トットちゃんの学校:子どもの可能性を信じる教育を――試し読み『新プロジェクトX 挑戦者たち3』
情熱と勇気をまっすぐに届ける群像ドキュメンタリー番組、NHK「新プロジェクトX 挑戦者たち」。放送後に出版された書籍版は、思わず胸が熱くなる、読みごたえ十分のノンフィクションです。本記事では、書籍版の第三作『新プロジェクトX 挑戦者たち 3』より各エピソードの冒頭を特別公開します。ここに登場するのは、ひょっとすると通勤電車であなたの隣に座っているかもしれない、無名のヒーロー&ヒロインたちの物語――。
<strong>トットちゃんの学校――戦時下に貫いた教育の夢</strong>
1. 絶望から生まれた夢の学校
9年間だけ存在した風変わりな小学校
今から87年前、1937(昭和12)年。第二次世界大戦間近の東京に、風変わりな小学校が開校した。その名は、「トモヱ学園」。教室には廃車になった電車の車両を使い、毎日子どもの明るい歌声と笑顔が溢れる学校だった。
のびのびと学ぶ子どもの中に、後に国民的スターとなる黒柳徹子がいた。自分のことを「トットちゃん」と呼ぶ少女は、トモヱ学園への入学前、落ち着きがないという理由で、近所の小学校を1年生で退学になっていた。「この学校なら」と、母親が祈るような思いで向かったのが、トモヱ学園だった。その学校は、一瞬にして、黒柳の心を鷲づかみにした。
「今、考えてみると、本当に、宝石みたいな時間だったかもしれないと思う。だっておもしろいんですもの。毎日学校に行くのが」
この学校を作ったのは、ある一人の音楽教師だった。その教師には、かつて一律的な日本の教育に絶望し、教師を辞めた過去があった。
「どんな子どもも素晴らしい才能を持っている」
その信念のもと作られた学校には、障害がある子どもや差別を受けた子ども、他の学校で受け入れられなかった子どもが多くいた。国全体が戦争に向かい、教育にも軍国主義が色濃く反映された時代。教師たちは、社会からつまはじきにされた子どもと向き合い、ひとりひとりの持つ力を引き出そうとした。
しかし、その日常も長くは続かなかった。創立から9年目の春、トモヱ学園はアメリカ軍による空襲により、一夜にして灰となった。
戦後、黒柳はトモヱ学園での思い出を一冊の本にしたためた。戦後最大のベストセラーとなった『窓ぎわのトットちゃん』である。子どもの可能性を信じ貫いたトモヱ学園の教育は、昭和、平成、令和と時代を超えて、世界中で大きな反響を呼んでいる。
今回、戦火を逃れた貴重な資料が見つかった。その資料と関係者の証言をもとに、トモヱ学園が遺したものをふり返る。そこからは、今こそ大切にすべき教育のあり方が見えてきた。
これは、東京の片隅の小さな小学校で、激動の時代に信念を貫いた、教師と子どもたちの物語である。
若き音楽教師の挫折
物語は1921(大正10)年にさかのぼる。被害少なくして、第一次世界大戦の戦勝国となった日本は、つかの間の平和の中にあった。明治時代から整備されてきた学校制度が確立し、小学校の就学率も上がっていた。
そんな中、東京音楽学校、後の東京藝術大学音楽学部を卒業したばかりの、若き音楽教師がいた。小林宗作、28歳。群馬県の山あいの農家に5人兄弟の末っ子として生まれた小林は、自宅前の川辺で指揮棒を振ったり、歌を歌ったりするなど、子どものころから音楽が大好きだった。音楽の楽しさを伝えたいと音楽教師を志し、18歳で上京。苦学の末、晴れて小学校の音楽教師となってからは、自らオルガンを弾き、台詞と芝居に歌を交えた音楽劇に積極的に取り組み、子どもや保護者から評判の教師だった。
しかし、心の奥に葛藤を抱えていた。当時、日本の教育で重視されていたのは、いかに効率良く、子どもたちに知識を教え込むことができるかということ。多くの学校で、一人の教師が大勢の子どもを相手に一方的に授業を行う「一斉教授」や、教師の真似をさせる「模倣」が徹底して行われていた。
