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前田慶次のどうする家康徹底解説!【第4回】~徳川政権樹立の苦労と作戦~

城びと

前田慶次のどうする家康徹底解説!【第4回】~徳川政権樹立の苦労と作戦~

現在好評放送中のNHK大河ドラマ『どうする家康』。城びと読者の皆さんが余すところなくストーリーを楽しめるよう、徳川家康と同じ時代を生きた名古屋おもてなし武将隊の前田慶次様が、独断と偏見による会話劇を交えながら、“慶次様から見た家康の生涯”やドラマで重要になりそうなポイントを徹底紹介! 連載最後の第4回となる本記事では、天下人の豊臣秀吉が亡くなり、いよいよ家康が天下取りに動き出す時代をクローズアップ。秀吉の重臣・石田三成との対立、“天下分け目の決戦”関ヶ原の戦いに向けての大名調略、そして自らが天下人であることを世に示すために取った行動について、それぞれの思惑と共に掘り下げます。

皆の衆、我こそは名古屋おもてなし武将隊天下御免ノ傾奇者前田慶次である。いつも我が連載「前田慶次の自腹でお城めぐり」を読んでくれてありがとさん!

此度より特別連載を開戦致すのじゃ! その名も「前田慶次の『どうする家康』徹底解説!」。2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』を百倍楽しんでもらうべく、分かり易くドラマを視聴する上で必要な知識を儂が教えて参る!

前田慶次とは

齢四八十一歳。名古屋おもてなし武将隊の一角として、名古屋城を拠点に活動中。
YouTubeチャンネル「前田慶次 戦国時代チャンネル」やTikTokで歴史文化を面白おかしく大切に伝えている。
歴史研究家の小和田哲男氏や歴史タレントれきしクン等とコラボしたり歴史講演会や学校で歴史授業を精力的に行ったりしている。
NHK「さらさらサラダ」などTV番組でも、地元の歴史や史跡なども紹介している!
〇城びと(web)連載
〇名古屋城検定名誉顧問
〇日本城郭検定準1級

【徳川家康の生涯】

■壮絶な前半生

天文11年(1542)、三河国岡崎城(愛知県)で誕生。生まれてすぐに両親が離縁。織田家と今川家で人質生活を送る。

桶狭間の戦いを経て今川家から独立し織田信長と「清州同盟」を結ぶ。徳川家康と名乗る!

■信長と駆け抜ける葛藤の時期

元亀元年(1570)、姉川の戦いにて強敵、浅井・朝倉連合軍を倒す!

戦国最強の武田信玄と激突。人生において大きな敗北を経験。

信長と共に長篠・設楽原の戦いで武田軍を倒す!

然し、信長が妻と息子へ処罰を与え、家康自らの命で2人は命を落とすことに。

■戦国のカリスマ秀吉との戦い

天正10年(1582)、本能寺の変で信長が倒れる。織田家を継いだ羽柴秀吉と徳川家康は対決!

小牧・長久手の戦いにて家康は勝利を収めるが秀吉の政治的動きに敗北。秀吉の配下となる!

後の隠居の地である駿府城(静岡県)を完成させる!

天正18年(1590)天下統一戦である小田原征伐にて北条を倒し関東に移封。江戸城(東京都)入城。

異国出兵と秀吉に次ぐ巨大勢力で確実に立場を確立する!

■将軍へ。江戸幕府誕生

慶長3年(1598)、秀吉が倒れ、豊臣政権重鎮前田利家も倒れる。

家康は遂に天下を掴むために行動に移す。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いにて東軍をまとめ西軍を倒し、慶長8年(1603)征夷大将軍に就任。江戸幕府を開く!

将軍職をすぐ息子に譲り大御所となるが、政治には大きく関わり実質権力は家康が握った!

■徳川治世の為に大戦

秀吉の子、豊臣秀頼が成長し世は再び二分される。家康は徳川治世の為に再び大戦を仕掛ける!

慶長19年(1614)、大坂の陣が勃発。豊臣勢を退け、翌年には大名を統治する為に武家界の法律である武家諸法度を定める!

元和2年(1616)、徳川と日ノ本を安泰へ導き太政大臣となり役目を果たしたかの如く家康安らかに眠る。

1.朝鮮出兵の尻拭いは家康?恩を売る?

現世で有名な朝鮮出兵(1592~1593年・1597~1598年)で豊臣政権は一気に空中分解へ歩みを進めていったのじゃ。大きくは豊臣秀吉様が戦の最中に天に身罷ったこと。その代償として残されし有力者達が分裂した事であろう。徳川家康様はどのように行動されたのか。ドラマでは描かれていない徳川様の行動の数々に皆はどう思うのか。教えてちょ!

■朝鮮出兵はなぜ起きたのか?

