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なぜ「町の嫌われ者」が「日本のお家芸」になれたのか?スケートボード五輪金への道のり【新プロジェクトX 挑戦者たち】

NHK出版デジタルマガジン

なぜ「町の嫌われ者」が「日本のお家芸」になれたのか?スケートボード五輪金への道のり【新プロジェクトX 挑戦者たち】

 わずか2度のオリンピックで、一気に「日本のお家芸」と称されるようになったスケートボード。2024年パリ大会では堀米雄斗が2連覇を達成するなど、選手たちの華々しい活躍が記憶に新しいが、かつて町の「嫌われ者」と見られることもあったスケートボードの地位をここまで向上させた裏には、日本スケートボード協会の地道な活動があった。『新プロジェクトX 挑戦者たち 4』より、第五章「スケートボード 頂点へ “日陰者”たちの逆転劇」の冒頭を特別公開。

スケートボード 頂点へ――「日陰者」たちの逆転劇

「相棒」のために出戻った男

「不良の遊び」から「お家芸」へ
 わずか2度のオリンピックで、一気に「日本のお家芸」と称されるようになった競技がある。スケートボードだ。2021(令和3)年の東京大会から正式種目となり、いきなり3つの金メダルを含む5つのメダルを獲得。2024(令和6)年のパリ大会でも、堀米雄斗の2連覇をはじめとする選手たちの大活躍で4つのメダルを獲った。
 記憶に新しいオリンピックでの大躍進の中、注目されたのは、成績だけではない。選手たちがお互いの滑りをたたえ合い、肩を抱き合って笑顔を見せる姿に、多くの人が心を震わせた。

 今や、シニア世代から子どもたちまで、家族みんなで楽しむスポーツとなったスケートボード。しかしかつては「不良の遊び」「街の厄介者もの」と白い目で見られ、ともすれば排除されようとする「日陰の存在」だった。変化のきざしが見えたのは、2000年代初め。スケートボードの魅力を伝え、日本の社会にカルチャーとして定着させようとする者たちが、それぞれの場所で動き始めた。
 定期的に大会を開いて賑いを生み出そうとする者がいた。誰でも自由に滑れるスケートボードパークを造ろうと奔走する者がいた。しかし彼らの前には、いくつもの壁が立ちはだかった。一般社会からのネガティブなイメージや認知度不足は常に付きまとっていた。さらに、型にはまらない「カッコいい」「楽しい」に最さい上じょうの価値をおくスケートボードの世界では、点数や順位が付けられることを良しとせず、スポーツとして競技化されることに否定的なスケーターもいた。

 しかし、「日陰者」のイメージを脱却し、多くの人に受け入れられるものにならなければ、スケートボードに明るい未来はない。
 自分が愛してやまないスケートボードのカルチャーを守りながら、スケーターの裾野を広げ、社会に理解してもらうために。そして、スケートボードが当たり前に受け入れられる社会にするために。オリンピックのメダリストやプロスケーターの「カッコいい」活躍の陰には、スケートボードを心から愛し、何度転んでも立ち上がり続けた「はぐれ者」たちの物語があった。

代々木のホコ天でスケートボードデビュー

 高度経済成長が終わりを迎えた1970年代後半、日本は「一億総中流」の時代を迎えていた。努力すれば良い学校、良い会社に入れ、より豊かになれると信じた大人たちは、子どもたちに高い教育を受けさせようとし、受験戦争が過熱した。だが、大人が作った世の動きに窮屈さを覚えた若者たちは、自由に好きなことができる場を求めて、街へ飛び出した。

