下のミミズ採集からルアー釣りへ 田舎の川で育んだ釣りの知識と工夫とは?

TSURINEWS

プランターの下はミミズ天国(提供:TSURINEWSライター・あつ)

小学生時代の筆者は、奈良県の田舎で釣りに夢中になっていた。エサが手に入りにくい環境でも、校庭のプランター下でミミズを採集し、家の近くの川で釣りを楽しんでいたのだ。今回の記事は、そんな幼少期の釣りの経験が、現在の釣りスタイルにも影響を与えている様子を綴ったエピソードを紹介したい。

小学生時代の私の釣り生活

筆者の生まれは海なし県の奈良県である。奈良県を代表する河川の一つ大和川水系の流域で生まれ育った。そんな筆者が釣りにのめり込むのは、身近なエリアでできる淡水の釣りであった。

初めての釣りは幼稚園の年長組の時で、父親がしていたヘラ釣りのポイントに連れて行ってもらい、初めて釣りというものを体験したことが始まりであった。

そこからしばらくは時折父親に連れて行ってもらう程度であったが、行動力がつき始める小学校4年の頃にはドはまりして、毎週水曜日と休日は友達も誘って近所に陽が暮れるまで釣りをするという生活であった。

そこからはドラえもんののび太君同様に、ランドセルを置いたら「行ってきます」の流れである。

エサを確保するのも大変な田舎の釣り

田舎が故に釣りをするには少し不便な環境であった。釣りのためのエサを売っている場所がないのだ。釣りのために毎回隣町や市の中心部までエサを買いに行くわけにもいかず、ましてや小学生のお小遣いで毎回買うほどの余裕はなかった。

予備用に一つは赤スパという保存タイプのエサを確保していたが、毎回使用するわけにもいかず、エサがなくなった時は困ったものだ。

小学校は毎週水曜日が4限授業で午後は休みとなる。釣りに行ける絶好の機会である。給食後の昼休みはエサ確保の時間に当てていた。

校内の花が植えてあるプランターの下は、ミミズを確保する上で最も重要な場所で、給食後に事務所でナイロン袋をもらい、昼休み一杯かけてミミズ採集に精を出していた。

土の中のミミズを集める(提供:TSURINEWSライター・あつ)

パンも魚のエサになる

周りからは相当変わった子に見られていただろうと今は感じる。もちろんミミズが確保できない日もあったので、パン食の日の水曜日は半分ほどパンを残して持ち帰ることもあった。

筆者が住んでいた奈良県の奈良盆地周辺の河川はすべて大和川水系の河川で、その支流が自宅近郊を流れており、必然的に釣行エリアは家の近くの河川であった。

トレードマークは近鉄バファローズの赤い帽子(当時はオリックスとは別球団)を被った子と言われており、「あの川の周りに行けば絶対に居てる」と言われたほどだ。

パンがあれば魚が釣れる(提供:TSURINEWSライター・なおぱぱ)

当時はエサ釣りを楽しんでいた

当時はまだルアー釣りはしておらず、ウキでコイ、フナ、カワムツ、オイカワを狙う釣りが中心であった。ウキの流し方や筋の読み方、仕掛けの振り込みといった基本的な技術は、この時に学べたように感じる。

こういった経験が、現在中心となっているアジングやエリアトラウトなどの釣りに生きていることは紛れもない事実である。

やはり釣りが楽しければこれはクラスのみんなに伝えないわけにはいかない。小学校の休み時間に釣りの話をしていると、皆が行きたいとなり、一時期男子の間で釣りが大ブームになった時期もあった。ある意味インフルエンサー的なことをしてしまったようだ。

担任の先生に連絡帳に「釣りによく行っているようですが、危険なこともありますのでほどほどに」と何度か書かれてしまったこともある。でも止められないのだ。

初めてのルアー釣りは小学生の時

筆者の釣りのルーツは、父親に連れられて行ったヘラ釣りがスタートだ。時間が経つにつれて新しい釣りへとシフトしていくには時間がかからなかった。

小学校4年の時、父親がルアーロッドを手に入れてきた。マミヤ・オーピー(現・オリムピック)から販売されていたロッドで、当時は長さ違いで2パターンしかなかった。ミノーはバスディのシュガーミノーが2つ。

父親はこのセットでアマゴを釣る予定だったらしいが、どうもルアー釣りが性に合わないらしく、程なくして筆者の手元に回ってきた。

そこからブラックバスが釣れる場所がないかと日々探し回る日が続いた。国土地理院発行の2万5千分の1地形図を睨めっこしてため池を片っ端から調べていくのである。当時はインターネットなどはなく、自分だけの情報が頼りの時代であった。

地図にある池を順番に自転車で巡っていくのだが、奈良盆地は歴史的にもため池が多い上に、折角たどり着いても金魚の名産地が近い故に金魚の養殖池であったりすることも多かった。

やっと見つけても自宅から遠く、往復で2時間などは当たり前であった。当時のブラックバスは、幻の魚に近かったように感じる。

人生初のブラックバスをキャッチ

人生初のバスを釣りあげたのはやはり大和川水系の本流の大和川であった。コイ釣りに行ったついでに堰の水たまりにバスの姿を見つけた。

釣れそうにはなかったが、周りにいたナマズなんかが釣れればいいかと思っていたのだが……。ふと足元に落ちていたのが黄緑色のボロボロになったゲーリーヤマモトのツインテールグラブであった。

何とか手持ちのジグヘッドに刺してキャストを続けていると急に重くなった。コイがスレで掛かったかな?と考えていると、寄ってきたのは堰の上から見えていたブラックバス。目が点になってしまうとはこのことで、慌てて慎重に寄せた。

下アゴが少し怪我をしている個体であったが、約40cmくらいの人生初のブラックバスであった。写真など持ち合わせてもいなかったので記録は残せていないが、記憶にはしっかりと残せている。小学生5年の5月であった。

ブラックバス(提供:TSURINEWSライター・檜垣修平)

経験が今の釣りに活きる

初めて自分で釣りに行ってから約30年近くなるが、現在も同じことをずっと続けている。一生をかけて楽しめるものだと常々思う反面、やっていることは小学校の頃と変わりはないのである。

しかし、経験は現在の釣りにも当然活きている。例えばルアーの自塗り塗装などは、実際に見た魚と図鑑に掲載されている魚で違うこともあり、それに近い色に塗ったり、当時使っていたエサに近いようなカラーになったりすることもある。

また動植物をイメージしたカラーを塗ったりと、いろいろとアイディアが浮かぶこともある。

ヤマカガシをイメージ(提供:TSURINEWSライター・福岡崇史)

実際の釣行では特にネイティブトラウトの釣行でエサで狙う場所はどのような所が多いかというセオリーは理解しているので竿抜けはどの辺りかなど釣り残しの場所を読み取ることもできる。

またアジングではサビキの釣れているタナをジグヘッドのレンジに合わせるなど応用の技術も習得できるようになった。やはり経験というものは何物にも代えがたいものがあるなと感じる事がある。これからも釣りを続けていく限りは経験が増えていくがいつかは伝承できるようになればと思う。

<福岡崇史/TSURINEWSライター>

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