先ず、朝鮮出兵の狙いは大陸明国の支配とも秀吉様は仰せであった。武士社会は褒美で領土を頂戴する生き方をして参った故に、国内の領土が尽きた後の事を考えたのであろう。現世で申せば給料を払えない会社に勤めたいと皆は思わぬはずじゃ! それを回避する為にも戦を仕掛けたのが理由の一つであろう。褒美という原動力で庶民から天下人まで登り詰めた秀吉様らしい価値観である。明国までの先導を朝鮮国に願い出たが、朝鮮国が反発した為に戦に発展しておる!

此の戦を止めようとしていた有力者がいた。それが徳川家康様と我が叔父前田利家様である。理由は幾つもあるが、国内を統一したばかしの頃。国内安定を優先すべきである!とお考えであった御二人。因みに御二人は支配領土も然りであるが、豊臣政権で圧倒的な権力者であり秀吉様と話し合いができる数少ない人物也。また、出兵に参陣していない東国大名は伏見城(京都府京都市)の築城工事を課せられていた。

多くの犠牲を出し、戦場に出陣した者達は兵糧に飢え、ドラマにするには難儀な程に厳しい戦であった(加藤清正、小西行長、黒田長政らが激闘を三成に伝える場面は印象的であったと思う。これにより三成のような文治派と清正達の武断派による溝が深まった)。徳川様は後に此の不仲を利用される。それでも止まらなかった朝鮮出兵。

■なぜ出兵にこだわったのか?

他の国でも良いのでは?と皆も考えたことあろう? 支配の他に貿易も欲していたのではないかと儂は考える。経済を豊かにするのに貿易は最大の利を生むものであったのは当時からそうであった! 大陸へ参る、日明貿易の再開は織田信長様の悲願でもあったに違いない! 秀吉様が弱った体でも、止まらぬ意志は主君の大願成就もあったのやもしれぬ。

■秀吉様の大きな失敗

出兵の最中に世継ぎの子、拾(秀頼)様が誕生されると秀吉様はとんでもない行動に出る。関白の職を譲った甥である秀次様を自害へ追い込み、身内も処罰された。此れには周りも驚き、秀吉様の行動に誰もが耳を疑った。また、中でも優秀な秀吉様の最古参である前野長泰殿、秀次様の家老である木村重玆(しげこれ)殿(子は重成。秀頼様の小姓)を処罰したのは、豊臣家の縮小を招き統制が弱まる原因を作ってしまった。

■徳川様の助太刀

我と関係も深い細川藤孝の子、細川忠興(ただおき)は朝鮮出兵の費用を秀次様から借りていた為、秀次様粛清の事件が起きた折に徳川様に泣きついて返済を立て替えてもらったというのじゃ。後に忠興が徳川様の軍として働いたのは、恩義を返すという意味もあったやもしれぬ。各大名との関係性等をこの時点から意識されておったやもしれんのう。

徳川様は結果的に出兵する事無く、日ノ本からその様子を見届けた。戦が上手く運んでおらぬと秀吉様が知った折に「自ら朝鮮に渡り叔父貴と蒲生氏郷殿を引き連れて倒す! 徳川殿は日ノ本を守ってくれ!」と仰られた時、徳川様は反論されたそうじゃ。「秀吉様の代わりに自分が海を渡り戦う!」と。これに秀吉様が「儂の命に背くのか?」と大激怒された。他の仲裁が入り事無きを得た場面であるが、秀吉様は病で亡くなった。出兵は途中であったが全軍撤退させ、残されし徳川様達が豊臣政権を動かしていく事となる。その中心となるのが五大老、五奉行という役職の人間達であった。

2. 五大老と五奉行を敵に回す?作戦とは?家康の不穏な動き

■立場が逆?

秀吉様は豊臣政権を存続させる為、秀頼様に引き継ぐ為に遺言で五大老、五奉行という面々について書き残しておる。現世でもあまりにも有名な呼称である。

五大老(徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝)

五奉行(石田三成、浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以(げんい))

の事であるが、此れは江戸時代以降の造語と言われておる。秀吉様の遺言書によると「五人の衆」と「五人の者」と記され、他にも五奉行を「年寄」、五大老を「御奉行五人」とする表記もある。つまり本来は三成達が老中で徳川様達が奉行であった。年寄は奉行よりも格が上で大名の重臣のことである。

(※三成達を奉行と記されるものもある)

面白いのは、徳川様は五奉行を奉行と呼んで年寄とせず、自分たちを奉行としていなかった。逆に三成は五大老を奉行と呼び、自分たちが年寄と考えていた。それぞれの政治的優位性を取ろうとしておるのが分かる! 互いに豊臣政権の重役なのは間違い御座らぬ。

慶次「儂としては、どっちでもええがや。と思うてしまうが、秀吉様亡き状況では致し方無い」

■徳川様、動く!