 自分の居場所を求める若者たちの「聖地」、東京・代々木の歩行者天国(ホコ天)。そこに、後に日本のスケートボード界を改革することになる、一人の少年がいた。後年、日本スケートボード協会の事務局長を務める男、横山純。1964(昭和39)年に東京の世田谷やで生まれ、13歳の時、ホコ天でスケートボードデビューした。
 「日曜日になると、ここ(代々木公園)から原宿の駅の間まで車を通行止めにして、そこにいろいろな若者が集まったんです。ローラースケートやスケートボードをやる人たちや、後になると(カラフルなファッションでディスコサウンドを踊る)竹の子族とか(50年代ファッションでロカビリーを踊る)ロックンローラーの人たちとかです。僕は13歳の時に地元の仲間と初めてここに来て、スケートボードのチームに入った。50-50フィフティ・フィフティといって、レールの上をトラック(板の下の金具)だけで滑って、オーリー(ジャンプ)して降りる技があるんですけど、それを日本で初めてメイク(成功)したのは、多分僕ではないかと思っています。目撃証人もいますよ」
 あれが僕の青春の1ページ目って感じですね。そう言うと、横山は、少年時代に滑っていた代々木公園横の道を眺て、懐かしそうに目を細めた。
 横山は、中学生の時に、アメリカの子どもたちがスケートボードで街中を縦横無尽に滑る映像を見て、そのかっこよさに憧れてスケートボードを始めた。ボードに横向きに乗って加速し、風を切る快感。足から伝わる振動と刺激。大地の上を自分がコントロールして進んでいく独特の感覚。どれも他のスポーツや日常生活では味わうことのできない特別なものだった。そして何より、スケートボードには、本当の自由があると思った。
 「部活や体育の授業でやるスポーツって、先生がいて、ああしろこうしろって言われるじゃないですか。でもスケートボードには先生はいないし、自分がやりたいことを自由にやれる。けがのリスクはありましたけど、それを乗り越えてスケートボードと友達になっていくのがよかったんです」
 「自分だけのワザ」を考えたやつがかっこいい。そんな世界に夢中になり、学校という狭い世界には収まり切らなかった青春時代を、街に出てスケートボードとともに過ごした。うれしかったのは、ホコ天で自分を受け入れてくれる仲間の存在だ。年上の「おっかないお兄さん」たちもたくさんいたが、住む場所や年齢が違っても、スケートボードを手に集まればみんな仲間だった。
 「坂を実力以上のスピードで降りていって、派手にすっ転んで、お兄さんたちが『大丈夫か?』って心配してくれて。そうやって自分を覚えてもらったようなところもありますね」
 やりたいことが自由にできて、たくさんの仲間と出会える遊び。横山たちにとって、スケートボードはそういう存在だった。

スケートボードの世界へ「出戻り」

 しかし、スケートボードが世に広がるにつれ、世間が示したのは、横山たちの感覚とは真逆の反応だった。
 「通行の妨さまたげになる」
 「危ない」
 「うるさい」
 「不良がやる遊び」
 1950年代までにアメリカで誕生したと言われるスケートボードは、初めは若者たちの移動手段として使われていた。路上からスタートし、文字通りストリート文化として発展してきたものだ。しかし、その原点とも言える「路上で滑る」という行為が、一般の人には受け入れられず、非難の的になった。
 さらに1990年代に入るとスケーター風ファッションの模倣が中心となった日本のスケートボード人気は、バブル崩壊を機に凋落。スケートボードは、過去のブームとして忘れ去られようとしていた。
 その頃横山は、すでに社会人になっていた。舞台や映像、イベント制作の仕事に就き、スケートボードの世界から離れていた横山が、再びスケートボードに深く関わることになったのは、1995(平成7)年のこと。同年に起きた阪神・淡路大震災で被災した関西の仲間をサポートするためのチャリティーイベントを、手伝ってほしいと頼まれたのがきっかけだった。
 イベントは、元々後輩のスケーターを中心に企画が進んでいた。日程や場所はすんなり決まったが、内容を決める段階で意見が対立し、つまずいた。企画を立ち上げたメンバーが一人抜け、二人抜け、結局「年上の後見人」という立場だった横山がまとめ役を務めることになった。社会人として世の中を見てきた経験もプラスに働いたのか、自己主張が強い若手スケーターたちをまとめあげ、イベントを成功裏に終わらせることができた。
 その手腕を見ていたスケートボード関係者が、ある日、横山に突拍子もない話を持ちかけてきた。
 「スケートボード協会を仕切り直してくれないか」

スケートボードが「普通」な世の中へ

 日本スケートボード協会は、1982(昭和57)年、乱立状態だった競技団体をまとめる形で誕生していた。競技の普及や選手のサポート体制構築を目指して結成された組織だが、1995(平成7)年当時は、「事務局が壊滅状態だった」と横山は語る。協会の事務局長になって、どん底状態のスケートボード界を救ってほしい。そう頼まれて、横山は頭を抱えた。それは、どう考えても、いばらの道でしかなかったからだ。
 「当時のスケートボードって、マイナーもいいところでしたから。流行の最先端、カルチャーの源ではあったけど、悪く言えば『街の邪魔者』みたいなイメージもありました」
 ただ、それでも横山は、スケートボード界を放っておけなかった。
 「スケートボードをメジャーにしたいというよりは、『普通』にしたい。楽しんでいても怒られない世の中にするにはどうしたらいいのか、っていうのはずっとあって、そのために自分ができることがあるならやってみよう、と」
 横山にとってスケートボードは、13歳で出会ってから毎日一緒に遊んでいた「相棒」だ。その相棒が、世間からマイナーでダークな印象を持たれている。もっと楽しく、もっと素晴らしいものだと伝えて「嫌われ者」のイメージを変えたい。昔のようにスケートボードをただの「ブーム」で終わらせたくない。その一心で、横山は協会の事務局長を引き受け、自ら「いばらの道」に足を踏み入れた。

