認知症で大切な人から忘れられる理由とは?「記憶が失われる順番」と対処法
「お母さん、私のこと、わかる?」
施設に入所している母を訪ねた際、多くの家族がこの言葉を飲み込んでいます。
心の中でつぶやくこの問いかけには、「忘れられたくない」という切実な願いと、「もう覚えていないかもしれない」という深い不安が込められています。
家族の誰もが、認知症の進行とともに訪れるかもしれないこの瞬間を恐れているのです。
認知症により大切な家族を忘れられていく過程は、介護する側にとって最もつらい経験の一つです。長年共に歩んできた思い出や、何気ない日常の記憶が、少しずつ相手の中から消えていくことに、深い喪失感を覚えます。
特に、「自分のことだけは忘れないでほしい」という願いが叶わないとき、その悲しみは何物にも代えがたいものとなります。
この記事では、なぜ認知症の人は大切な人から忘れていくのか、その理由と対応方法について、医学的な根拠と実際の体験例を交えながら解説していきます。
認知症による記憶喪失には、実は科学的な理由があり、それを理解することは、家族の心理的な負担を和らげる一助となるかもしれません。また、記憶は失われても、絆は別の形で続いていくことがあるという希望についても、お伝えしていきたいと思います。
認知症で大切な人を忘れる理由とメカニズム
認知症による記憶障害は、単なる物忘れとは異なります。脳の神経細胞が損傷を受けることで、新しい記憶を形成する能力が低下し、すでにある記憶も徐々に失われていきます。
特に、身近な家族を認識できなくなる症状には、主に「記憶障害」と「見当識障害」という2つの要因が関係しています(後述します)。
これらの症状は、認知症の種類や進行度によって現れ方が異なりますが、多くの場合、アルツハイマー型認知症では比較的ゆっくりと進行し、レビー小体型認知症では比較的早い段階から家族の認識に影響が出ることが知られています。
記憶が消えていく順序とそのプロセス
人間の記憶は、「記銘」(情報を覚える)、「保持」(記憶を維持する)、「想起」(必要なときに思い出す)という3つの段階で形成されます。認知症ではこれらの機能が順番に低下していきます。
まず最初に影響を受けるのが「短期記憶」です。数分から数日の出来事を覚えておくことが難しくなり、同じ質問を繰り返したり、食事をしたことを忘れたりする症状として現れます。
次に失われていくのが「近時記憶」です。
数か月単位の記憶が徐々に薄れていき、最近の出来事や新しく知り合った人の顔と名前を覚えることが困難になります。その後、「エピソード記憶」と呼ばれる個人的な体験の記憶にも影響が及びます。
家族旅行の思い出や、子どもの結婚式の記憶なども、少しずつ曖昧になっていきます。
一方で、「意味記憶」(言葉の意味や一般的な知識)や「手続き記憶」(自転車の乗り方など、体で覚えた動作)は比較的長く保たれる傾向にあります。このため、認知症が進行しても、長年続けてきた習慣的な動作や、若い頃に習得した技能は最後まで残ることがあります。
なぜ大切な人ほど早く忘れられるのか
一見矛盾するように思えますが、大切な家族ほど早く忘れられてしまう理由があります。
認知症では新しい記憶から失われていく特徴があるのですが、現在一緒に暮らしている家族の記憶は、まさに「新しい記憶」として日々更新されているためです。
これは、記憶を司る脳の「海馬」という部分の機能低下が関係しています。
海馬は大脳辺縁系に位置する部位で、新しい記憶の形成において中心的な役割を担っています。特に「エピソード記憶」と呼ばれる体験の記憶を、一時的な記憶から長期的な記憶へと変換する働きがあります。認知症、特にアルツハイマー型認知症では、この海馬が最も早期に障害される部位の一つとなります。
海馬の機能が低下すると、新しい情報を長期記憶として定着させることが困難になります。そのため、「昨日誰と会ったか」「さっき何を食べたか」といった最近の出来事が記憶として残りにくくなります。
現在の家族との関わりも、まさにこの「新しい記憶」として日々更新されるべき情報なのです。しかし、海馬の機能低下により、これらの新しい記憶が長期記憶として保存されにくくなり、結果として身近な家族の認識に影響が出やすくなります。
一方で、海馬の障害を受ける前に形成された古い記憶は、すでに脳の別の部位(大脳皮質など)に保存されているため、比較的保たれやすい傾向にあります。このため、若い頃の思い出や、遠い過去の出来事は鮮明に覚えているのに、目の前の家族がわからないという状況が起こるのです。
また、認知症の方は若い頃の記憶に戻っていることが多く、その時代の記憶と現在が混在することで、目の前にいる家族を違う人物として認識してしまうことがあります。
例えば、50代の息子さんを「夫」として認識したり、孫を「自分の子ども」として認識したりするケースです。これは単なる混乱ではなく、その方の中では現実の一部となっているため、訂正することは逆効果となる場合が多いのです。
記憶障害と見当識障害の違い
認知症による家族の認識の低下には、記憶障害と見当識障害という2つの異なるメカニズムが関与しています。
記憶障害は、出来事や人物の記憶そのものが失われていく症状です。
これに対して見当識障害は、時間や場所、人を正しく認識する能力が低下する症状です。時間の認識から始まり、場所の認識、そして最後に人の認識へと影響が広がっていきます。
たとえば、見当識障害では「今が何時か」「ここがどこか」がわからなくなるところから始まり、やがて「この人が誰なのか」という認識にも影響が出てきます。
特に、施設に入所された方の場合、環境の変化により見当識障害が一時的に悪化することがあります。このため、入所直後は家族のことがわからなくなることがありますが、環境に慣れてくると認識が改善することもあります。
大切な人を忘れていく具体的な症状と事例
認知症の方が家族を忘れていく過程は、一直線ではありません。その日の体調や環境によって変動することもあり、時には驚くほど鮮明に記憶が戻ることもあります。
