第31回【私を映画に連れてって!】野田秀樹、鴻上尚史、宮本亞門、上西雄大ら演劇人たちが映画を創ったら?
1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。
これまで演劇人と何本か映画を創ってきた。
俳優の仕事のメイン土俵は、演劇か映画かテレビドラマか……大別すると3つだろうか。
ぼくはテレビ局にいて主に映画製作をやってきたので、テレビディレクターと映画の関係は間近で見てきた。ただ、元フジテレビのディレクターだった五社英雄さんのように、映画界に身をおいてからは『鬼龍院花子の生涯』(1982)など堂々とした「映画監督」になった方もいる。
テレビドラマの映画化においては、キャスト、スタッフも共通のことが多くなり、ドラマでは出来なかった大きな仕掛けを制作費を費やして作ることが多くなった。キャラクター設定、ストーリーも大きく変えてしまうとドラマの映画化ではなく「オリジナル」ものに近くなってしまう。
一方、演劇の映画化はあまり多くはない。それでも、つかこうへい戯曲の映画化『蒲田行進曲』(深作欣二監督/1982)のように傑作も幾つか誕生した。
その当時、野田秀樹主宰の<夢の遊眠社>が大人気で、その中でも『走れメルス』を映画化しようとしたことがあった。舞台は、野田さんがまだ東大在学中に初演(1976)されたものだが、ぼくが観たのは第30回公演『走れメルス~少女の唇からはダイナマイト!』(1986/本多劇場)だろうか。スピード感、劇的な展開、言葉遊びとの見事なハーモニーの中で、この凝縮された異次元体験を映画で出来れば……と思ったものだ。岡田裕介プロデューサー(1988年からは東映)が熱心に野田秀樹監督映画を! と動かれていて『走れメルス』は印刷台本まで作った。映画『蒲田行進曲』は「蒲田」という松竹の撮影所聖地の名前がついているが、内容は東映の「大部屋」の俳優たちの話。監督も東映の『仁義なき戦い』などの名匠・深作欣二とあって東映色が強いが配給は松竹で、角川&松竹映画だった。
『走れメルス』の野田さんが書いたシナリオはとても面白かったが、長かった。5時間くらいのボリュームだっただろうか。演劇は映像と違い「端折る」シーンも多い。その「間」を観客に考えさせることもある。映画のように場面設定が100回(シーン)以上変わることもなかなか出来ない。シナリオは想像以上の場面展開が映像として表現されていたように思う。
野田秀樹さんと、岡田裕介さんと一緒に最後に会った時、野田さんから「短くするならあまり映画にするのは……」(表現の規制などもあったかと)というようなことで、そこでリセットした記憶がある。『走れメルス』はその後、野田さんの「野田地図/NODA・MAP」でも再演されていてやはり傑作である。今、思い起こすと、正直なところ、あのダイナミックな舞台をどのように「映画」で表現出来るかの具体はぼくには見えていなかったように思う。
▲『走れメルス』は、1976年に劇団夢の遊眠社の第2回公演として初演された。筆者は1986年に東京・本多劇場で上演された劇団の第30回公演『走れメルス 少女の唇からはダイナマイト!』を観劇。物語は、少女・芙蓉が愛用する「鏡台」を中心に、鏡の面の「こちら岸」と「向こう岸」の両側を目まぐるしく往復することで展開していく。86年の公演から18年ぶりとなる2004年にもNODA・MAP第10回公演としてシアターコクーンで再演された。画像は2004年の上演ブログラムで、深津絵里、中村勘太郎(現・六代目中村勘九郎)、小西真奈美、河原雅彦、古田新太、小松和重、浅野和之、峯村リエ、池谷のぶえら、ぞくぞくするような顔ぶれのキャスティングだった。
当時、<夢の遊眠社>と人気を二分していたのが鴻上尚史主宰の<第三舞台>。紀伊國屋ホールに『朝日のような夕日をつれて』(1987)を観に行った時が鴻上さんとの初対面だった。とても面白い舞台だったこと、彼と同い年だったこと、野田秀樹さんとの映画が無くなったこと……諸々のこともあったのか初対面なのに「一緒に映画やろう!」となった。『朝日のような夕日をつれて』の映画化も考えられたが、既に彼はオリジナルストーリーで10稿目ぐらいにもなる脚本を書いていた。そのシナリオは『引田10稿(テンコウ)』とも名付けられ、コミカルタッチで面白く読んだ。
ちょうど「シネスイッチ銀座」を1987年12月からスタートすることを決めていたので第1弾の映画『木村家の人びと』(1988/滝田洋二郎監督)に続く2弾目の邦画としてやることにした。タイトルは『ジュリエット・ゲーム』(1989)。初対面がお互い28歳で、翌年には撮影を始めていた。国生さゆり、村上弘明が主演で、演劇の人では無く、鴻上さんも初監督で、なかなか思う通りの画作りは困難だったと思う。35ミリフィルム撮影、カメラマンは巨匠の仙元誠三さん(『蘇る金狼』等)で緊張の連続だっただろう。シネスイッチ銀座ではヒットしたが、映評は賛否渦巻き、やはり「異業種人」がやった映画と言われた。