大改革はいばらの道

大会を増やしてスケーターをつなぐ
 「いばらの道」の一歩目として横山が取り組んだのは、全国各地でスケートボードの大会を開くことだった。
 当時、東京や首都圏ではさまざまな大会が開かれていたが、スケーターが少なくまとめ役がいない地方都市では、なかなかその機会がなかった。そこで、規模は小さくても地方で定期的に大会を開くことにした。その目的は、スケーターが同好の仲間を作れるようになること。さらに、業界としての基盤を固め、スケートボード人口を増やすことにあった。
 「大会を増やしたのは、賑いの創出になるからです。もちろん順位を付けることも重要ですが、いろいろな人が集まってくることが大事なんです。大会に来れば、一生の友達もできるし、一生のライバルもできる。仲間が集まりゃ楽しいんですよ、もう」
 人と人が刺激し合い、競い合うことで、スケートボードが発展する。そんな未来も描いていた。
 「とにかく大会を開いて、今までなかなか出会うことのなかったスケーターを集めて、その場で仲間にする。それが日本のスケートボードの地力を上げて、スケーターの裾野を広げることにつながるんだという確信がありました」
 当時は地域住民から騒音に対する苦情が寄せられたり、一部のスケーターが交通事故や傷害事件を起こしたりと、大小さまざまなトラブルがあった。協会にも非難の目が向けられていた。しかし横山は何か起きる度たびに「スケートボードは悪くない。事件や事故が起きるのは乗っている人間のモラルの問題だ」と言い続けていた。大会を開き仲間の輪を広げることは、スケーターのモラル向上にもつながると訴えた。
 大会を開催すると、人と人とのコミュニケーションや賑わいが生まれる。スケーター同士がつながれば、お互いが注意し合う関係性も育まれる。そうした環境を作り、定着させていくことが、協会の重要な役割だと横山は考えたのだ。

お金にシビアな事務局長

 大会の運営には当然多くの費用がかかる。だが、協会の経済状況は、かなり厳しかった。横山はスケートボード関連の企業を一つ一つ回って頭を下げ、なんとか大会の開催に必要な資金をかき集めた。そして、その限られた予算をやりくりして、必ず賞金を用意した。その代わり自分たち運営スタッフにかかる経費はギリギリまで切り詰めた。大会を運営するスタッフはほとんど手弁当。ジャッジ(審査員)やMCに満足なギャラも払えない。ホテルではなくテントや車内で宿泊するのも当たり前だった。
 自他ともに認める「のんべえ」の横山。スケートボード協会の集まりの後、食事会や飲み会に仲間や後輩を連れていくこともよくあった。酒の席でのコミュニケーションも、仲間をつなげるための大事な機会だ。しかし、会計は常に割勘をつらぬいた。もちろん経費で飲むなど論外、支払いはいつも自分の財布から。なぜそこまで財布のひもが固いのか。ある後輩スケーターに、面と向かって「協会のお金で酒飲んでんすか?」と聞かれたこともあったが、横山は「それは絶対にしねえ」と答えた。
 「セコいとか、財布のひもが固すぎるとかいろいろ言われましたけど、お金に関してはシビアでしたね。スケートボード業界全体から、期待を込めて預かったお金でしたから」
 協会の事務局に在籍した28年間、横山はその信念を最後まで曲げなかった。