たとえば、図画の授業では、子どもに好きなものを描かせるのではなく、見本を正確に写し取らせたり、作文は、大人が書いた手本を書き写させて教え込んだり。そして、音楽の授業で子どもたちが歌うのは、大人が教えたい、道徳的な内容が盛り込まれた唱歌ばかりだった。
ある日、ある唱歌を歌う子どもの声が聞こえてきた。
「柴刈り縄なひ草鞋をつくり、
親の手を助け弟を世話し、
兄弟仲よく孝行つくす、
手本は二宮金次郎」
小林は、苛立っていた。
「一体この歌のどこが子どもの心でしょう、こんな事を歌う心持ちが子ども心のどこにありますか。私はこんな心にもない事を歌わされている子どもがかわいそうでたまりません。こんな歌を歌いながら子どもが無事に育つものでしょうか」
小林には、生まれたばかりの幼い娘がいた。機嫌のよい時に口ずさむメロディーが、実によく出来ていた。しかし、教え子たちからは、小さいときの無邪気な歌声や表現力が、学年が上がるにつれ失われていたのである。
自分は子どもを教えるに足る器なのだろうか。教え方に問題があるのではないか。子どもの力を伸ばす指導法を模索し、名だたる音楽指導者の授業を参観して回った。が、どこにも答えを見つけることはできなかった。
「出直せ、出直せ」。胸の中にそんなささやきが聞こえてくる。
1923(大正12)年3月。小林はついに音楽教師を辞めた。30歳の時のことだった。
リトミックとの出会い
小林は新しい教育方法を先進地域、ヨーロッパに求めた。
しかし、海外に留学するには多額の資金が必要である。一介の音楽教師に過ぎなかった小林にその資金はない。どうしたものか。
「ぜひ支援しよう」
そう声をかけてくれたのは、三菱財閥の4代目、岩崎小弥太だった。小林が教鞭を執っていた学校の理事を務めていた岩崎。小林が指導する音楽劇を見て、指導者としての小林を評価していた。「小林先生がヨーロッパへ勉強に行くのなら」と、小林の熱意と覚悟を見込み、留学資金の援助を申し出てくれた。
退職してから3ヶ月後。念願のヨーロッパへ向かった小林に、運命を変える出会いがあった。相手は、国際連盟事務次長を務める新渡戸稲造。小林が留学の目的を伝えると、当時ヨーロッパやアメリカで話題になっていたリトミックを学ぶことを勧めてくれた。後に小林は、娘である本間みさをに、この時のことを次のように語ったという。
「船が港に着いた時かどうか、いつのことかははっきりとはわからないんですけど、5000円札(旧)の新渡戸稲造先生に行き会ったそうです。『小林君どこへ行くつもりだ』とおっしゃったから、父が『ドイツに行こうと思います』って答えたら、ダルクローズ先生の、要するにリズムの学校ですかね、そこへ行きなさいと新渡戸先生が勧めてくれたんです」
その学校はパリにあった。作曲家エミール・ジャック=ダルクローズが、感性の豊かな音楽家を育てるために考案した、リトミックという音楽教授法が実践されていた。大事にされていたのは、「自分の中に流れるリズムに逆らわないこと」。「一斉教授」や「模倣」が中心の日本の教育との違いに驚いた小林は、ここで学ぶことを決意した。
異国で見つけた理想の教育
言葉も通じぬ異国の地で1年間、小林は、ダルクローズのもとで研究に打ち込んだ。テキストは、もちろん全てフランス語。単語を一語一語和訳しながらテキストを読み込み、リトミックの理念を頭に叩き込んだ。そのうちに、小林の中に全く新しい教師像が浮かび上がってきた。
この学校の教師たちは、学生に対して音楽の知識や踊り・演奏の技術を教え込むことはしていなかった。学生たちが音楽を耳で聞いて、心で感じて、体で表現する。そのために必要な感覚を研ぎ澄ます訓練を行っていた。それは、音楽教育にとどまらずに、学生たちの自発的意志を養うものであった。ダルクローズは小林に言った。
「私が教える目的は、生徒たちに『私は知る』ではなく、『私は感じる』と言わせることである」