▲1989年公開の映画『ジュリエット・ゲーム』は、当時第三舞台の主宰者だった鴻上尚史の初監督作品で、村上弘明、国生さゆり、手塚理美、高橋ひとみ、橋爪功、さらに、劇団第三舞台の看板俳優だった大高洋夫、長野里美も出演していた。撮影監督を務めた仙元誠三は〝仙元ブルー〟と呼ばれる独特の色彩が評判の映画カメラマンで、村川透、澤井信一郎、工藤栄一監督らの数多くの作品でも撮影監督を務めている。90年の日本アカデミー賞では『ジュリエット・ゲーム』ほかで優秀撮影賞を受賞している。音楽プロデューサーを星勝が務め、忌野清志郎&The Razor Sharpsの「スタンド・バイ・ミー」、RCサクセション「トランジスタ・ラジオ」「スローバラード」、THE BLUE HEARTS「人にやさしく」などの挿入曲が印象に残る。
その数年後、鴻上さんから連絡があり、敬愛する大林宣彦監督の現場に密着したい! と。『水の旅人 侍KIDS』(1993)のスタッフや助監督というのは無理なので、撮影のドキュメンタリーを『映画の旅人・大林宣彦の世界/鴻上尚史』としてビデオ発売することとした。ぼくが現場に行くと、だいたい鴻上さんがビデオ撮影していて、映画への情熱はまだまだあると感心した。その後『青空に一番近い場所』(1994)など5本くらいの映画を監督している。
▲大林宣彦監督映画『水の旅人 侍KIDS』の撮影現場に密着する鴻上尚史(右)と大林宣彦。
宮本亞門さんが30年ぶりに映画『生きがいIKIGAI』(2025/ショートフィルム)を監督し、今年公開された。能登半島地震のボランティア活動をしたことで様々な事象を目の当たりにして企画、脚本も自ら行なった。
30年ぶり……最初の初監督映画は『BEAT』(1998)だ。亞門さんから「1995年9月の沖縄米兵少女暴行事件」をモチーフに映画を創ってみたい……が最初だったと思う。沖縄へ何度も行き、『豚の報い』の芥川賞作家・又吉栄喜さん(浦添在住)と話し合い、ストーリー(後に『波の上のマリア』として小説化)を書いてもらい、亞門さんが脚本も書いた。映画はベネチア国際映画祭・国際批評家週間に正式招待されたが、国内の興行、評価は芳しくなかった。映画としてはストレート過ぎる、演劇の人が創る映画では無いのでは……など様々な評価があった。真木蔵人、内田有紀主演でキャスト陣は頑張っていたと思うが、小さい公開を予定していたものが、こちら側の都合もあり全国公開になったことも裏目に出たような気がする。今回の『生きがいIKIGAI』はショートフィルムで、監督の想いが観客に届きやすい形はとても良いと思った。
▲1998年公開の宮本亞門初監督作品『BEAT』は、米軍統治下にあった60年代の沖縄を舞台にエネルギッシュに生きる一組の男女の恋愛模様を描いたドラマで、真木蔵人、内田有紀、永澤俊矢らが出演している。写真は右から監督・脚本の宮本、ストーリー協力の作家・又吉栄喜、筆者。
今でも亞門さんの演劇人としての優れた才能を、映画でもっと活かせないかな、と時々考えることがある。
これまで、宅間孝行(旧ペンネームはサタケミキオ)さんの舞台が好きで、映画化を試みたり(『同窓会』2008)、ケラリーノ・サンドロビッチさんとシナハンに行ったり、蜷川幸雄さんの映画『蛇にピアス』(2008)ではGAGAの製作部長としてオーディションなどにも立ち会ったりと、演劇人の方々と何度もチャンスはあったが、自分がプロデューサーをやることはなかった。
昨年、ひょんなことから上西雄大さんと会うことになった。彼は劇団10ANTS(テンアンツ)の主宰者で、主演、監督でもある。『ひとくず』(2020)、『西成ゴローの四億円』(2022)など既に10本以上の映画の監督もやっているが、小規模のせいもあり、まだ認知度は高くない。舞台『ひとくず』は演劇の聖地、本多劇場でも今年公演を行なった。
今、製作中の映画『かげひなた』の展開を相談され、海外の映画祭や編集面でのサジェッションをやったりしている。創り方は主演&監督と「北野武」さん的でもあるが、テーマは一貫して、虐待や、孤独死、元犯罪者の社会復帰など、マイノリティ目線である。個人的には、大好きな『竜二』(1983/川島透監督)を彷彿させ、『チ・ン・ピ・ラ』(1984/同)ぐらいのメジャー感を持てる映画になれば良いかなと期待している。演劇出身で、映画の評価ももらい、多くの観客に観てもらえる映画……が目標である。
▲現在製作中の、上西雄大監督・脚本の映画『かげひなた』。元犯罪者、貧困高齢者、虐待を受けた若者たちが愛と赦しによって再び光を取り戻し、ひなたへと歩み出す孤独と再生を描く魂の物語で、岡田結実、賀集利樹、笹野高史、松原智恵子、高橋惠子らが出演。上西は2012年に劇団テンアンツを発足し、17年の映画『ひとくず』で本格的に映像製作に取り組む。20年には「映画も舞台も制作する劇団」として映像劇団テンアンツに改名。監督・脚本・主演を務めた『ひとくず』は、ロンドン国際映画祭外国語長編映画部門最優秀作品賞を受賞し、俳優としての上西も同映画祭外国語映画部門最優秀主演男優賞、ミラノ国際映画祭、ニース国際映画祭では主演男優賞に輝いている。
結局、野田秀樹さんは一度も映画監督をやっていない。ぼくも、野田演劇をどのように「映画」にするのが良いのか答えを未だに見いだせない。やはり、あのライヴならではの一体型没入感、リアクションの即興感、それは映画表現には無い。それでも面白い演劇の要素を活かした映画は追求していきたいと思う。
かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。