江戸一の花魁・小紫と辻斬り権八の禁断の恋 〜惚れた女に会うため130人の命を奪う
NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』で、注目されている吉原遊郭。
ドラマの時代背景は、18世紀半ばの江戸時代中期です。
吉原遊廓は徳川幕府が開かれて間もない元和3年(1617)に日本橋で設けられ、明暦2年(1656)には浅草の千束村に移転し、「新吉原」と呼ばれるようになりました。
そんな江戸中期の初め頃。
新吉原の三浦屋という妓楼に、美貌・才能ともに恵まれた「江戸で一番」と名高い小紫(こむらさき)という花魁がいました。
その小紫花魁は、なんと130人以上もの人を斬り金品を奪った辻斬りと相思相愛になり、相手の処刑後に嘆き悲しみ、自死してしまったという逸話があります。
花魁も辻斬りも実在の人物。2人を祀る碑は、現在でも残っているのです。
お江戸で一番と名高かった三浦屋の小紫花魁
元吉原が新吉原に移転した18年後の、延宝2年1674年の頃。
「お江戸で一番」と名高い、小紫という花魁がいました。
吉原のガイドブック『吉原細見図』の記録によると、小紫がいた頃より16年ほど前、万治元年の遊女の数は2208人くらいだったそうです。
三浦の小紫は、数多くの遊女たちの最上級である花魁でした。しかも、「江戸で一番の美貌」といわれるほどの美しく教養があり芸事に長けていると評判の女性だったそうです。
とくに和歌を得意とし、平安時代中期の歌人・紫式部から「紫」の一文字を取り、「小紫」と名乗るようになったといわれています。
また、小紫は美しく多才なだけではなく、非常に心根の優しい女性だったとか。
まさに、押しも押されぬトップスター花魁でした。
恋仲になった権八と小紫
そんな小紫花魁の運命の相手となったのが、白井権八(しらいごんぱち)です。
本名を平井権八(ひらいごんぱち)といい、江戸時代前期に実在した武士であり辻斬りとして知られています。
権八は明暦元年(1654)ごろ、父・平井正右衞門の子として生まれ、因幡国(いなばこく/鳥取県東部)鳥取藩士でした。
ところが寛文12年(1672)の18歳のとき、父親の同僚・本庄助太夫(須藤助太夫とも)が父親を侮辱したことに腹を立て、助太夫を斬殺して江戸に逃亡してしまいます。
江戸に出てきた権八は、新吉原で遊女・小紫と出会います。なぜ、逃亡中の権八が新吉原に行ったのかは定かではありません。
かっとなって人を斬り殺し、故郷をあとに遠く離れた江戸に出てきて人恋しくなったのか、華やかな遊郭の雰囲気に引き寄せられて大門を潜ったのでしょうか。
新吉原では、小紫のようなトップクラスの花魁に会うために宴席を設け一夜を過ごすとなると、何度も足繁く通い大金を払う必要があります。
権八は、もしかしたらまとまった逃走資金を持っていたのかもしれません。新吉原で出会った小柴に一目惚れして、三浦屋に通うようになります。
まだ十代なのに孤独な逃亡の身となった権八が美しい花魁に夢中になるのはわかりますが、なぜか小紫のほうも権八に惹かれたそうです。
何度も会ううちに、2人は遊女となじみ客という垣根を超えて、相思相愛になっていったのでした。
惚れた小柴に合うため185人もの人を斬る
いくら「お江戸で一番」と名高い花魁でも、自由恋愛は禁止。現代のように恋人同士がLINEで連絡を取り合い、どこかで落ち合うなどということもできない時代です。
権八は惚れた小柴に合うために三浦屋に通いますが、当然資金も底をついてしまいます。
楼閣に通えないのであれば身請けをするしかないのですが、人気花魁ともなると年季が明ける前の身請けは難しく、相当な大金を支払わなければなりません。
小紫会いたさが募るあまり、権八は遊郭に通う資金を調達するために、とうとう人を殺めるようになってしまいました。
すでに、父の同僚を斬り殺している平井権八。もはや、理性を完全に失い自分の欲望を叶えるためには人の命を奪うことに罪悪感など失ってしまったのかもしれません。
権八は、辻斬りや強盗で確定しているだけでも130人以上、推定では185人もの人を殺し、その金品を強奪していたそうです。
しかしながら、そんなことがいつまでも続くわけもありません。
権八は、目黒不動瀧泉寺付近にあったとされる普化宗東昌寺(現在廃寺)に身を隠し、尺八を習得して虚無僧(※)になり郷里・鳥取を訪れるも、すでに父母が死去していたことから観念して自首したそうです。
※虚無僧:剃髪ぜず半僧半俗の形態で、天蓋(てんがい)という深編笠を被り、尺八を吹きならしながら托鉢をする僧
平井権八は延宝7年(1679)に、品川の鈴ヶ森刑場にて処刑されました。享年25でした。
処刑された権八の墓の前で後追い自殺
権八処刑の報を聞いた小紫は、嘆き悲しみます。
花魁は一見見た目は華やかに見えますが、借金を返すために最長10年という年季明けまで、吉原を出ることは許されない籠の鳥のような人生を送っている身です。
惚れた権八が、自分のところに通う資金が尽き果て、辻斬りとなって金を作った挙句に処刑されたという現実に、もはや吉原で働き続け借金を返済する気力など微塵も無くなってしまったのかもしれません。
ちょうどその頃、ある金持ちから小紫に身請け話が持ち上がっていたそうです。見受けされれば吉原から解放されるのに、惚れた権八亡き後、ほかの男のものになることなど到底考えられなかったのでしょう。
小紫は、東昌寺にある権八の墓前で自害してしまったのでした。
歌舞伎などの演目として200年近く愛される
惚れた花魁に会うための資金調達に、身勝手にも185人もの人を殺め、金品を奪いまくった挙句に処刑された白井権八。
相思相愛の仲だった花魁は、それを知り世を儚み後追い自殺……この話は、浮世絵・講談・浄瑠璃・歌舞伎・映画などの作品になっています。
歌舞伎や浄瑠璃では、この話を「権八小紫物」と称し、特に「御存鈴ヶ森(ごぞんじすずがもり)」は上演頻度の高い歌舞伎の演目として200年近く愛され続けているそうです。
身勝手な殺人鬼ではありながら、それはすべて「惚れた女性に会うため」。
相手の女性は、その辻斬りが処刑された後にあとを追って死んでしまうという悲劇が、人々の関心を惹きつけたのでしょうか。
今でも現存する権八と小紫の墓
権八と小紫の墓は、現存しています。2人が一緒に眠っているのは、目黒不動尊にある比翼塚(※)です。
※比翼塚:愛し合って無くなった夫婦や男女が一緒に葬られる墓
目黒不動尊の境内には、2人を祀る比翼塚があり、「権八・小柴の秘話伝える比翼塚」の説明書きの立て看板があります。
もともとは普化宗東昌寺にあったものの、明治4(1871)年に官命により普化宗は廃止、東昌寺も廃寺となってしまいました。
その後、比翼塚は料理屋「角伊勢」の庭内に移り、その後は昭和37(1962)年に現在地に移転したそうです。
誰が建てたのかは定かではありませんが、二人の来世での幸せを祈って立てられた比翼塚。
「傾城の恋に眞こと無いとは誰が云うた まことありやこそ 今が世に目黒にのこる比翼塚」と立て看板に書かれた詩が、印象的でした。
参考:『殺人鬼・平井権八』 (新歴史観ブックス)