河合奈保子「ハーフムーン・セレナーデ」80年代アイドルが生み出したグローバルヒット!
現在も国外で高い収益を上げ続けている「ハーフムーン・セレナーデ」
JASRAC(一般社団法人日本音楽著作権協会)は、毎年5月頃に前年の著作物使用料の分配額TOP10 を発表している。これは “音楽配信、カラオケ、CMなど、前年度にJASRACから分配された著作物使用料” をもとにしたランキングで、いくつかの部門に分かれている。その中の1つに “国内作品【外国入金】部門” がある。いわば、日本以外の国で多くの著作物使用料を得たJASRAC管理作品のランキングである。
2025年3月現在、直近に発表された “国内作品【外国入金】部門” のランキングでは、1位〜6位を『NARUTO』『HUNTER × HUNTER』『進撃の巨人』『ONE PIECE』などのアニメ関連作品が占めている(2023年6月、9月、12月、2024年3月の計4回の分配を集計)。グローバルな規模でテレビ放送が繰り返され、動画配信サービスを通じてさらに多くの人々に視聴されているアニメ作品は圧倒的に強い。その8位以下もアニメ関連作品が並ぶなか、7位に唯一、非アニメ関連曲、現在の表現でいうJ-POP曲がランクインしている。
それは、BABY METALやONE OK ROCK、YOASOBIらの楽曲ではない。“現在の表現でいうJ-POP曲” という回りくどい表現をしたのは、J-POPという言葉が生まれる以前の作品だからだ。といっても、坂本九の「上を向いて歩こう」や松原みきの「真夜中のドア」でもない。“国内作品【外国入金】部門” の7位にランクインしているのは、1986年にリリースされた 河合奈保子の「ハーフムーン・セレナーデ」 という曲である。
近年、音楽を聴く環境の変化により、日本のポピュラー音楽が国外で評価される機会が増えている。1970年代後半から1980年代にかけてのシティポップとされる楽曲群に対する関心が高まる一方で、第一線の国内ミュージシャンが海外市場に進出する例も目立ってきた。音楽業界全体としてもJ-POPの輸出に本腰を入れつつある。しかし、それらとはまったく異なる文脈で、引退状態にある80年代アイドルの楽曲が、2020年代になってもなお、国外で高い収益を上げ続けている事実があるのだ。
1980年デビューアイドルが秘めていた音楽的才能
15歳だった1980年6月に「大きな森の小さなお家」で歌手としてデビューした河合奈保子は、類まれなるアイドル性の高さもあり、同期デビューの松田聖子に次ぐ人気を獲得した。その後、中森明菜や小泉今日子ら、次々と後発のアイドルたちがデビューしていくなかで、コンスタントにヒットチャートのトップ10内にシングル曲を送り続けた。
この「ハーフムーン・セレナーデ」は、デビュー6年目となる1986年11月にリリースされた、河合奈保子26枚目のシングルである。当時の感覚では “脱アイドル” が求められる23歳という歳を迎えていた。その環境下で、音楽性を高めつつソングライターとしてのフェーズに進もうとした。
もともと河合奈保子は、小学生時代からピアノを習っており、マンドリンやギター、キーボードなどの演奏スキルも持ち合わせていた。また、多忙なアイドル活動の合間を縫って、自作曲を書きためていた。 そして、同年10月、売野雅勇のプロデュースにより、すべて自作曲で構成されたアルバム『Scarlet』をリリースした。作詞:吉元由美、編曲:瀬尾一三による「ハーフムーン・セレナーデ」はこのアルバムに収録され、翌月にシングルカットされた楽曲だった。
「第37回NHK紅白歌合戦」ではピアノの弾き語りで歌唱
「ハーフムーン・セレナーデ」は、愛する人への思いを詩的なフレーズを織り交ぜて表現した歌詞と、叙情的で哀愁漂うメロディ、大作感あふれるドラマティックなアレンジによるバラード曲である。Aメロ、Bメロで抑えられた音域がサビで一気に拡大されることで、リスナーの心をグッと掴む構造が魅力的だ。サビの高音域の歌唱はいかにも難度が高そうだが、安定したピッチと柔らかい声質で歌いこなしている。とくに高音の伸びやかさが際立ち、感情表現とテクニックのバランスが保たれたボーカルは圧巻だ。
河合奈保子は間違いなく80年代を代表するアイドルのひとりであったが、同時に優れたボーカリストであり、卓越したソングライターでもあった。テレビの歌番組で歌唱する際は、オーケストラをバックに、流麗なピアノ演奏をしながら歌うことが多かった。その姿は、まさに “河合奈保子Ver.2” といえるものだった。
この曲は、オリコンのウィークリーチャートで最高6位を記録し、同年大晦日の『第37回NHK紅白歌合戦』ではピアノの弾き語りで歌唱されているが、セールス的には大ヒットと呼べるほどでもなかった。1986年は、おニャン子クラブの関連楽曲が毎週のように初登場1位を記録していた時期で、ヒットチャートのサイクルが非常に速かった。
そんな中、日本国内で「ハーフムーン・セレナーデ」という楽曲の凄みや、河合奈保子の才能の豊かさが、広く認識されたとはいえなかった。 本人は謙虚で真面目な人柄だったためか、当時、自身の音楽的スキルや才能について、メディアを通じて強くアピールすることはなかった。それが河合奈保子という人だった。
インターネットのない時代に、なぜ海外で広まったのか?