それは、大人の考えや知識を一方的に押しつける日本の教師とは正反対の教師の在り方だった。教師の役目は、子どもの好奇心をくすぐり、自らのリズムで学べる環境を作ることなのではないか。
「もう一度教壇に立ちたい」
そうと決めると、いてもたってもいられない。小林はすぐに帰国の途についた。
夢の学校「トモヱ学園」の創立
日本に戻った小林は私立幼稚園の園長を務めながら、理想の教育を模索していた。
そんなある日、ヨーロッパ留学中に寄宿舎が同じだったことで親しくなった、舞踊家の石井 漠が思わぬ話を持ってきた。近所にあった私立小学校の経営が思わしくなく、行き詰まっているのだという。
「君が常にやりたいと言っていた教育を、ここで実現したらどうだ」
東京・自由が丘。田畑に囲まれたおよそ600坪の土地にその学校はあった。理想の教育の実現に燃えていた小林にとっては、願ってもない誘いであった。しかし、学校を買い取る資金などない。迷う背中を押してくれたのは、これまで関わってきた教え子の親たちだった。
「『応援するから。先生のおうちの2年間の食費は、全部私が出すから。先生やりなさいよ』と。そういうご理解してくださったご父兄の方なんかが、援助してくださって。ほんとに助けてくださった。そういう意味では、本当に、父は幸せでしたね」(みさを)
それまで住んでいた自宅も売り、なんとか費用をこしらえた小林は、学校を買い取った。新しい自宅は、学校の敷地の中に構え、人生をかけて理想の学校を作り上げる決意を固めた。
1937(昭和12)年4月。新しい学校が開校した。その名も「トモヱ学園」。ダルクローズのシンボルマークであり、心身両面の調和を意味する二つ巴の紋章から「トモヱ」と名付けた。
奇しくもそれは、日中戦争が開戦する年のことだった。
「どんな子どもも素晴らしい才能を持っている」
「新寺子屋方式・少人数・個性尊重」
そんな謳い文句のもと始まった新しい学校には、さまざまな事情のある子どもたちが入学してきた。
フランス人の祖父を持つ桂るり子は、その容姿から街中で唾を吐かれ、防空頭巾で顔を隠して歩くことがあった。いじめを心配した母親が見つけてきたのが、トモヱ学園だったと桂は語る。
「当時、『合いの子』と言われたりして、すごく嫌な思いをすることがいっぱいあったんです。だから無闇な学校には行かれないで、1年間様子見て、それでトモヱを見つけて入ったんです」
体重14キロと、小学1年生の平均よりも体が小さかった山内泰二 。はじめは、別の私立小学校への入学を希望していたが、「同級生と一緒に体操の授業を受けることもできない」と、発育不良を理由に入学を断られた。「どこか泰二を入れてくれる学校はないか」。焦った母親に手を引かれ、トモヱ学園にやってきた。
そして黒柳徹子は、活発すぎる言動が他の子の迷惑になるからと近所の小学校を1年生で退学になり、トモヱ学園に転校してきた。心の奥に、寂しさを抱えていた。
「どっかに疎外感のようなものがあったと思います。前の学校の先生からしてみると、よそにいってくれるといいって思ってるんじゃないかとか」
小児麻痺で手足が不自由な子どもや、体の成長が止まってしまう病気の子どももいた。トモヱ学園を信じて、人生を預けてくれた子どもたちを前に、小林は覚悟を決めた。
「どんな子どもも素晴らしい才能を持っている。それを育てる教育をやってみたい」
東京の片隅に生まれた小さな学校は、戦争の足音が近付く中で、船出した。
2. 子どもの可能性を信じた教師たち
たった1問だけの入学試験
小林は、まず、子どもひとりひとりの性質を理解しようとした。
トモヱ学園の入学試験の問いは1つだけだったと卒業生は証言する。
黒柳が母に手を引かれ、初めてトモヱ学園の門をくぐった日。校長室で、小林は黒柳と向かい合わせに座って言った。
「さぁ。何でもいいから話してごらん。話したいこと全部」
「ええ、全部?」