プロ認定制度の創設

 さらに横山は、1996(平成8)年、協会が選手にプロライセンスを発行する、プロ認定制度をスタートさせた。
 スケートボードの世界では、プロとアマチュアの線引きは、それほどはっきりしていない。本場アメリカでも、プロを名乗るために必要な要件は特になく、アマチュア選手として名前を売り、有名なスケートボードブランドと契約して自分のモデルのボードを出すことで「プロ」として認められるというパターンが一般的だった。横山が創設した協会のプロ資格も、日本国内限定のもので、世界で通用するライセンスではない。それでも制度化に踏み切った背景には、「肩書きや資格がないと信頼されにくい」という日本社会特有の事情があった。
 「日本人は資格が好きですからね。日本でトップのスケーターになったっていっても、何の社会的な保証にもならないじゃないですか。そこで『プロ』の肩書きが生きてくると考えたんです。滑る拠点を確保するために行政と交渉したり、人に教えるスクールを開いたりする時に、名刺代わりになる資格があればやりやすくなるんじゃないかと思ったんですよ」
 プロ制度を創設した目的は、それだけではない。海外での活躍の足がかりになるのではないかという期待もあった。
 「プロライセンスがあれば、多少なりともスポンサーが付きますから、そのツテでアメリカのエージェント(代理人)を紹介してもらったりして、いろいろな活動ができるようになるんじゃないか、という考えもありました。日本国内でプロとして活躍することが、海外への第一歩になればいい」
 プロ制度は2002(平成14)年にいったん廃止されたが、2年後に復活した。復活後は、国内のアマチュア大会で優勝したスケーターをアメリカへ派遣するなど、海外を意識した取り組みを増やした。その中から、スケーターの登竜門に位置づけられるアメリカの大会で活躍する日本人も現れ始めた。日本から世界につながる道は、少しずつ広がっていった。

スケートボードは「スポーツ」じゃない

 スケートボードが当たり前にある世の中にするため、大会を開き、スケーターや観客を集めて賑わいを創出する。その一心で協会の活動に取り組んでいた横山。だが、その思いは仲間であるはずのスケーターたちにも、なかなか理解されなかった。
 理解が得られなかったのは、大会で点数を付けて順位を競うことが、スケーターたちが理想とするスケートボードのスタイルに合わないと捉えられていたからだ。
 「スケートボードは街中で自分を自由に表現するもの」
 「点数を競い合う『スポーツ』じゃない」
 そう言って協会の活動に背を向けるスケーターも少なくなかった。
 横山自身も、出場者に点数を気にしながらスケートボードに乗ってもらうことなど求めてはいなかった。大会であっても、一番自分らしさを表現できた者が勝ち。そこに順位と賞金が付いてくる。それが横山の信条だったのだが、伝わらない。

 さらに、大会に出場するスケーターは、みな我がが強かった。後にプロスケーターになる上田豪は、大会で横山に会った時、「偉そうなおっさんだな」と思ったことを覚えていると語る。
 「横山さんの方が10歳ぐらい年上だと思うんですけど、僕も尖ってたんで。『お前ら早く来てくれ』って(横山に)言われて、『なんでお前に「お前」って言われなきゃいけねえんだよ』とか思ったりしてましたね」
 上田にとってスケートボードは、社会に反発したい、自分をアピールしたいというエネルギーをぶつける存在だった。だからこそ、大人に管理されて滑ることに、強い抵抗があった。
 「賞金少ねえよな」
 仲間とよくそうぼやいていた早川大輔は、何度も大会で入賞を果たした実力者で、スケートボードの稼ぎだけで生活することを夢見ていた。だからこそ、横山たちが苦心して捻出した賞金の額にも、不満を持っていた。
 「(当時の自分たちは)絶対調子に乗ってたと思うんですよ。満員電車に乗って毎日会社に通ってるサラリーマンなんかより、全然俺はかっこよくてイケてる、なんて思ったりして。プロスケーターの社会的責任なんてまったく感じていなかったんです」

異色のフリーペーパーを創刊

 自己主張や我が強いスケーターたちに、同じ方向を向いて進んでもらうには、どうすればいいのか。考えた末に、横山はある物を作り上げた。スケーターに向けたフリーペーパー『ジパング(ZIPANG!)』だ。フリーペーパーと呼ぶには分厚く、しっかり製本されたその冊子は、2000(平成12)年から2001(平成13)年までの2年間で計7冊、最大3万部が発行され、全国のスケートボード販売店で無料配布された。
 横山が『ジパング』で取り上げたのは、華々しく活躍するトップスケーターだけではなかった。むしろ、日本のスケートボードを縁の下で支えている人々だった。
 スケートボード人気が下火になった時も道具を輸入し続けた者。借金をしてまで練習場所を造り、スケーターを支えた経営者。そうした裏方の人々の姿を載のせ、スケートボードの世界の厚みを感じさせる内容にこだわった。そこには、単に流行を追いかけるのではなく、業界の表も裏もまるごと知ってほしいという横山の思いが込められていた。

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