では、「ハーフムーン・セレナーデ」はなぜ今も国外で高い収益を上げているのか。そのきっかけは、中国返還以前の香港でカバーされたことにある。そう、1980年代以降、日本のポピュラー音楽を香港で歌手がカバーする文化が生まれていたのだ。
たとえば、80年代後期以降の香港でアイドル的人気を博した女性歌手 ビビアン・チョウ(周慧敏)は、柏原芳恵の「最愛」(作詞・作曲:中島みゆき / 編曲:倉田信雄)のカバーを代表曲の1つとしていた。 これに対し、「ハーフムーン・セレナーデ」をカバーしたのは、男性歌手 ハッケン・リー(李克勤)だった。
1987年にリリースしたアルバム『命運符号』のなかで、「ハーフムーン・セレナーデ」に広東語の歌詞をつけ、「月半小夜曲」のタイトルで歌ったのである。その後、ハッケン・リーが人気スターとなるにつれ、香港で「月半小夜曲」の認知度も上がっていった。当時、河合奈保子はまだ現役であり、オリジナルのシンガーとして現地に招かれ、テレビの音楽番組にて日本語で「ハーフムーン・セレナーデ」を歌ったこともあった。
1990年代には、カラオケの普及にも後押しされ、「月半小夜曲」の魅力はジワジワと浸透していった。中国返還後の2000年代になると、日本で活動歴のあるプリシラ・チャン(陳慧嫻)など、多くの歌手がライブやテレビ番組などで歌唱し、持ち歌とするようになった。人の心に響きやすいメロディであり、歌唱力の高さをアピールしやすい難曲であることから、ライブやイベントでは、“ここ一番の曲” として重宝された。また、歌自慢が揃うオーディションの場でもよく歌われた。こうして、「ハーフムーン・セレナーデ」=「月半小夜曲」はバラードの名曲として、香港から中国本土へ、さらに台湾へと広がっていった。
YouTubeで「月半小夜曲」と検索すると、世代を超えて、「月半小夜曲」を歌っているシンガーが実に多いことに驚かされる。上海を拠点とするアイドルも、台湾の実力派歌手も歌っている。また、スキャットを挿入するなど独自のアレンジが加えられるケースもある。女性と男性、男性と男性、女性と女性のデュエットにより、ハモりながら歌われることも多い。公開番組やライブのような場で誰かが「月半小夜曲」を歌うと、観客や他の出演者も一緒に口ずさんでいる場面もある。
大衆文化のなかに浸透した「ハーフムーン・セレナーデ」
このような曲をなんと呼ぶか? そう、“スタンダード” である。河合奈保子が紡ぎ出したメロディは、中国語圏の広いエリアでスタンダードとなったのである。
さらにYouTubeをじっくり観ていくと、さまざまな動画に遭遇できる。ピアノはもちろん、ギター、バイオリン、チェロ、ハープ、琴、二胡といった弦楽器、クラリネット、サックスといった管楽器―― 多様な楽器の奏者たちが競うように「月半小夜曲」を演奏している。プロのシンガーではないと思われる人たちが、カバーと称して自宅でこの曲を歌う動画を投稿している。子どもの音楽教室の発表会でも、アマチュアバンドのストリートライブでも選ばれている。
独自のアレンジを加えて披露するジャズバンドがいれば、「月半小夜曲」をギターで爪弾く指先の動きだけを映した動画を投稿するYouTuberもいる。また、クラブのような空間でエレクトロミックスバージョンの「月半小夜曲」を歌うシンガーがいる。その周囲では、女性ダンサーたちがTikTokでバズりを狙ったようなフリを踊っている。一過性のブームではない。
なお、「ハーフムーン・セレナーデ」が広まったのは中華圏だけではない。ベトナムにて、1994年にトー・チェン・フォンという男性歌手が、「Tình Nồng」(情熱的な愛の意)としてベトナム語でカバーしたことをきっかけに、定番バラード化している。このように「ハーフムーン・セレナーデ」は、40年近い長い歳月をかけて広くアジアの人々の生活に根づき、現在進行形で親しまれているのである。
オリジナルにまさるものはない「ハーフムーン・セレナーデ」
河合奈保子は「ハーフムーン・セレナーデ」の後も意欲的な音楽活動を続けたが、1996年に結婚し、翌年に出産を控え芸能活動を休止。2006年にiTunes Music Storeで自作ピアノ作品集『nahoko 音』を発表し、それがCD化されたこともあったが、それさえ今や幻のようである。
復帰のオファーは何度もあったろうが、ボーカリストとしてもソングライターとしても、本格的に表舞台に戻ることはなかった。それは本人の強い意思によるものなのだろう。それにしても、もし河合奈保子がミュージシャンとしての活動を続けていたら、どれほどの優れた楽曲を残していただろうか。
繰り返しになるが、「ハーフムーン・セレナーデ」は、国内ではビッグヒットにはならなかった。しかし、時を超え、国境を超え、今日も世界のどこかで誰かに歌われている。本稿を読んで、 “え、そんな曲があるの?” “どれほどいい曲なのか” と思った方は、ひとまずYouTubeを確認してほしい。所属レコード会社だった日本コロムビアが「ハーフムーン・セレナーデ」の本人歌唱動画をアップしている。各国の数多くのシンガーが歌っているが、やはりオリジナルにまさるものはない。この曲の魅力に触れるのに、遅すぎることはない。