ここでは、実際の事例を通じて、様々なケースとその特徴を詳しく見ていきましょう。
家族を認識できなくなる状況
最も多いのは、施設に入所している方が面会に来た家族を認識できないケースです。
ある事例では、週に1回の面会に訪れる息子さんに対して「どちら様ですか?」と尋ねる場面が見られました。
また、70代の女性が50代の息子さんを「あなたは私の夫ね」と認識するケースもありました。これは、若い頃の記憶に戻っている状態で、年齢の近い人物と混同してしまう現象です。このような場合、その認識を否定せず、自然な会話を心がけることが重要になります。
記憶が戻ったり消えたりする理由
認知症の方の記憶は、その時々の体調や環境によって大きく変動することがあります。
たとえば、睡眠が十分にとれて体調が良い日は記憶も比較的鮮明になり、家族との会話もスムーズになることがあります。反対に、体調を崩していたり、疲れていたりする場合は、普段よりも認識が低下することが多くなります。
また、環境による影響も大きく、長年住み慣れた自宅では記憶が呼び起こされやすい一方で、病院や施設などの新しい環境では混乱が生じやすくなります。
実際に、自宅では家族のことがよくわかっていても、施設に入所した直後は全く認識できなくなるというケースも珍しくありません。これは、慣れない環境によるストレスが認知機能に影響を与えているためです。
感情の記憶は最後まで残る可能性
認知症により、名前や関係性は忘れてしまっても、その人との関わりで培われた感情の記憶は比較的長く残ることがわかっています。
たとえば、名前は思い出せなくても「この人といると安心する」という感覚は保たれていることが多いのです。
ある介護施設では、認知症の方が家族の名前は忘れていても、家族が来訪すると特別な笑顔を見せたり、穏やかな表情になったりする様子が頻繁に観察されています。
さらに興味深いのは、介護スタッフには見せない感情を、家族に対してのみ表出するケースです。
例えば、普段は穏やかに過ごしている方が、家族の前でのみわがままを言ったり、甘えたような態度を示したりすることがあります。これは、無意識のレベルで家族との特別な関係性が記憶として残っているためだと考えられています。
大切な人に忘れられたときの家族の心構えと対応方法
家族から忘れられることは、介護する側にとって大きな心理的負担となります。
しかし、これは決して絆が切れてしまったことを意味するわけではありません。むしろ、新しい関係性を築くチャンスととらえることで、より良い介護につながることがあります。
忘れられても続く絆の維持方法
認知症の方との関係性を維持するためには、その方の世界に寄り添うことが重要です。
たとえば、何度も同じ質問を繰り返されても、初めて聞いたかのように丁寧に答えることで、その方の不安を和らげることができます。
また、言葉でのコミュニケーションだけでなく、手を握ったり、肩をやさしくさすったりといった温かいスキンシップも効果的です。
特に大切なのは、その時々の感情に寄り添うことです。
認知症の方は、たとえ状況を正確に理解できなくても、周囲の雰囲気や他者の感情を敏感に感じ取ります。穏やかで安心できる環境を整えることで、家族との良好な関係性を維持しやすくなります。
本人の世界観を受け入れる重要性
認知症の方が生きている世界は、私たちの認識している現実とは異なることがあります。
たとえば、亡くなった親が生きていると信じていたり、若かりし頃の記憶の中で生活していたりすることがあります。
このような場合、現実を強要するのではなく、その方の世界観を受け入れることが大切です。現実を正そうとすることは、かえって不安や混乱を招く原因となってしまいます。
家族自身のメンタルケア方法
家族の心理的負担を軽減するためには、介護の役割を一人で抱え込まないことが重要です。
認知症カフェや家族会に参加することで、同じような経験を持つ人々と出会い、気持ちを共有することができます。また、定期的にレスパイトケアを利用することで、家族自身の時間を確保することも大切です。
介護の専門家に相談することも有効な方法の一つです。認知症の症状や進行に関する正しい知識を得ることで、より適切な対応が可能になります。また、必要に応じて心理カウンセリングを利用することで、家族自身の心の健康を保つことができます。
最後に、認知症の方が大切な人を忘れていくプロセスは、決して一方的な「喪失」ではありません。その時々で形を変えながらも、確かな絆は続いているのです。本人の感情に寄り添い、新しい関係性を築いていく姿勢が、家族にとっても前向きな介護につながっていくでしょう。
まとめ
認知症により大切な人から忘れられていくことは、介護する家族にとって深い悲しみを伴う経験です。しかし、これは記憶を保持する脳の機能低下による自然な過程であり、決して本人の意思によるものではありません。新しい記憶から失われていく特性により、皮肉にも身近な家族の記憶が早く失われやすいのです。
認知症による記憶障害と見当識障害は、それぞれ異なる形で家族の認識に影響を与えます。記憶障害では出来事や人物の記憶そのものが失われ、見当識障害では時間、場所、人の正しい認識が困難になります。ただし、その進行は一様ではなく、体調や環境によって大きく変動することがあります。
最も重要なのは、名前や関係性を忘れても、感情の記憶は最後まで残る可能性が高いということです。たとえ「誰?」と聞かれても、その方との間に築かれた絆は別の形で存在し続けています。本人の世界観を受け入れ、その時々の感情に寄り添うことで、新たな関係性を築くことができます。
認知症の方が大切な人を忘れていくプロセスは、決して一方的な「喪失」ではありません。その時々で形を変えながらも、確かな絆は続いているのです。本人の感情に寄り添い、新しい関係性を築いていく姿勢が、家族にとっても前向きな介護につながっていくでしょう。