遂に徳川様が天下取りに動き始める。秀吉様の遺言には色んな守り事が御座った!

・政策は五大老、五奉行による合議制で決める。
・秀頼様に対する忠誠を誓う
・諸大名の縁組(結婚)は合議の上で行う
・徳川様は3年間の在京、伏見城留守居役
・五奉行のうち3人は伏見に留まり、2人は大坂城留守居役

等々の制約が御座り、中でも徳川家康という男を頼りにしつつも危険視しているのが分かり申す! また、ここから僅か2年で関ヶ原の戦いに発展しておる…。

様々な制約の中、徳川様は天下人になるべくすぐに掟を破り始める(ドラマでは重臣達が「殿、天下を掴まれよ」と言う場面が設けられ、徳川様本人の意思だけでない演出であった)。諸大名との政略結婚を進め、取り入れていった大名は先述した武断派と呼ばれる大名達。つまり三成との関係が悪い面々。

慶次「意図的な感じが致す!この行動が吉と出るのがこの後!」

此れは他の大老と奉行の許可を得たものでは無かった故に、徳川様は面々に詰問される。

大老・奉行「どういうことや徳川家康殿! 掟破ってどう責任取るんじゃー? 謝罪の為に大老辞めてもらおうか!?」

と現世風に状況説明してみ申した。強力な衆を敵に回すのか?皆であればどう行動する?

■やり合う作戦はあった!

徳川様は「大老を辞めれば秀吉様の遺命に背くことだ!」とまさかの反論をし、使者を追い返す!

慶次「強気な姿勢じゃ!」

因みに徳川様は此の大老と奉行たちを敵に回す程の力は無かった。武力衝突ではなく、徳川様には解決策があった! それが豊臣政権でも力のある文治派と武断派を利用すること! この時分、双方の関係性はかなり悪く、武断派が石田三成を襲撃する事件が起きておる! これは現世で実に有名な話(※襲撃までとはいかず、押しかけたという表現の方が近い)。

また、家康以外の4人の大老、五奉行に詰問された徳川様は伏見屋敷の防衛強化を図っていた! 身内に取り込んだ武断派の諸大名を屋敷に集めて、警護にあたらせた。

慶次「武断派の者達に、三成の戯言じゃ的な事を伝えたのじゃろう。武断派は『徳川殿は悪くない!』といった具合に士気も高まったじゃろうな」

更に、重臣である榊原康政や本多正信も事態を聞きつけて伏見屋敷に大軍勢が集結! 家康以外の4人の大老、五奉行は手出しが出来ない状況になり、和解の為、起請文を交わした。

■徳川の勝利?

起請文で和解したことで、めでたしめでたしと思いきやそうではない! 家康以外の4人の大老、五奉行の異議を受け入れた徳川様であったが、政略結婚を白紙にすることは無かった。

慶次「此れはいかん!白紙にする事はすぐ戦に発展すると大老達は考えたのか。これが徳川様最大の利となってくる!」

大老の中心の一人にして、豊臣政権の重臣達から人望の厚かったのが、我が叔父前田利家様であった。複雑な揉め事を間に入って解決していたが、叔父貴も病で天に身罷ると豊臣政権は一気に崩落し始める。

3.関ヶ原の戦いは勝敗が決まっていた?

慶長5年(1600)関ヶ原の地で豊臣政権が東軍西軍と分かれ合戦へと発展。有名な関ヶ原の戦いである。西軍大将を務めるは毛利輝元様、東軍大将は徳川家康様(因みに、此の前田慶次は東北にて西軍上杉軍として東軍の伊達最上勢と戦ったのじゃ)。

此の大きな内乱で注目すべき点は、徳川様の事前準備である。西軍は大将毛利様となっておるが、実質指揮を執っていたのは石田三成である。蟄居(ちっきょ)処分となった三成の反逆にも見えるが、徳川様が掟を破り、従わぬ人間を排除していく行動は誰の目から見ても行き過ぎたものであった。故に三成が行動せずとも誰かしらが動き、このような戦にはなっていたであろう。というわけで、徳川様は戦を想定してか、勝つ為の行動をする!

■強力な前田家を抑え込む

徳川様の勢力に匹敵とまではいかぬが、我等前田家は叔父貴の人徳と活躍で強大な勢力を誇っていた。叔父貴亡き後は、利長が跡を継ぎ五大老の一角として君臨。嘘か誠か分からぬが、密告により徳川様暗殺計画というのが明らかとなり、その首謀者の一人が利長であると。此れに徳川様は厳しく対応し、利長討伐が為に出兵まで命じた。利長は「謀反はない!」と上洛して釈明し難を逃れたが、母である「まつ様(芳春院)」を人質として送った。これに前田家は徳川家に屈服。諸大名達も自身の立ち振る舞い方を考える事になったのじゃ!