黒柳は嬉しくなって、ここに来るまでに乗ってきた電車のこと、飼っている犬のこと、前の学校の先生のこと、思い浮かんだことを何でも話した。気づけば4時間が経っていた。その間小林は、よそ見をしたり、他のことに手をつけたりすることは決してしなかった。
「ずっと、うんうん、それからそれからって、聞いてくださったんですよ。それで、その時にこの人はいい人に違いない、大好きって思いました」
そして小林は最後に言った。
「じゃ、これで、君は、この学校の生徒だよ」
発育不良で別の小学校から入学を断られた山内は、「自分の好きな絵を描いてごらん」と真っ白な画用紙を渡された。戦車や飛行機の絵を描いたが、絵の善し悪しへの評価はなく、母親に合格が伝えられた。
「黒柳さんの『4時間にわたる話』も私の『自由画』も、この子がどんな性格の子か理解するための努力の一部だったと思います。当時の日本で、小学校の校長先生が入学してくる生徒ひとりひとりの性格を理解しようと努力された学校は、トモヱ以外にあったと思われません」(山内)
全校生徒40人の小さな学校
小林は、少人数制にとにかくこだわった。それは、子どもひとりひとりの性質やリズムに応じた教育ができるようにという思いからだった。黒柳が通った1940(昭和15)年ごろは、教師およそ10人に対し、小学校1年生から6年生までの生徒およそ40人が通っていたという。常に経営は厳しかったが、生徒数を増やすことは絶対にしなかった。
教師には、小林の理念に共感した者たちが集まった。小林が帰国後に開いたリトミック教室に第1回から参加し、小林の前任校からついてきた者、東京帝国大学文学部を卒業した者もいた。みな、新しい教育への希望に満ちあふれていた。
トモヱ学園に教師の助手として入った高田 薫は、これまでに見たことのない、教師と子どもの関係に驚いた。
「先生だからって、生徒がちょっと下がって構えることがなかったわ。なんでも相談できて、甘えられるっていうのかな。生徒が先生に、なんでもすぐに言えるし」
小林の孫の家に残るトモヱ学園の写真には、教師の腕に自分の腕を絡ませて笑う子どもや、子どもと一緒になって草むらでおにぎりをほおばる教師の姿が残っている。
電車の教室
広大な敷地の中には、木造校舎とモダンなホール、そして小林の自宅があった。小林には、ある夢があった。きっかけは、ヨーロッパで見た、車に生活道具を詰め込み移動する「旅するサーカス団」。「これはいい」と、子どもたちが大好きな電車を校内に持ち込んで教室にするアイデアを思いついた。子どもたちにいつでも旅をしているような気持ちで、みんなで仲良く学んでほしいという思いからだった。
偶然、保護者の中に、鉄道会社に勤める者がいた。
「電車の教室を作りたいので、廃車をいただけないでしょうか」
「それは面白い」と、車両を譲ってくれることになった。が、そこからが大変だった。
工場から近くの駅まで引っ張り、電柱と枕木で作った台の上に載せて、それにタイヤをつけてトラックで引っ張った。本当に電車を持ってきてしまった父に、娘のみさをは驚いた。
「うちの前を、ずっと坂の上から電車を引っ張っていくのをびっくりして見ていました。ちょっとくすんだ緑色の車両でした。それが坂の上からやってきて、これ、本物の電車だって。やっぱり父は子どもが大事だったんでしょうね」
電車の広さは、四畳半が3つと六畳が2つほど。運転席は仕切ってあり、その裏に黒板を設けて、子どもの勉強机を並べた。子どもたちの席は決めずに、毎日誰がどこに座ってもよかった。黒柳は入学初日から、この電車の教室の虜になった。
「それはもう、すごく素敵でした。ガラスの窓があって、全部開けちゃうと、風がピューッて通る。風ピューピュー通して、みんなでワーワー騒いだり。だから、学校に行くのが楽しみで、もう、毎日早く行きたくて。学校に行ったら、ずっといたくて。家にいるよりもここにいたほうがいいっていう感じでした」