■戦前に密約して勝利!が約束は…

戦前に先行して仕掛けたのは、石田三成であった。「内府ちかひの条々」という徳川様を弾劾する書状を全国の諸大名に発し徳川様への宣戦布告を宣言したのである! 此れにより徳川方も後手であるが行動! 諸大名に味方になるように要請をし、西軍の有力な諸将を寝返らせた! この中には毛利輝元様、小早川秀秋といった西軍の中心人物もいた。

毛利輝元様は西軍大将を務めているが、結果的に大坂から出ておらず刃も交えておらぬ。家臣である吉川広家は徳川方と頻繁に連絡を取っていたとされ、西軍に利が無いと主君毛利家に伝えていたそうじゃ。つまり、大将を務めた人間ですらこの勝負どちらに付くべきかと悩んでいたわけであるし、周囲の出方をこれでもか?と気にした豊臣政権の内乱である。

ここで徳川様は調略する為に、約束事をする。例えば、伊達政宗には「百万石のお墨付き」と現世で呼ばれし書状に「秀吉様から取り上げられた旧領土を与える」と書いてある。だが実際に政宗が賜ったのは「刈田郡」のみ。此れは約束の50分の1程度の領土…。徳川様中々無茶苦茶で御座る。

4.家康なぜ将軍に!?徳川の勝ち路線は?

関ヶ原の戦いを終え、徳川家康様が天下の覇権を握るには戦で負かした相手だけでなく、更に多くの人を納得させる必要性があった。このまま政を進めるわけにはいかなかった。

なぜか。それは豊臣秀頼様がいらっしゃるからじゃ。秀頼様の後見人としての立場があれど徳川政権という見え方を手にするには、どうすれば良いかは答えは一つ。征夷大将軍になること!

豊臣家は朝廷から国政の代行職たる関白に叙任され豊臣政権は樹立され、徳川様を始め諸大名を従えた! この構図から脱却する事を考えた徳川様は、武家の棟梁の象徴である征夷大将軍に任命され幕府を開く事を考えられ、朝廷工作を開始された!

慶長8年(1603)2月12日、将軍に任命され江戸幕府の誕生! これにて世の中の者達は徳川様が政権を握った事を知り、豊臣政権の終わりを告げるものであったし、徳川様が早急に将軍職を子、秀忠に譲った事で徳川政権が続いていく事を世に知らしめたのであった! 見事な作戦。これはどの家臣の入れ知恵であったのか気になるところ。ドラマでは本田正信であったが果たして…。

この流れで秀頼様の天下人としての器が断たれたようにも感じるが、世間的には意外とそうでなかった! 宣教師達の記録等を見ると、徳川幕府は徳川家康個人の実力で他大名を抑え込んでいる為、家康がいなくなれば秀忠ではなく、成長した秀頼が跡を継ぐであろうと。天下人としての正式な後継者は秀頼様であると考える者も多かった事が当時の状況的にも伺える! 徳川様は軍事的な支配には成功しているが、徳川政権を繋いでいくという点に関しては、世間的にはまだ秀頼様の存在を大きく考える者も多かった。

その世論を感じたのか、徳川様は自身が生きておる間に豊臣家を倒そうと考え大坂の陣に発展させたのではと儂は考える! 悪い業は、年寄りである我等が背負っていくと証明するかのように。ドラマでも似たような雰囲気の発言をされておった。以前の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の北条義時公も同じように仰せであった。次世代へ繋いでいく為に汚名は自分一人で背負う武士のあるべき姿を視聴者も学んだのではなかろうか?

如何であったか。

徳川家康様の生涯は戦国時代の名場面を詰め込んだ玉手箱のようなもの。良き事も悪い事も学べるし、人の上に立つ人間がどのような想いであったのか。儂自身も天下人、頂点に立つ人間の孤独感には胸が痛くなる。全て描く事が出来ない大河ドラマが何を伝えたいのか。それを読み解く事が肝要である!

ドラマの見所は「歴史的史実の点と点の穴埋め」と儂は思うておる。人間が行動に移す時には、必ず感情が伴う。史実に起きた事実を脚本を始めスタッフ陣営と演者の方々がどう解釈し、人物の気持ちをどう代弁するか。儂も一視聴者として楽しむし、このように連載や解説動画にてより多くの者に歴史文化を楽しんでもらえるよう尽力致す!

以上

名古屋おもてなし武将隊

天下御免ノ傾奇者 名古屋城検定名誉顧問 城びと連載人

前田慶次郎利益

執筆・写真/前田慶次(名古屋おもてなし武将隊)

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